第10話 神官長の疑念
城下町に出るたび、視線を感じるようになっていた。
これまでは、ただ「珍しい客人」として見られていたのだと思う。けれども、ここ数日は、その視線に、明らかに別の色が混じっていた。警戒、と呼ぶには控えめで、興味、と呼ぶには硬い。たぶん、その中間の何か。
俺たちは、いつものようにパン屋のヘナの店に立ち寄り、いつもの固焼きパンを買って、市場を一周してから、拠点に戻る予定だった。
その途中、広場の一角で、人だかりができていた。
黒い長衣を着た若い神官が、石段の上に立って、何かを話している。声は決して大きくないが、よく通る声だった。
『……神は、星々の彼方ではなく、私たちの足元の大地と、頭の上の天蓋の間に、確かにおわします。神は、もちろん遠くまで及ばれる。しかし、その御身をいま我らが見ぬうちに、別の何かが「神めいた力」を携えて現れたとき、我らは、それを神と取り違えてはなりません』
俺は思わず、足を止めた。
クレアも、半歩後ろで立ち止まっていた。
『……神は、慎ましく、辛抱強くおわします。容易に、人前に奇跡を顕すことはなさいません。一夜で家を建てる者も、空を渡る者も、それは神ではありません。畏れるべきは、彼らの正体ではなく、彼らの力に頼ろうとする、我らの心の弱さなのです』
誰のことを言っているのかは、聞かずとも分かった。
「司令」
クレアが、小声で言った。
「離れましょう」
「うん」
俺たちは、なるべく目立たないように、人だかりの後ろから引き返した。
市場の入口で、いつもの八百屋の店主が、こちらを見て、一瞬、視線を逸らした。気のせいかもしれない。けれども、たぶん、気のせいではなかった。
拠点に戻ってすぐ、俺はガルウィン卿に手紙を書いた。
現地の便箋に、ガルウィン卿が貸してくれた羽根ペンで、ぎこちない字を綴る。要点は二つ。神官団の動きを把握しているか、と、可能であれば、私から神官長と直接話したい、ということ。
期限までは、あと数日しかない。けれども――いや、だからこそ、だった。帝国が動き出す前に、この国の内側の亀裂を、少しでも減らしておきたかった。外の敵と戦っている最中に、内側で足元が割れるのが、いちばん怖い。
夕方、騎馬の使者が、ガルウィン卿からの返書を持ってきた。
『陛下にもお伝え申し上げました。期限も迫っておりますゆえ、急ぎの手配となりますが、明日の午後、神殿の小堂にて、ラウスト神官長と二人きりでのお話ができるよう、こちらにて整えました。
なお、本件は、陛下と私のみの預かりとし、騎士団長や宰相にはひとまず伝えておりません。神官団の動きを、表立って政治の議題に上げることは、現段階では避けたく存じます。
葉山殿のご賢察をお願い申し上げます。』
ガルウィン卿の判断は、慎重で、的確だった。
俺はクレアに手紙を見せた。
「私は同行しますか」
「いや、俺だけで行ってくる」
「分かりました」
「神官長は、たぶん、二人だけで話すほうが、本音を見せてくれる気がする」
「同感です」
翌日の午後、神殿の小堂は、思っていたよりも静かな場所だった。
石造りの円形の部屋。中央に、低い祭壇。祭壇には、月の意匠と、麦の穂の意匠があしらわれている。月と麦――王家の紋章と、同じ意匠だった。
窓は高い位置に小さく開いており、午後の光が、斜めに差し込んでいた。
ラウスト神官長は、すでに祭壇の前の長椅子に座っていた。彼は、俺が入ってきても、立ち上がらなかった。
『お時間を、ありがとうございます』
俺は、長椅子の少し離れた端に、腰を下ろした。
しばらくの間、彼は何も言わなかった。
俺も、急がないことにした。
やがて、彼は、低い声で口を開いた。
『一つ、お尋ねしたい』
『どうぞ』
『あなた方は、ご自身の軍勢を、神と称される気はおありか』
単刀直入な問いだった。
『……ありません』
『では、神より遣わされた使い、と称される気は』
『それも、ありません』
『では、何者として、この国に居られるおつもりか』
俺は、しばらく考えてから、答えた。
『遠くから来た、ただの旅人として、です』
『旅人は、家を一夜で建てません』
神官長の声に、わずかに棘があった。
『仰る通りです』
『であれば、あなた方は、ただの旅人ではない』
『はい。けれども、神でも、神の使いでも、ありません。私たちは、私たち自身の道具を持って、私たち自身の知恵で、私たち自身のできる範囲のことをしている、ただの人間です』
神官長は、長い沈黙の後で、ゆっくりと言った。
『言葉では、そうでありましょう。けれども、目に映るものは、別のことを語ります。空を渡る船、人型の機械、そして、若き女王陛下の御心のうちに棲み始めた、新たな信頼。これらは、すべて、あなた方が引き起こしたものだ』
『それは、私たちが、望んだことではないかもしれません。けれども、起こってしまったことの責任は、引き受けなくてはならないと思っています』
神官長は、俺の顔を、はじめて、まっすぐに見た。
猜疑心の強い、しかし、決して愚かではない目だった。
『神官団は、王家とともに、この国をここまで支えて参りました。神官団の役目は、王家を補佐することではなく、王家が暴走したとき、これを諌めることにあります。私が陛下のお心を案じるのは、私の職務にございます』
『お役目は、よく分かります』
『であれば、なぜ、神官団に対して、最初に挨拶に来なかった』
その言葉には、つよい不満ではなく、むしろ、淡い寂しさのようなものがあった。
『遅れたことは、お詫びいたします』
俺は深く頭を下げた。
『私たちは、まずは王家にご挨拶をすべき、と判断しました。神官団については、その後で、改めて伺うべきとも考えていました。けれども、それは私の認識の浅さでありました。この国の中で、神官団が果たしておられる役割の重さを、私はまだ、十分に理解しておりません』
ラウスト神官長は、しばらく俺を見つめていた。
彼は、ほんの少しだけ、息を吐いた。
話は、それからしばらく、続いた。
神官長は、信仰の話を、決して説教めいた語り口ではなく、彼自身の言葉として話してくれた。
月は、夜にも民を見守る。麦は、民の暮らしを養う。神官団は、その月と麦の意味するところ――王家の務め――を、王家が見失わないように、常に隣にいる存在である。だからこそ、王家以外の力が、王家の隣に座ることを、神官団は、警戒する。それは、神官団が偉ぶるからではなく、王家が、自分以外の何かに、魂を寄せてしまうことを、おそれるからだ。
俺は、黙って、聞いていた。
話を聞き終えてから、俺は答えた。
『陛下のお心を、私たちが奪うようなことが、絶対に起こらないようにいたします。私たちのお力をお貸しするのは、あくまで陛下が、ご自身の判断でお決めになるとき、ということを、約束いたします』
『約束は、難しい言葉です』
『はい。その通りです』
『けれども、本日、お話を伺えてよかった』
神官長は、立ち上がった。
『あなたを、まだ信用してはおりません。その点は、お含みおきいただきたい』
『承知いたしました』
『けれども、あなたの言葉には、少なくとも、誠実の重みは、感じました』
彼は、祭壇に向かって、軽く頭を下げた。
『この国を、共に、苦しませず、間違わせず、支えていただければ』
『努力いたします』
神官長は、長衣の裾を整えると、ゆっくりと、小堂を出ていった。
あとに残された俺は、しばらくの間、長椅子に座ったまま、祭壇の月と麦の意匠を見つめていた。
拠点に戻った俺の顔を見て、クレアは、何も訊かずに、お茶を淹れてくれた。
「どうでしたか」
「全部は、無理だったけど」
「ええ」
「思っていたよりは、話せた」
「それで、十分ですね」
彼女は、テーブルにカップを置きながら、小さく、ほんとうに小さく、口元を緩めた。
窓の外、夕日が城壁に長く影を落としていた。
神殿の鐘が、いつもの時刻に、二度、鳴った。
その音が、今日はいつもより、ほんの少しだけ、静かに響いた気がした。
その日の暮れ、王都の西門から、一騎の使者が発った。
鞍の革袋には、エリアーナの返書が収められている。属州にも、連邦にも、加わらない。ただし、対等の席での対話には、いつでも応じる――短い、けれども、この国の背骨のような一通だった。
夕闇の中を西へ遠ざかる騎影を、俺たちは、ドローンの映像で、黙って見送った。
期限まで、あと一日。




