第4話「俺も立派なおっさんだ」
金曜日。
本来なら今頃――。
サウナにいるはずだった。
「小山さん、すみません!」
「はい?」
嫌な予感がした。
金曜日。
夕方。
そして、申し訳なさそうな顔。
この三つが揃って、いい話だった試しがない。
「先方から連絡があって……」
「…………」
やっぱりか。
トラブル発生。
俺は時計を見る。
18時21分。
まだ間に合う。
そう思っていた。
――19時。
まだ会社。
――20時。
まだ終わらない。
そして。
「…………終わった」
時計は21時を回っていた。
サウナ?
無理だ。
今から行ったところで、ゆっくりできない。
それ以上に――。
ぐぅぅぅ……。
「腹減った……」
昼から、まともなものを食べていない。
完全に空腹だ。
今日は帰ろう。
◇ ◇ ◇
家に着く。
ネクタイを外す。
上着を脱ぐ。
「疲れた……」
ソファへ倒れ込みたい。
だが。
その前に。
「風呂だな」
今日はサウナに行けなかった。
ならせめて、身体だけでも温めたい。
湯船にいつもより熱めのお湯を張る。
身体を洗って――。
ザブン。
「っっっ……!」
熱い。
ちょっと熱くしすぎたか?
まあいい。
ゆっくり身体を沈める。
「…………はぁぁぁ」
これはこれで悪くない。
サウナじゃない。
水風呂もない。
外気浴もない。
でも。
今日の俺には、これで十分だ。
肩まで浸かる。
固まっていた身体が、少しずつ緩んでいく。
仕事のことも考えない。
今日のトラブルも。
月曜日のことも。
今だけは、どうでもいい。
「…………」
ぐぅぅぅ……。
腹が鳴った。
「そうだな」
今日は整うより、こっちが先らしい。
湯船から上がる。
身体を拭く。
さっぱりした。
完璧じゃない。
でも。
「よし」
ここからは――。
……いや。
今日はあの言葉を使う気分じゃない。
整ってないしな。
「とにかく飯だ」
◇ ◇ ◇
冷蔵庫を開ける。
さて。
何がある?
「…………」
ちくわ。
蒲鉾。
ウインナー。
牛乳。
野菜も少し残っている。
戸棚を開ける。
味噌味のインスタントラーメン。
「…………」
頭の中で、食材がつながった。
味噌。
牛乳。
野菜。
ウインナー。
蒲鉾。
ちくわ。
「いけるな」
今日はこれだ。
味噌ラーメン。
ただし――。
そのままでは食わない。
「味噌ちゃんぽんにするか」
まずは鍋。
湯を沸かす。
野菜。
ウインナー。
蒲鉾。
ちくわ。
――グツグツグツ。
いい。
もうこの時点で、ただのインスタントラーメンじゃない。
麺を入れる。
ほぐす。
そして――。
牛乳。
「入れすぎるなよ……」
少しずつ。
スープが白く濁っていく。
そこへ付属の味噌スープ。
混ぜる。
ふわっと味噌の香りが立った。
「おお……」
味を見る。
「…………うん」
味噌のコク。
牛乳のまろやかさ。
ウインナーの脂。
練り物の旨味。
野菜の甘さ。
「ちゃんぽんじゃん」
いや。
もちろん、本物のちゃんぽんとは違う。
そんなことは分かっている。
だが。
今日の俺が食いたいものには、かなり近い。
煮込んでいる間に――。
「もう二品いけるな」
蒲鉾を取り出す。
切る。
皿へ。
わさび。
醤油。
以上。
板わさ。
「簡単」
次。
ちくわ。
キュウリを細く切る。
穴へ。
ググッ。
「……入れすぎた」
ちょっと太かった。
無理やり押し込む。
入った。
切る。
ちくきゅう。
完成。
「…………」
テーブルを見る。
味噌ちゃんぽん。
板わさ。
ちくきゅう。
豪華じゃない。
高級でもない。
でも。
「いいじゃん」
冷蔵庫からビール。
今日はグラスすらいらない。
缶のまま。
――プシュッ。
「お疲れ、俺」
ゴクッ。
ゴクッ。
「っはぁぁ……!」
これだ。
今日一日。
俺が欲しかったのは、これだ。
まず板わさ。
蒲鉾にわさびを少し。
醤油。
パクッ。
「…………うま」
ビール。
ゴクッ。
次はちくきゅう。
ポリッ。
ちくわの旨味。
キュウリの瑞々しさ。
またビール。
「…………」
ふと思う。
板わさ。
ちくきゅう。
子供の頃。
これを見てテンションが上がった記憶なんてない。
蒲鉾?
ちくわ?
他にもっと美味いものあるだろ。
たぶん、そんなことを思っていた。
それが今はどうだ。
板わさを一つ。
ビール。
ちくきゅうを一つ。
ビール。
「…………美味いな」
しみじみ思う。
派手じゃない。
脂が多いわけでもない。
味が濃いわけでもない。
なのに。
酒を飲みながら食べると、妙に美味い。
「俺も……」
ちくきゅうを見つめる。
「立派なおっさんになったな」
42歳。
板わさとちくきゅうで幸せを感じる男。
悪くない。
むしろ。
結構好きだ。
さて。
本命。
味噌ちゃんぽん。
丼から湯気が立っている。
箸を入れる。
野菜をかき分ける。
麺を持ち上げる。
――ズズズッ!
「っはぁ……!」
染みる。
味噌。
牛乳。
野菜。
練り物。
ウインナー。
全部の旨味がスープに溶けている。
もう一口。
――ズズズッ!
「うまっ」
腹が減っているから?
もちろん、それもある。
でも。
それだけじゃない。
疲れ切った金曜日。
サウナにも行けなかった。
帰宅は遅くなった。
そんな夜に。
冷蔵庫にあるものだけで作った、なんちゃって味噌ちゃんぽん。
「こういうのでいいんだよな」
いや。
違う。
こういうので――。
「今日は、これがいい」
ビールを一口。
板わさ。
ちくきゅう。
そしてまた麺。
豪華な金曜日じゃない。
予定していた金曜日でもない。
それでも。
美味い。
だったら――。
「まあ、いいか」
今日のトラブルも。
サウナに行けなかったことも。
今だけは忘れる。
最後のスープを飲む。
「……ごちそうさん」
腹は満たされた。
時計を見る。
もう遅い。
「明日だな」
明日はサウナへ行こう。
時間なんて気にせず、ゆっくり3セット。
しっかり整えて。
帰りにスーパーへ寄る。
最高のつまみを作る。
酒は何にする?
ビール?
焼酎?
日本酒?
「…………」
そこで部屋を見渡した。
脱ぎっぱなしの服。
テーブルの上の郵便物。
洗面所には洗濯物。
「…………掃除しないとな」
現実は、なかなか俺を自由にはしてくれない。
まあいい。
掃除して。
洗濯して。
サウナに行って。
美味いものを作って。
酒を飲む。
「……完璧な土曜日じゃないか」
空になったビール缶を持って立ち上がる。
今日も予定通りにはいかなかった。
でも。
予定通りじゃないから、不味い夜になるわけじゃない。
美味いは正義。
そして――。
「板わさで飲めるようになったら、おっさんだな」
そう呟いて。
最後に残しておいた一切れを、口へ放り込んだ。




