第3話「刺身。そのままでいいのか?」
俺は月に何度か、仕事で出張に行く。
メーカー営業という仕事柄、これは仕方がない。
新幹線。
電車。
レンタカー。
慣れているとはいえ、移動は疲れる。
商談だって気を使う。
できることなら、週末くらい家から出たくない。
だが――。
出張にも、一つだけ楽しみがある。
「さて……」
仕事を終えた俺は、土産物売り場にいた。
今回の出張先は――新潟。
新潟。
言わずもがな。
酒処だ。
「これは買うしかないだろ」
俺は出張へ行くと、その土地の酒を一本買って帰ることにしている。
もちろん仕事が目的だ。
断じて、酒を買うために出張しているわけじゃない。
……たぶん。
棚には日本酒がずらり。
甘口。
辛口。
純米。
吟醸。
「迷うな……」
こういう時間は嫌いじゃない。
むしろ好きだ。
散々迷った末、一本を手に取る。
辛口。
今回はこれだ。
「週末まで待ってろよ」
新潟から連れて帰る一本が決まった。
◇ ◇ ◇
木曜日。
仕事帰り。
いつものスーパー。
精肉コーナーを通り過ぎる。
今日は肉じゃない。
鮮魚コーナー。
「さて……」
刺身。
いい。
だが、今日は最初から決めていた。
パックの刺身じゃない。
柵だ。
並んでいる刺身用の柵を眺める。
その中から一つを手に取る。
「……お前なら、あの酒に合いそうだな」
何の根拠があるのかと聞かれたら困る。
勘だ。
でも、こういうのは勘でいい。
今週の主役は、新潟から連れて帰った日本酒。
こいつをどう美味く飲むか。
そのための相棒として、刺身用の柵をカゴに入れた。
問題は――。
「どう食うかな」
普通に刺身?
それだけじゃ、少しつまらない。
まあいい。
決めるのは明日だ。
金曜日。
サウナを出た俺が決めればいい。
◇ ◇ ◇
そして金曜日。
仕事を終え、いつものサウナへ。
身体を洗う。
湯船。
サウナ。
水風呂。
外気浴。
いつもの流れ。
1セット。
2セット。
3セット。
今日は熱波イベントもない。
特別なことは何もない。
だからこそ、いい。
汗を流す。
水風呂に入る。
外気浴の椅子に身体を預ける。
「…………はぁ」
夜風が気持ちいい。
目を閉じる。
頭に浮かぶのは――。
仕事。
ではない。
冷蔵庫で待っている刺身用の柵。
そして。
新潟から連れて帰ってきた、あいつだ。
「…………」
我ながら、食い意地が張っている。
でも。
それでいい。
ゆっくり目を開ける。
「……整った」
身体を起こす。
腹も減った。
さぁ――。
「俺の時間だ」
◇ ◇ ◇
家に着く。
まず冷蔵庫を開ける。
いた。
新潟から連れて帰ってきた日本酒。
その隣には、昨日買った刺身用の柵。
「さて……」
両方を取り出す。
問題は刺身だ。
そのまま切って、わさび醤油。
間違いない。
絶対に美味い。
だが――。
「全部それでいいのか?」
せっかくの金曜日。
せっかくの地酒。
同じ魚を最後まで同じ味で食う。
それはそれで贅沢だ。
でも。
今日はもう少し遊びたい。
「よし」
決めた。
三つに分けよう。
まず一つ目。
普通の刺身。
二つ目。
塩とネギ。
そして三つ目は――。
「なめろうだな」
決まった。
まずは刺身。
柵に包丁を入れる。
スッ。
スッ。
皿に並べる。
わさび。
醤油。
「まずは王道からだ」
そして。
待ってました。
日本酒。
封を開ける。
トクトクトク……。
グラスへ注ぐ。
透明な酒。
まずは一口。
「…………っ」
辛口。
すっと入る。
後味が軽い。
「いいな」
そして刺身。
わさびを少し。
醤油。
パクッ。
「…………うん」
そこへ日本酒。
クイッ。
「……合う」
当たり前だ。
魚。
醤油。
わさび。
日本酒。
「何百年、この組み合わせやってると思ってんだ」
誰に言っているのかは分からない。
だが。
王道には王道である理由がある。
美味い。
ただ――。
「今日は、ここからだ」
二品目。
刺身を少し粗めに叩く。
トン。
トン。
トン。
細かくしすぎない。
食感は残す。
軽く塩。
皿へ盛る。
そして、その上に白髪ネギ。
一つかみ。
「…………」
まだだ。
もう一つかみ。
「これくらいだな」
刺身が見えなくなりそうなくらい。
ネギは多い方がいい。
小さなフライパンを取り出す。
ごま油。
火にかける。
じっと待つ。
やがて――。
うっすら煙が立つ。
「……今だ」
熱々のごま油を、白髪ネギの上へ。
――ジュワアアアアッ!!
「おおっ……!」
ネギが鳴く。
一瞬で香りが立った。
ごま油。
焼けたネギ。
その下には、冷たい刺身。
「これは……」
もう美味い。
食べてないけど分かる。
箸を入れる。
熱の入ったネギ。
その下から刺身。
一緒につまむ。
パクッ。
「…………っ!」
最初にごま油。
次にネギ。
塩。
そして魚。
表面は少しだけ熱が入り、中は冷たい。
「いいな、これ……!」
刺身とは全然違う。
同じ魚なのに。
別物だ。
そして。
日本酒。
クイッ。
「…………はぁ」
思わずグラスを見る。
「お前、さっきより本気出してない?」
もちろん返事はない。
もう一口。
ネギ。
刺身。
ごま油。
日本酒。
「危ないな……」
酒が進む。
だが。
まだ終わりじゃない。
三品目。
残しておいた刺身をまな板へ。
今度はしっかり叩く。
トントントントン。
そこへ味噌。
ネギ。
生姜。
さらに叩く。
トントントン。
混ぜる。
叩く。
粘りが出てくる。
「よし」
皿へ。
なめろう。
完成。
「……地味だな」
見た目は、さっきのネギとごま油ほど派手じゃない。
でも。
こういうやつが強いことを、俺は知っている。
箸で少しだけ取る。
パクッ。
「…………」
味噌。
魚の旨味。
ネギ。
生姜。
全部が混ざっている。
派手じゃない。
だが。
濃い。
「これは……」
日本酒を一口。
「酒泥棒だな」
なめろうを少し。
日本酒。
また少し。
日本酒。
これでいい。
いや。
これがいい。
一気に食べる必要なんてない。
ちびちび食べる。
ちびちび飲む。
42歳。
こういう時間が、妙に楽しくなってきた。
「…………」
ふとテーブルを見る。
最初の刺身。
ネギと熱々ごま油。
なめろう。
全部、同じ柵から作った。
なのに。
「全然違うな」
普通の刺身には、普通の刺身の良さがある。
ネギとごま油には、香りと温度の面白さがある。
なめろうには、酒を飲ませる力がある。
そして。
その全部を、新潟から連れて帰った酒が受け止めてくれる。
「いい土産買ったな、俺」
グラスへ最後の一杯を注ぐ。
出張は疲れる。
移動は長い。
商談だって気を使う。
予定通りにいかないことだってある。
正直。
行きたくない日もある。
でも――。
なめろうを少しだけ箸で取る。
口へ。
そして最後の日本酒。
クイッ。
「…………うまい」
グラスを置く。
こういう土産があるなら。
「出張も、悪くないな」
もちろん。
来週も行きたいかと言われれば――。
「それは別の話だけど」
一人で笑う。
三枚の皿は、もう空だ。
酒も空。
ちょうどいい。
今夜も満足した。
美味いは正義。
そして――。
「地酒は、持って帰るに限るな」
俺の金曜日は、今日も美味い。




