第2話「あれだけ汗をかいたのに。」
金曜日。
時計を見る。
17時12分。
「…………」
パソコンの画面を見る。
もう一度、時計を見る。
17時13分。
「小山さん」
「はい?」
隣の席から声をかけられた。
「今日、なんか予定あるんですか?」
「なんで?」
「さっきから時計ばっかり見てるから」
「……まあ、大事な予定がある」
「へぇ」
それ以上は聞いてこなかった。
助かる。
別にデートじゃない。
誰かと飲みに行くわけでもない。
だが――。
俺にとっては重要な予定だ。
今日は月に一度。
行きつけのサウナに、熱波師が来る。
19時から。
絶対に間に合わせる。
これは俺の欲望だ。
「小山さん、この見積もりなんですけど」
「見るよ」
仕事は仕事。
そこはちゃんとやる。
だが。
今日だけは残業するつもりはない。
いや。
今日“も”か。
とにかく終わらせる。
メール。
見積もり。
来週の予定。
電話。
一つずつ片付ける。
そして――。
18時03分。
「よし」
パソコンを閉じた。
「お先に失礼します」
さぁ。
行こう。
◇ ◇ ◇
いつものサウナ。
だが、今日は少し雰囲気が違う。
イベント開始10分前。
サウナ室の前には、すでに人が集まっている。
「やっぱり人気だな……」
俺もその列へ並ぶ。
時間になる。
サウナ室へ。
いつもより人が多い。
上段に座る。
しばらくして、熱波師が入ってきた。
手には大きなタオル。
「それでは始めます!」
待ってました。
サウナストーンへ水がかけられる。
――ジュワァァァ……。
一気に蒸気が立ち上がる。
来る。
熱が上から降りてくる。
「…………っ」
熱い。
いつものサウナとは違う。
肌がピリピリする。
そして――。
バサッ!
熱波師がタオルを振る。
熱い空気が全身へ叩きつけられた。
「っっっ……!」
熱い。
いや。
痛い。
もう一度。
――バサッ!
「くぅ……!」
何やってるんだ、俺。
一週間働いて。
金曜日の夜に。
わざわざ金を払って熱い部屋に入り。
さらに熱い風を浴びている。
普通に考えれば意味が分からない。
だが。
――バサッ!
「…………っ!」
これだよ。
これを待ってたんだよ。
額から。
首から。
腕から。
汗が噴き出す。
最後の熱波を受ける。
「ありがとうございました!」
熱波師の声。
拍手。
そして俺はサウナ室を出た。
掛け湯で汗を流す。
そのまま水風呂へ。
ザブン。
「――――っ!」
冷たい。
最高だ。
さっきまで熱波に焼かれていた身体が、一気に冷えていく。
水風呂を出る。
そして外気浴。
椅子へ身体を預けた。
「…………はぁぁぁ」
夜風。
身体が軽い。
頭の中も空っぽ。
仕事のことなんて、もうどうでもいい。
目を閉じる。
しばらく、そのまま。
そして。
ゆっくり目を開けた。
「……整った」
今日はいつも以上だ。
完全に仕上がった。
立ち上がる。
腹が減った。
猛烈に。
さぁ――。
「俺の時間だ」
◇ ◇ ◇
帰り道。
俺は考えていた。
昨日買った食材は――。
豆腐。
豚ひき肉。
長ネギ。
さて。
どうする。
豆腐なら湯豆腐?
いや。
今日は違う。
麻婆豆腐。
「…………」
悪くない。
だが普通の麻婆豆腐じゃない。
今の俺は何を欲している?
熱波を浴びた。
汗をかいた。
水風呂に入った。
身体は完全に整っている。
普通なら、さっぱりしたものが食いたくなるのかもしれない。
でも。
「……辛いもの食いてぇな」
思わず笑う。
あれだけ汗をかいたのに。
俺はまだ汗をかきたいらしい。
だったら決まりだ。
今日は――。
麻辣。
しっかり痺れる麻婆豆腐だ。
家に着く。
冷蔵庫を開ける。
豆腐。
豚ひき肉。
長ネギ。
そして――。
「あ」
奥にラップで包まれたものを見つけた。
チャーシュー。
先日、ラーメンに乗せた残りだ。
「お前、いたな」
決まった。
麻婆豆腐。
それとネギチャーシュー。
酒は――。
「今日はハイボールだな」
まずはネギチャーシュー。
長ネギを切る。
チャーシューも細切り。
ボウルへ。
ごま油。
少しの醤油。
ラー油。
和える。
「よし」
一品目。
完成。
早い。
こういうのでいい。
いや。
こういうのがいい。
次。
麻婆豆腐。
フライパンを火にかける。
油。
豚ひき肉。
――ジュウウウッ!
肉の色が変わっていく。
ニンニク。
生姜。
豆板醤。
炒める。
一気に香りが立つ。
「来たな……」
辛い香り。
もう鼻が反応している。
そこへ甜麺醤。
醤油。
鶏ガラスープ。
豆腐。
グツグツグツ……。
赤い。
実にいい色だ。
だが。
まだ足りない。
今日欲しいのは、ただの辛さじゃない。
舌が痺れる――。
「麻辣だ」
花椒。
今日は遠慮しない。
しっかり入れる。
香りが変わった。
「……これだよ」
最後に水溶き片栗粉。
とろみがつく。
ラー油を少し。
刻んだ長ネギ。
完成。
「よし」
あとは酒だ。
グラスいっぱいに氷を入れる。
カラン。
カラン。
ウイスキー。
そして炭酸。
――シュワァァァ……。
炭酸を潰さないように、軽く一度だけ混ぜる。
「…………完璧」
キンキンのハイボール。
まずは――。
ゴクッ。
「っはぁぁぁ……!」
炭酸。
ウイスキー。
冷たい。
「これだな」
そしてネギチャーシュー。
箸でつまむ。
パクッ。
「うまっ」
チャーシューの脂。
ネギ。
ごま油。
ラー油。
そこへハイボール。
ゴクッ。
「……強いな、こいつ」
麻婆豆腐が主役のつもりだった。
だが。
ネギチャーシュー。
お前もなかなかやる。
もう一口。
ハイボール。
「危ない危ない」
このままだと、麻婆豆腐に行く前に飲み終わる。
グラスを置く。
主役だ。
レンゲを持つ。
麻婆豆腐をすくう。
豆腐。
ひき肉。
赤いタレ。
口へ。
「…………っ!」
熱い。
次に辛い。
そして――。
「っっっ、痺れる!」
来た。
花椒だ。
舌がビリビリする。
額から汗が出る。
首筋にも。
「ははっ……!」
あれだけサウナで汗をかいたのに。
また汗をかいている。
でも。
止まらない。
もう一口。
辛い。
痺れる。
もう一口。
そして――。
ハイボール。
ゴクッ。
「っっっはぁぁぁ!」
冷たい炭酸が、熱くなった口の中を一気に流していく。
「最高だろ、これ……」
熱波。
麻辣。
ハイボール。
今日は刺激しかない。
それでいい。
いや。
今日の俺には、それがいい。
ネギチャーシュー。
麻婆豆腐。
ハイボール。
また麻婆豆腐。
またハイボール。
気がつけば、グラスは二杯目。
そして麻婆豆腐も残りわずか。
「…………」
レンゲを止める。
皿の底を見る。
豆腐はあと少し。
ひき肉。
花椒。
そして。
真っ赤なタレ。
「…………」
このまま食べて終わる?
いや。
違う。
俺は立ち上がった。
冷蔵庫を開ける。
ご飯。
「これだ」
ただし。
一膳はいらない。
腹いっぱいになりたいわけじゃない。
もう42だ。
欲しいのは――。
「締めだな」
ほんの少し。
二口。
いや。
三口分くらい。
それでいい。
残った麻婆豆腐へ、ご飯を投入。
レンゲで混ぜる。
白い米が赤いタレを吸っていく。
ひき肉。
崩れた豆腐。
花椒。
全部が米に絡む。
「……これは反則だろ」
レンゲですくう。
口へ。
「…………っ!」
うまい。
さっきまで酒のつまみだった麻婆豆腐が、一瞬で飯になった。
麻辣の辛さ。
花椒の痺れ。
ひき肉の旨味。
そこへ――米の甘さ。
「合わないわけないよな」
もう一口。
そして最後に。
ハイボール。
ゴクッ。
「っはぁぁぁ……!」
終わった。
完璧だ。
腹いっぱいじゃない。
たぶん、まだ食える。
でも。
「このくらいが、ちょうどいい」
若い頃なら、このまま茶碗一杯。
いや。
麻婆丼にしていたかもしれない。
でも今は。
美味いところでやめる。
それも酒と飯を長く楽しむためには大事だ。
「…………」
少し考える。
「まあ、明日ラーメン食ってるかもしれないけど」
自分で言って笑う。
グラスには、ハイボールが少しだけ残っている。
それをゆっくり飲む。
今日もよく働いた。
よく汗をかいた。
よく食った。
そして。
よく飲んだ。
「……幸せだな」
特別なことなんて何もない。
でも。
それでいい。
美味いは正義。
今週も、最高の週末が始まった。




