第1話「鶏もも肉は触ったら負けだ」
やっと今週も終わった。
時計は、もうすぐ19時。
身体は重い。
肩も凝っている。
一週間分の疲れが、しっかり溜まっていた。
なのに――。
「よし」
気分はやたらと軽い。
理由は簡単。
明日は休みだ。
そして、ここから先は俺の時間。
俺――小山幹也、42歳。
メーカー勤務の営業職。
独身。
そんな俺には、週末に欠かせないものが三つある。
サウナ。
酒。
そして――飯。
始まりは単純だった。
職場と家の間に、たまたまサウナを見つけた。
一週間働いた金曜日。
サウナで汗を流し、家に帰って酒を飲む。
そのうち酒に合う飯を自分で作るようになった。
いつの間にか、それが俺にとって最高の週末になっていた。
「よし。行くか」
仕事を終え、そのままいつものサウナへ向かった。
◇ ◇ ◇
身体を洗う。
湯船で軽く温まる。
そして――サウナ室。
扉を開ける。
ムワッ。
熱気が全身を包んだ。
「……来たな」
今日はドライサウナ。
ここからは自分との戦いだ。
サウナ12分。
水風呂1分。
外気浴20分。
これを3セット。
いつものルーティーン。
1セット目。
まだ仕事のことを考えている。
今日の商談。
取引先からの電話。
来週の予定。
水風呂。
外気浴。
そして2セット目。
だんだん、どうでもよくなってくる。
そして――3セット目。
「…………暑っ」
汗が顎から落ちる。
喉が渇く。
そして。
ぐぅぅ……。
腹が鳴った。
「ははっ」
身体は正直だ。
時計を見る。
もう少し。
まだだ。
ここで出たら、なんとなく負けた気がする。
じっと耐える。
汗が流れる。
喉が水分を求める。
腹が飯を求める。
そして――時間。
「っしゃ……!」
サウナ室を出る。
汗を流して、水風呂へ。
ザブン。
「――っ!!」
冷たい。
だが、それがいい。
火照った身体から、一気に熱が抜けていく。
最後は外気浴。
椅子に身体を預けた。
「…………はぁ」
夜風が肌を撫でる。
気持ちいい。
仕事。
電話。
取引先。
納期。
頭の中にこびりついていた一週間が、少しずつ消えていく。
もう何も考えなくていい。
ただ、風に当たる。
目を閉じる。
そして――。
ゆっくりと目を開けた。
「……整った」
立ち上がる。
腹は減った。
喉はカラカラ。
身体は完全に仕上がっている。
さぁ――。
「俺の時間だ」
ここからが本番。
俺にとっての命の水。
酒。
そして飯の時間が始まる。
◇ ◇ ◇
食材は昨日、木曜日に購入済み。
俺は毎週木曜日、週末の食材を買う。
ただし、その時点で料理までは決めない。
金曜日。
サウナから上がった俺が、そのとき一番食いたいものを作る。
それが俺のルールだ。
家に着く。
冷蔵庫を開ける。
「さて……」
今日のメインは――。
鶏もも肉。
こいつをどうする?
揚げる。
煮る。
焼く。
何でもできる。
「…………焼きだな」
今日は焼きたい。
鶏もも肉を取り出す。
皮にフォークで穴を開ける。
冷たいフライパンに――皮目から。
火をつける。
――ジュ……。
まだ小さな音。
それでいい。
弱火。
じっくり。
ここからは鶏に任せる。
俺には俺の仕事がある。
冷蔵庫を開ける。
ビール。
そして冷凍庫から、キンキンに冷やしたグラス。
「待ってました」
――プシュッ。
この音だ。
トクトクトク……。
黄金色の液体がグラスを満たし、真っ白な泡が盛り上がる。
もう我慢する必要はない。
グラスを持つ。
ゴクッ。
ゴクッ。
「…………うまっ!」
冷たい。
苦い。
そして――うまい。
身体中に染み渡っていく。
「俺、生きてるわ」
誰も聞いていない。
別にいい。
ここは俺の家だ。
フライパンを見る。
――ジュウウウ……。
鶏の皮から、じわじわと脂が出ている。
その脂で皮が揚げ焼きのようになっていく。
いい。
実にいい。
箸を持つ。
ちょっと焼き色を確認したい。
ひっくり返したい。
だが――。
「触るな」
自分に言い聞かせる。
まだ甘い。
鶏もも肉は、触ったら負けだ。
皮はパリパリになるまで、じっくり。
焦りは禁物。
急ぐ理由なんてどこにもない。
俺は6Pチーズの銀紙を剥がした。
パクッ。
チーズをかじる。
そこへビール。
ゴクッ。
目の前では鶏肉が焼けている。
――ジュウウウ……。
「…………最高かよ」
まだ完成すらしていない。
なのに、もう楽しい。
さて。
問題はここからだ。
味をどうする?
甘辛。
悪くない。
塩レモン。
サウナ上がりなら、これも捨てがたい。
それとも――。
「ニンニク醤油……」
ビールを一口。
考える。
今の俺は何が食いたい?
サウナで汗を流した。
水風呂に入った。
外気浴で仕上げた。
今、この身体は何を求めている?
さっぱり?
いや。
「違うな」
今日は――。
「がっつりだ」
決まった。
ニンニク醤油。
小さな器を出す。
醤油。
みりん。
そして――チューブニンニク。
「今日は遠慮しない」
ブチュッ。
しっかり入れる。
混ぜる。
そして、いよいよ鶏もも肉をひっくり返す。
パリッ。
「よし!」
いい。
皮はきつね色。
狙い通りだ。
反対側にも火を通す。
そして最後に――。
合わせておいたタレを、一気に回しかける。
――ジュワアアアアッ!!
「うおっ……!」
一瞬で香りが立った。
焼けた醤油。
みりん。
ニンニク。
そこへ鶏から出た脂が混ざる。
「…………」
これは駄目だ。
失神しそうな香りだ。
間違いない。
絶対に美味い。
タレがグツグツと煮詰まっていく。
鶏肉に絡む。
照りが出る。
「もういいな」
火を止める。
皿に盛る。
完成。
ニンニク醤油の鶏もも焼き。
「いただきます」
箸で持ち上げる。
今日は上品に一口サイズなんてやらない。
大きく――。
ガブッ。
パリッ。
「…………っ!」
まず皮。
パリパリだ。
その直後――肉汁。
そこへニンニク。
醤油。
鶏の脂。
全部が一気に押し寄せてくる。
そして――。
ビール。
ゴクッ。
ゴクッ。
「っはぁぁぁぁ……!」
思わず天井を見上げた。
「あぁ……正解」
これだ。
今日の俺が食いたかったのは、これだ。
もう一口。
ビール。
また鶏。
そしてビール。
止まらない。
誰にも邪魔されない。
テレビから流れる音を聞きながら、ただ食って、飲む。
それだけ。
本当に、それだけなのに。
「最高だな」
金曜日の夜が、ゆっくりと更けていく。
気がつけば、皿にはニンニク醤油のタレだけが残っていた。
「ごちそうさん」
時計を見る。
それからキッチンを見る。
フライパン。
皿。
グラス。
「…………」
洗い物。
面倒だ。
しばらく考える。
「まあ……」
明日は休み。
「片付けは明日でいいか」
冷蔵庫を開ける。
もう一本。
――プシュッ。
ソファに身体を預ける。
サウナに入った。
美味い飯を食った。
酒も美味い。
それで十分だ。
「今日も俺は幸せだ」
誰に聞かせるでもなく呟いて、ビールをもう一口。
結局のところ――。
美味いは正義。
俺の週末は、始まったばかりだ。




