第124話 『王都へ』
セティの足を洗い流し終えたころ、
部屋の空気が、ようやくひとつ息をついた。
白い粉は器の底に沈み、
水面だけがゆらりと揺れている。
クアルトは手を下ろし、
深く、静かに息を吐いた。
「……ひとつ、終わった」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
自分に言い聞かせるような、
あるいは、まだ震える心を落ち着かせるためのもの。
ともかく、一歩踏み出した。
そして、できることを確認した。
なら、あとはひたすら繰り返すのみ。
それが、どれほど遠い道のりだとしても。
セティは、足を抱えるようにして座っていた。
痛みはないそうだ。
けれど、何かが抜けていった感覚だけが残っている。
そんな状態。
不安と安堵が混じった目で、クアルトを見つめていた。
「……軽い、気がする」
小さな声だった。
そっと、むき出しの足を撫でている。
声は小さくても、確かに届いた。
イーアンが胸に手を当て、ほっと息を漏らす。
「よかった……本当によかった……」
アンナは柔らかい笑みを浮かべて、
器の中の白い泥を見つめていた。
その指先はわずかに震えている。
クアルトはセティの前に膝をついた。
「まだ全部じゃない。
胸と……肝臓のあたりが残ってる」
セティはこくりと頷いた。
その目は、さっきより強かった。
「……わかってる」
一番つらかっただろう『咳』。
元凶の胸を軽く押さえている。
クアルトは一瞬だけ目を伏せ、
それから静かに頷いた。
「うん。僕がやる。
全部、抜いてく。
あとは……アンナ、頼む」
「お任せを」
力強く答える。
その言葉に、
イーアンもセティも、
小さく息を吸った。
部屋の空気が、
また少しだけ張りつめる。
けれど、
さっきまでとは違う。
恐怖だけではない。
そこには、
希望の形をした緊張があった。
クアルトは立ち上がり、
次の“抽出”に備えて手を軽く握った。
「……続けよう」
その声は、
静かで、
揺らぎがなくて、
どこか温かかった。
・
・
・
「……全部出せた。
あとは、回復に努めるだけだよ」
セティが服の乱れを直すのを見ないように、
体ごと横を向いて告げる。
原因物質は取り除いた。
傷ついた体組織が回復すれば大丈夫。
セティは胸に手を当て、
ゆっくりと息を吸った。
「……苦しくない。
さっきより、ずっと」
その声はかすれていたが、
確かな実感があった。
イーアンが泣きそうな顔で笑う。
「よかった……本当に……」
アンナは器を抱えたまま、
静かにセティを見つめていた。
銅の瞳に、わずかな光が宿っている。
クアルトは立ち上がり、
額の汗を袖で拭った。
「セティ。
しばらく安静にしてて。
無理はしないで」
「……うん」
短い返事。
けれど、その声には力があった。
クアルトは部屋を出る。
扉が閉まる音が、
やけに大きく響いた。
廊下に出た瞬間、
膝が少しだけ震えた。
「……はぁ……」
壁に手をつき、
深く息を吐く。
抽出は、
思っていた以上に体力を奪う。
精神も削られる。
アンナがそっと隣に立った。
「クアルト様。
お疲れさまでした」
「……ありがとう。
でも、まだ終わってない」
アンナが首を傾げる。
「セティは助かった。
でも……母親も救わないと意味がない」
クアルトはゆっくりと顔を上げた。
「王都に行かないといけないな。
この“砂毒”のこと、
王弟に伝えなきゃいけないし」
ちらり、と廊下の奥に佇むレーデルフィーヌを見た。
イーアンが驚いたように目を見開く。
「王都へ……?
今すぐ、ですか?」
「うん。
全部、報告しないと」
クアルトの声は静かだった。
けれど、その奥には
揺るぎない決意があった。
「セティは……僕が助けた。
でも、まだ他にもいる。
放っておけない」
アンナが小さく頷く。
「では、準備を」
「うん。僕は先に行く。
イーアンは前と同じ、一団の管理を頼む」
ペクンから王都へ向かった時と同じだ。
「は? おまえ、なに言って――」
「一刻を争う。僕は先行する。
君たちは明日の朝、出発してくれ」
騎士団の大部分を置き去りにして、最精鋭で行くということ。
「だったら――」
「母親の治療に行くと言ったら、セティも行きたがる。
病み上がりでの強行軍になるぞ?」
それをさせる気か?
「ぐっ……大丈夫なのか?」
「問題ない」
足の速い乗り物で急いでいく。
それだけのことだと笑って見せた。
敵の大軍を突っ切っていこうということじゃない。
「そう、問題ない」
窓の外に顔を向ける。
廊下の窓から差し込む光が、
ゆっくりと傾いていこうとしていた。
ロマリスの空は、
どこまでも静かだ。
その静けさの中で、
クアルトはひとつだけ心配していた。
「また、王弟に目を付けられるんだろうな」
ぽつりと漏らした声は、
冗談めいているのに、どこか遠かった。
アンナが小さく瞬きをする。
「……それでも、行くのですね」
クアルトは窓の外を見たまま、
ほんのわずかに笑った。
「うん。
行かない理由が、もうないから」
夕陽が廊下の床を細く照らしていた。
その光の中で、
クアルトの影だけが、
少しだけ長く伸びていた。




