第九話 日常(魔物も現れます)
ユミナ、十一歳。
私は森の木の上にいた。
枝に腰掛け、目の前に水属性の魔力で作り出したレンズを浮かべた。青く透明な円盤が、遠くの景色を拡大して映し出す。
――よし、よく見える。
レンズを通して村外れ、森の近くを観察する。そこでは、ガストンと村の警備隊が魔物と戦っていた。
「左だ!」
ガストンの低い声が響く。
警備隊の一人が左に跳ぶ。その直後、巨大な爪が彼がいた場所を薙いだ。地面に深い傷跡が刻まれ、土が舞い上がる。
魔物はワイルドベア。通常の熊の二倍はある巨体。牙は刃物のように鋭く、爪は岩をも砕く。
「包囲を維持しろ!」
ガストンが指示を出す。警備隊員たちが、魔物を取り囲むように配置を取る。剣を構え、盾を掲げ、息を潜める。
「グォォォォッ!」
大気を裂く咆哮に、森が震えた。木の葉が揺れ、鳥たちが一斉に飛び立つ。
標的を定めた魔物が地を蹴った。一歩踏み出すたびに凄まじい音が響き、足元の土が派手に飛び散る。
「避けろ!」
ガストンの声に反応した隊員が地面を蹴って横へと転がる。一瞬遅れて、巨大な影が視界を塗りつぶし、凄まじい風圧とともに駆け抜けていく。
その瞬間、
「今だ!」
右側から別の隊員が斬りかかる。剣が魔物の脇腹を捉える。
しかし……
ザリッ!
硬い毛を削り取り皮膚の表面を傷つける。
「チッ!」
隊員が悔しげに舌打ちした。そのわずかな音に反応した魔物が、猛然と振り返り鋭利な爪を振り上げる。
逃げ場はない。彼は歯を食いしばり、咄嗟に盾を正面へ構え直した。
隊員が盾を構えた瞬間、私の指先が動いていた。風の魔力を盾の表面に薄く押し当てる。見えない緩衝材を貼るように。
ガギィィンッ!
凄まじい衝撃。盾がひしゃげ、吹き飛ばされる。
「うわっ!」
地面に叩きつけられる。肩を押さえ、顔を歪める。
「下がれ!」
ガストンが前に出る。
大剣を両手で構える。
刀身は彼の背丈ほどもある長大な剣。分厚く、重い。並の人間では振り回すことすらできない代物。でも、ガストンの手にかかれば、まるで羽のように軽やかに動く。
魔物が、ガストンに向かって突進する。
地面が揺れる。殺気が迫るが、表情一つ変えず、じっと構えたまま鋭い眼光で魔物を見据える。
「……」
熊が、爪を振り下ろす。
呼応するようにガストンが左に踏み込む。
ブォンッ!
空を切る音と同時に、ガストンの大剣が弧を描く。下から上へ。斜めに。熊の前足を狙った一撃。
ザシュッ!
刃が、魔物の足を斬り裂いた。
「グギャァァッ!」
魔物が悲鳴を上げ、バランスを崩し前のめりになる。
ガストンは、間を置かずに大剣を振り上げ回転する。体ごと剣と共に。遠心力を利用した、重い一撃。
「フンッ」
短い掛け声と共に大剣が魔物の首を狙う。
魔物が咄嗟に頭を下げる。
スバァッ!
刃が、熊の背中を斬る。
「グォォォッ!」
魔物が怒り狂ったように後ろ足で立ち上がり、両腕を振り上げる。
巨大な影が、ガストンを覆う。
「隊長!」
警備隊員が叫ぶ。
ガストンは冷静だった。大剣を地面に突き立て、それを力任せに引き寄せ、反動で身体を横へと飛ばした。
魔物の両腕が、地面に叩きつけられる。
ドゴォォンッ!
地面が砕け、衝撃で土が舞い上がる。
その土煙の中、ガストンが大剣を引き抜き、魔物の懐に飛び込んだ。
大剣を逆手に持ち替え、突き上げる。刃が柔らかい部分を貫く。
ズブリ
鈍い音。
「……」
熊の動きが止まり、巨体がゆっくりと倒れる。
「……終わったか」
ガストンが大剣を引き抜く。呼吸は乱れていない。額にも汗一つかいていない。
「すげぇ……」
警備隊員たちが、呆然と呟く。
「やっぱり隊長は化け物だ……」
「あぁ、いい意味でな」
私は木の上で、その一部始終を見ていた。
――剣だけで、あれだけの魔物を倒せるなんて……やっぱり、すごい。
私はガストンたちが危なくなったら、風の刃で魔物の動きを止めるつもりでいた。一度だけ、指が動いた。でも、それきりだった。ガストンと警備隊は、完璧な連携で魔物を倒した……まぁ、ほとんどガストンさん一人で倒しちゃったんだけど。
レンズを消して、木から降りる。風の魔力を纏いふわりと着地。
――さてと、帰ろう。
村へと歩き出した。
* * *
翌日。
訓練場は、いつになく賑わっていた。
「はぁっ!」
「そこ、もっと腰を落として!」
「よし、いい動きだ!」
剣を振る音。掛け声。土を踏む足音。
見回すと、子供だけでなく大人の姿も多い。村の若者、中年の男たち、女性まで。みんなが真剣に体を動かしている。
五年前、私が訓練を始めた頃は子供が中心で、人数も少なかった。それが一人、また一人と増えていった。最初は「楽しく遊んでいる」程度にしか思われていなかったけれど、一年、二年と続くうちに、朝の体操のように村の日常に溶け込んでいった。
「ユミナ、おはよう」
リザが声をかけてきた。
「おはよう、リザ。今日も魔術の練習?」
訓練場の一角では、他の村人たちも母から魔術を学んでいた。
彼女たちが魔術を学び始めたのは、セレナが「ついでに持ってきた」と属性測定の魔導具を取り出したのが始まりだった。それまで自分たちには無縁だと思っていた魔術が、目に見える属性として証明されたことで、村全体の空気が一変した。
教会の備品を勝手に持ち出して大丈夫なのか聞いたら、「細かいことは気にしない」と笑っていた。
次に来た時は基礎の魔術書まで持参していた。「誰も使う予定ないから」と言いながら母に押しつけている姿を見て、昔からこの人に振り回されてきた母の苦労が、少しだけ分かった気がした。
「えぇ。基礎はだいぶ慣れてきたんだけど、次のステップが全然……」
そう言うリザの周りには、薄い水色の魔力がゆらりと揺れていた。まだ不安定だけれど、半年前に比べれば格段に制御が上手くなっている。
視線を動かすと、中央でロベルトが木剣を振るっていた。相手は村の大人の男性だ。
「てやぁっ!」
「おっと!」
カキィン!
木と木がぶつかる乾いた音。ロベルトの動きは、五年前とは比べ物にならないほど洗練されていた。足の運び、剣の振り方、息のタイミング。どれもガストンから叩き込まれたものだ。あの頃は力任せに振り回すばかりだったのに。
「くそっ、これならどうだっ!」
連続で斬りかかる。大人が後退しながら受け止める。拮抗している。私は少し誇らしい気持ちになった。
別の場所では、マルクが年下の子に構えを教えていた。
「うん、そう、両手でね。足はもう少し開いたほうがいいよ」
マルクは丁寧で粘り強い。気づけばガストンから小さい子の指導を任されるようになっていて、今では「マルク先生」と慕われている。
「ガストンさん、俺と手合わせをお願いします」
振り向くと村の若い男性、ディックがガストンの前に立っていた。ディックは二十代半ばの青年で、村の農夫だ。体格は良く、力も強い。普段は温厚な男だが、今は真剣な目をしていた。
「いいだろう。手加減はしないぞ」
「望むところです」
木剣を手に取ったガストンが向かい合うと、訓練場がしん、と静まった。みんなが手を止めて見ている。
「……いつでもいいぞ」
ガストンの言葉が終わるより早く、ディックが地を蹴った。
「はぁっ!」
木剣を振り下ろすが、空を切る。すぐさま構えなおし、今度は慎重に間合いを詰める。一呼吸おいてフェイントを入れ、横から斬りかかった。
パシッ!
ガストンが軽く剣を流した。それだけで、ディックのバランスが崩れる。
「そこだ」
肩を、木剣が静かに叩く。
「参りました……」
ディックが膝をつく。あっという間だった。
「フェイントというアイデア自体は悪くないが、それに意識が向きすぎている。剣先が震えていたぞ」
「……完全に見透かされてましたか」
ディックは苦笑したが、その顔は晴れやかだった。
「ガストンさん、昨日の話聞きましたよ」
ロベルトが興奮した様子で割り込んでくる。
「ワイルドベアを、ほとんど一人で倒しちゃったんでしょう?俺も見たかったな」
「……別に、大したことじゃない」
素っ気ない返事。でも村人たちは聞かない。
「大したことですよ!」
「あんな魔物、普通は十人がかりでも無理です」
「騎士団にいただけのことはある」
口々に言われ、ガストンは少し居心地悪そうに視線を逸らした。
「……俺よりも強い奴なんて、いくらでもいる」
ぽつり、と呟くように言った。
「例えば……王国騎士団のヴィクトール。あいつは俺より年下だが、何度か負けたことがある」
遠い目だった。誰かを、遠くを見ている目。
「でも、ガストンさんだって十分凄いですよ」
マルクが言い、村人たちが同意する。ガストンは小さく肩をすくめた。
「……お前たちは、俺を買いかぶりすぎだ」
* * *
私は訓練場の隅に移動していた。
誰の邪魔にもならない、木陰に近い場所。人の流れから外れた、静かな一角。
木剣を両手で持つ。足を肩幅に開く。背筋を伸ばす。
五年前、ガストンに最初に教わった構え。何も変わっていない。
「……」
振り下ろす。
ブン、と空気を押す鈍い音。速くない。力強くもない。
魔力を、腕の筋肉に沿って通す。多すぎず、少なすぎず。昔はあれほど必死に探していた感覚が、今はただそこにある。
振る。
次は魔力を抜く。自分の筋肉だけで振る。重くなった腕で、同じ軌道を辿る。
振る。
周りでは、ロベルトがまだ誰かと打ち合いをしている。掛け声と木の音が響いている。リザが母に魔術の質問をしている声も聞こえる。賑やかだ。その喧騒の中で、私だけが静かだった。
構え、振り下ろし、突き、払い。
ふと、視線を感じた。
ちらりと目を向けると、ガストンが少し離れた場所に立っていた。腕を組んで、こちらを見ている。いつからかは分からない。
表情はいつも通り無表情で、指摘もない。「肘が下がってる」も、「腰を入れろ」もない。
私はその視線から目を逸らして、また振る。
ガストンが何かを考えるように、少しだけ目を細めたが、静かに視線を外して訓練場全体を見渡す。いつもと同じように。




