第十話 農地
ある日の昼下がり、村の広場に通りかかると、弾んだ話し声が風に乗って聞こえてきた。
「今年は期待できそうだな」
「ああ、教会の浄化のおかげで農地が広がったんだ。去年より収穫量が増えるのは間違いない」
「子供たちに、もっと良いものを食べさせてやれる」
笑い声の中心には、数年前に儀式で使われた杖状の魔導具を納めた小さな木造りの小屋があった。
「今日は俺が掃除当番だ」
村人の一人が、慣れた手つきで小屋の中を掃き始める。
「杖様が汚れちゃいかんからな」
「そうとも。神様からの贈り物だ」
大切そうに見守る村人たちを眺めながら、私の胸には少し複雑な感情が浮かんだ。
* * *
ふと、三年前のことを思い出す。
教会から魔導具を受け取った父は、村人たちを集めて話し合いの場を設けた。
「この杖をどこに飾るべきか」
「みんなが見られる場所がいいんじゃないか」
「なら、広場はどうだ」
議論の末、広場に飾ることが決まると、すぐに「それだけじゃ寂しい」と誰かが言い出し、「小屋を建てよう!」と場が沸いた。村人たちは張り切って木材を運び、あっという間に小屋が完成した。
最初の頃は、毎日のように人が訪れた。
「奇跡を起こした杖だ」
「触ると幸運が訪れるかもしれない」
けれど一年も経つと、その熱は静かに冷めた。小屋はいつの間にか広場の風景に溶け込み、杖はただの飾り物になっていった。母は「まあ、そんなものよね」と苦笑いしていたが、私はどこか寂しい気持ちでいた。
それからしばらくして、転機が訪れる。
農作業を終えたロベルトが、汚染地域の境界付近の休耕地を通りかかった時、足を止めた。そこには、一年前から休耕に入っていた畑が広がっている。土が痩せやすい場所で、定期的に休ませながら使ってきた土地だ。休耕の間は人が寄り付くこともほとんどなく、次の作付けに向けてそろそろ準備を始めようと、久しぶりに足を踏み入れたところだった。
「……ん?」
汚染地域をじっと見つめる。見間違いかと思ったが、何度目を凝らしても同じだった。茶色い土の範囲が、確かに広がっている。
ロベルトは半ば走るようにして農家のトーマスを呼びに行った。
「トーマスさん! 」
「どうした、ロベルト?」
「土が……色が……いいから来てください!」
腕を引っ張られるまま境界線へ向かったトーマスは、ロベルトの指差す先を見て目を見開いた。
「これは……マグナさんに知らせないと!」
その頃、私は母の手伝いで薬草を調合していた。
「ユミナ、このハーブを細かくすりつぶしてくれる?」
「はい、お母様」
乳棒を動かしていると、玄関の方から大きな声が聞こえてきた。
「マグナさんっ、大変です!」
ただ事ではないと察した父は、いつもの豪快さを脇に置き、落ち着いた声で二人をなだめた。村人と一緒になって騒ぎ立てることが多い父だが、こういう時の冷静さには、私もいつも少し驚かされる。
「何かあったのかしら」
母と私は調合の手を止め、顔を見合わせてから玄関に向かった。
「茶色なんです! 茶色が広がっているんです!!」
興奮で声を上ずらせる二人に水を渡し、ようやく話が聞ける状態になったところで、父が静かに口を開いた。
「土地が……浄化されていると?」
父と母が視線を交わす。「そんなはずはない」と語る表情だった。私はそっと母の背後に移動した。
「いいか、あの土地が自然に浄化されることはないんだ。見間違えじゃないのか? 昔、ワドル爺さんも似たようなことを言っていてな、あの時は確か太陽の……」
しかし二人の真剣な眼差しは、まるで揺るがない。その熱意の前で、父はついに冷静さを保てなくなった。
「……案内しろっ!!!」
嵐が過ぎ去ったような静けさの残る玄関に、母と私は取り残された。母と小さく笑い合ってから、小走りで父たちの後を追った。
父たちや騒動を聞きつけた村人たちと共に、普段はあまり近づかない境界付近に向かった。
「本当だ……」
その光景に誰もが息をのんだ。
農地として使うにはあまりにも小さかった土地が、十分に実用できるほどまで広がっていた。
「エミリア」
父が振り返り母を見る。
「これは……浄化の効果が持続しているということか?」
母は困惑した表情を浮かべた。
「わ、私は……そんなこと、聞いたことがないわ。でも、現にこうして……そうね、あの時使われていた魔導具が、私が知っていたものと違っていたから……もしかしたら、それのおかげかもしれないわね」
「魔導具……」
父が静かに呟く。
――お母様、ごめんなさい。
夜中にこっそり浄化してるんです。とは言えず、母の背中を見上げながら心の中で謝った。
村に戻り、興奮の熱が抜けてきたところで、父たちは浄化されていた土地をどうするか話し合い始めた。
すぐに活用すべきという意見もあったが、それ以上に育てた作物は本当に安全なのか、という不安の方が大きかった。国からも見捨てられ、五百年もの長い間汚染されていた土地だ。その慎重さは、当然と言えば当然だった。
「元々なかった土地だ。やってみて損はないだろう」
父の一言で、まずは麦を植えることになった。トーマスさんを中心に村人たちが協力して、畑を耕し種をまく。水が不足すれば、ディックさんたち若い衆が桶を担いで運んだ。ロベルトは「いい訓練だ!」と言いながら嬉しそうに荷を担いでいた。
迎えた収穫期。浄化の光を吸い込んだかのような鮮やかな黄金色の穂が、一面に実っていた。しかしそれだけではなかった。穂の一本一本が、領地内の畑で育てた麦よりも明らかに大きく、実が詰まっていた。
トーマスさんが穂を手に取り、まじまじと見比べる。領地の麦と並べると、その差は一目瞭然だった。
「問題は食べられるかどうかだ」
「何かあってもエミリアがいる。大丈夫だろう」
周囲の心配を笑い飛ばし、父が誰よりも先に一口食べた。
「うまいっ……いや、うまい!?」
思わず二度言った。それほどまでに、味が違った。領地内の麦で焼いたパンと比べると、甘みと風味の深さがまるで別物だ。トーマスさんも一口もらって、しばらく黙り込んだ。
「……土が、生きてる」
ぽつりと呟かれた言葉に、その場の全員が静かにうなずいた。
念のため数日ほど様子を見ることになった。このとき母がどれほど気をもんでいたか、父はきっと気づいていなかっただろう。父が体を張って証明したことで、新しい農地は村に受け入れられていった。
「使える土地は以前よりも増えている。麦はもちろんとして、他の物も試してみたいんだ」
トーマスさんの提案を受けて、大人たちが輪になって話し合っている。
私はその様子をそっと眺めながら、じわじわと闘志が湧いてくるのを感じた。
――私にも、何か役に立てることはないかな。
話し合いが盛り上がる中、私はこっそり自分の記憶を総点検していた。
読んだ本は数え切れないほどある。漫画も、小説も、薄い本も。農業がテーマの作品は……一冊もない。
正確には、農業をテーマにした漫画を手に取ったことは一度だけある。でも表紙の絵が好みで中身は農家を舞台にしたラブコメだった。しかも恋愛の行方が気になりすぎて、農業に関係のある描写はほとんど読み飛ばしていた……
盛り上がる大人たちの背中を眺めながら、私はそっと輪の外に離れた。
* * *
そして、現在。
村の広場では、あの杖がまるで神様のように崇められている。
「浄化の杖に感謝を」
小屋の前で手を合わせる村人たち。事情を知らない人が見れば、少し奇妙な光景に映るかもしれない。けれど村人たちにとって、あの杖は土地を浄化し、農地を広げ、希望をもたらした象徴だ。初めて飾られたあの日よりも、ずっと大切にされていた。
夕食の時間。
テーブルには、以前よりも豊かな食事が並んでいた。
柔らかいパン、野菜のサラダ、湯気の立つスープ。
「いただきます」
三人で手を合わせる。
「美味しい……」
母が、幸せそうに目を細めた。
私は、新しい農地から収穫されたばかりのトマトを一口かじった。
「あっ、甘い」
今まで食べていた薄ぼんやりとした味とは、まるで違う。それは、遠い記憶の奥に眠っていた味に、どこか似ていた。
「本当に、良かったわね。土地が浄化されて」
「ああ」
父がゆっくりと頷く。
「これも、教会のおかげだ。司祭様に感謝の手紙を書かないとな」
嬉しそうに笑う父の顔を見ていると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
――もし、本当のことを伝えたら……
真実を隠している罪悪感と、この笑顔をずっと見ていたいという気持ち。そして何よりも、目立ちたくないという本音。それらが胸の中でぐるぐると混ざり合い、気づけばフォークを持つ手が止まっていた。
「ユミナ、どうした? 食欲がないのか?」
父が心配そうに覗き込む。
「いえ、大丈夫です」
頭をよぎった想像を振り払い、咄嗟に笑顔を作る。
「美味しいです、お父様」
――もし、本当のことを伝えて、聖女様なんて呼ばれた日には……
気づけば、頭の中に鮮明な光景が広がっていた。
純白のドレスをまとった私に、四方八方から無数の視線が注がれ、人々が両手を合わせている。
――ち、違う。そうじゃなくて。
あわてて妄想を塗り替えようとしたのに、今度は私が馬車の窓から白い手を振っている場面が浮かんだ。沿道を埋め尽くす群衆、鳴り止まない歓声。
――なんで豪華になってるの!?
「ユミナ? 本当に大丈夫か? 顔が赤いぞ」
父の声で我に返ると、両親が揃ってこちらを見ていた。
「だ、大丈夫です! トマトが美味しくて、つい……!」
取り繕った笑顔の裏で、心の中の私はぐったりとうなだれていた。
密やかに、少しずつ。絶対に、絶対にそれでいい。
甘いトマトをもう一口かじって、私はひっそりと誓いを新たにした。




