第六十七話 歓迎の気持ち
夕食を終える頃には、窓の外がだんだんと薄暗くなり始めていた。賑やかだった食堂にも、どこか穏やかな空気が流れていた。
「シエル、大丈夫?」
フェリシアが、前に座るシエルの顔を覗き込むようにして尋ねた。その視線の先では、いつも凛としているはずのシエルの目元が、うっすらと赤くなっていた。
「だひ丈夫でふ」
答える声は、いつもの落ち着いた響きとはかけ離れていた。表情だけは変わらず涼しげなのに、呂律の回らないその返事とのギャップに、私は思わず笑いを堪えた。
少し前のやり取りが頭に浮かぶ。
シエルが辛い物を苦手にしていると知っていたフェリシアが、「無理してかけなくていいのですよ」と、気遣うように声をかけていた。それに頷いたシエルは、素直に何もかけていない野菜スープへと口をつけようとしていた。
けれど、そこに割って入ったのがヴィクトールだった。
「なんだ、食べないのか?」
からかうようなその一言に、シエルのスプーンがぴたりと止まった。しばしの沈黙の後、シエルは無言のまま赤い粉に手を伸ばし、スープにかけていた。
かく言うヴィクトール自身も、辛い物は得意ではないようだった。額に汗を浮かべながらも、「これふぉ鍛錬だ」と言い聞かせながら、意地でもスプーンを止めようとしなかった。
――その我慢は何に繋がるのだろう……。
そんなことを考えながら眺めていたのを思い出し、私はもう一度、シエルへと視線を戻した。
「はっ、はっ、はっ、だらしないぞシエル!」
当のヴィクトールが、額に汗を浮かべながらも胸を張り、力強く言い放つ。けれどその声も、心なしか掠れていた。
フェリシアはそんなシエルとヴィクトールを微笑ましそうに眺めていたが、ふと何かを思い出したように窓の外へと視線を移した。
「ヴィクトール、今夜の宿ですが……」
「はい、男爵に部屋を手配していただいております」
そう答えたヴィクトールが、確認するように父へと視線を向けた。
「お恥ずかしながら、村の者たちと一緒に、心を込めてお部屋を飾らせていただきました。どうぞ、ごゆっくりお休みください」
「まぁ、そうなのですね……」
フェリシアが、少し困ったような笑みを浮かべながら視線を落とした。それから、一瞬こちらへ視線を向けた。
「あの、それなのですが……」
珍しく言葉を選ぶように、フェリシアが続けた。
「今夜は、ユミナのお部屋に泊めていただくことは……できないかしら?」
「ひぇっ?」
思わず変な声が漏れた。
「フェリシア様、それは……」
シエルが困ったように眉を寄せる。
「警備の都合があるのは分かっています……、でもっ、憧れなんです」
フェリシアは一瞬、視線を伏せてから、意を決したように顔を上げた。両手をぎゅっと握りしめ、いつもの淀みない口調が、その時だけ少しつかえた。
「……」
シエルが、無言のまま今回の護衛隊長であるヴィクトールへと視線を送る。
「どうかしら、ヴィクトール。私のお願いはダメかしら?」
フェリシアが、小首を傾げながら問いかける。あどけない仕草だったけれど、その瞳の奥には、どこか自信めいた光が見え隠れしていた。
――フェリシア、もしかして……。
脳裏に浮かんだのは、ヴィクトールがガストンと手合わせしたいとフェリシアにお願いしていた光景だった。フェリシアは二つ返事でそれを許していた。あの時から、このことを考えていたとしたら……。
ヴィクトールもまた、一瞬だけ目を細めた。何かに思い当たったような、そんな表情だった。
「……ははっ、そう言われてしまっては、断れませんね。まぁ、大丈夫でしょう」
「ありがとう。そういうことなのだけど、いいかしら? ユミナ」
期待に満ちた瞳でこちらを見つめられ、私はただこくりと頷くことしかできなかった。
――王族の願いを断れる人なんて……。
前にも同じことを思った気がする。デジャブのようなその感覚に、内心でそっと苦笑いを浮かべた。
「男爵、急な話で恐縮ですが……、殿下をご自宅にお泊めいただいてもよろしいでしょうか。もちろん、警備の者も近くに控えさせていただきます」
ヴィクトールが頭を下げた。
「え、えぇ……、我が家でよければもちろん構いません」
そう言った父の目が、一瞬だけ二階の方へと向けられ、すぐに戻った。
フェリシアはその目の動きを見逃さなかったのか、ふと思いついたように口を開いた。
「ありがとうございます。でも、その前に宿の部屋も、見せていただいても構いませんか?」
「もちろんですっ」
父が、待ってましたと言わんばかりに声を弾ませた。
「せっかくですので、他の方も見ていかれますか?」
控えめな物言いとは裏腹に、その目はもう「はい」以外の返事を許さないほど輝いていた。
結局、シエルを先頭にフェリシア、私、リザ、そして、母とセレナが続いた。
「どうぞ、こちらです」
父が格式ばった仕草で頭を下げた。
シエルが部屋のドアを開ける。父の仕草から何か不穏な気配を感じ取ったのか少し警戒しているようにも見えた。
「これは……」
中を覗き込んだシエルが、言葉を詰まらせた。
「あらら……」「うわぁ……」
後ろから覗き込んだセレナとリザの声が、続けて漏れる。母も、額に手を当てて小さくため息をついていた。
無理もない。壁という壁には、村人たちの歓迎の気持ちが込められた飾り物が、ぎゅうぎゅうに詰め込まれ、部屋というよりも、ちょっとした博物館の展示室のような有様だった。
「殿下。ここの飾りは村の者たちが心を込めて用意したものでして……」
父が得意げに部屋の隅々を紹介していく。その表情はどこまでも誇らしげで、部屋の異様さにはまるで気づいていない様子だった。
「そして、こちらは僭越ながら私がご用意させていただきました」
机の上には花の生けられた木製の花瓶が鎮座していた。
中央に見えるのは浄化の象徴になる予定のルーメナ。その周りを彩るのは、村の周辺で見かける様々な花たち。
そして、そんな花たちを完全に包囲した溢れんばかりの緑。
花は完全に埋もれていた。
さらに、花瓶の周りには入りきらなかった花が、無造作に置かれていた。
――お父様……、これは花を生けたというよりも、村の景色を移植しただけの気が……。いえ、でも待って。村を知ってもらうという意味では、ありなのでは……?
私が見当違いな思考に走り始めた瞬間、腕に何かが触れた。
「ちょっと、ユミナ」
リザが、こっそりと肘で私をつついていた。
「あなた、部屋担当だったわよね」
その通りだった。
部屋の飾りつけも手伝っていたし、花瓶も私の知る限りこんな惨状ではなかった。
ただ、順調に見えたので後は父に任せて別の場所に向かっていた。
「……途中までは」
私は視線を逸らしながら、小さく呟くことしかできなかった。
フェリシアは、一瞬だけ言葉を失ったように見えたが、すぐに気品ある微笑みを浮かべた。
「まぁ、なんて素敵なお部屋でしょう。皆様の温かいお気持ちが、隅々まで伝わってきますわ」
完璧な微笑みを浮かべ、淀みなく紡がれるその言葉は、まさしく非の打ちどころのない王女の受け答えだった。
「それに、枠に収まりきらないほどの花々と、それを包み込む力強い緑。他の場所では決して見ることのできない……ノックスの生のエネルギーを感じますわっ」
私は、フェリシアの口元がわずかに引きつったのを見逃さなかった。
「も、もったいなきお言葉! 身に余る光栄にございます……!」
父は感激に胸を躍らせ、深々と頭を下げた。周囲は一様に何とも言えない表情を浮かべていたけれど、フェリシアが綺麗にまとめてくれたおかげで、誰もそれ以上は突っ込まずに済んだ。ほっと胸を撫で下ろす空気が、その場に静かに広がった。
「実は……最初は、花だけを飾るつもりだったのです」
すっかり気を良くした父が、得意げに胸を張って続けた。
「ですが、少し寂しい有様でして……、悩んでいたところ、ユミナが『緑を足せばいいかもしれません』と言うものですから、ついつい張り切ってしまいました」
「え……」
思わず声が漏れた。
――そんなこと、言ったっけ……?
記憶を必死にたどってみたけれど、あったような、なかったような、ふわふわしたものだった。
「あら」
フェリシアが、ちらりとこちらへ視線を向ける。シエルも、リザも、セレナも……みんなの視線が、一斉に私に突き刺さった。
「い、いや……そのっ。そうだった、かも……。少し緑があってもいいかな、くらいの気持ちだった、かな~……」
弁解の言葉は尻すぼみに小さくなっていく。
これ以上ここにいたら、いたたまれなさで消えてしまいそうだった。私は慌てて話を変えることにした。
「そ、そろそろ家に案内しますねっ。フェリシアも、疲れているでしょうし!」
「……そうね。ふふ、楽しみだわ」
フェリシアが、口元に手を当てて小さく笑う。その笑みには、どこか面白がっているような色が滲んでいた気がしたけれど、気づかないふりをした。
「そうだ、殿下。せっかくですので、湯浴みだけでもしていかれませんか? 旅の疲れも取れましょう」
「まぁ、それは……」
両手を合わせたフェリシアの瞳が、わずかに輝いた気がした。
「宿の湯は村でも評判でして。ご用意させていただきましたので、冷めないうちにどうぞ」
「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えて……」
宿の浴室は、これまで見てきた貴族や王宮の浴場に比べて、こぢんまりとした木製の浴槽だった。
それでも、村では一番広くて立派なつくりで、魔導具によってお湯が冷めにくくなっており、村の人たちもよく利用する施設になっていた。
「この広さなら、ユミナもリザも一緒に入れますね」
浴室を見回したフェリシアの第一声は、それだった。
「へっ!」
声を上げたのはリザだった。
私は、これまでの経験からフェリシアならそう言うだろうと予想していた。けれど、リザはあからさまに固まっていた。
「あっ、いや……私なんかが……」
「いいから、いいから……」
流石のリザもうろたえていたけれど、こういう時のフェリシアには通用しない。私たちはリザの背中を押すように浴室へ連れ込んだ。
最初は肩をすぼめ、息を潜めるように小さくなっていたリザだったが、会話が弾むにつれて少しずつ背筋の強張りが解けていった。
「私もいつか王宮のお風呂に入ってみたいな~」
「ふふ、では機会があればご招待しますね」
「ほんとっ? なら、その日のためにもっと色々勉強しておかないと!」
笑い合う二人。
――リザ、多分……本当に招待されるわよ。
私は湯船に顔をうずめながら笑顔のフェリシアを見て、確信めいた何かを感じた。
ひとしきり温まった後、私たちは身支度を整えて浴室を出た。
「私はここで失礼しますね。また、ゆっくりお話ししましょう」
リザが名残惜しそうに、けれどどこか嬉しそうに頭を下げた。
「ええ。また明日も、ですね」
「へっ!?」
リザをからかうように微笑むフェリシア。ゆっくり話す機会はすぐに訪れそうだった。
リザと別れた後、父とシエル、ヴィクトールと合流し、宿の外で警備に当たっていた二人の騎士と共に、家路についた。
頬に触れる風はまだ肌寒さを残していたけれど、その冷たさがかえって気持ちよかった。
途中、ヴィクトールがすれ違う騎士たちに声をかけていた。内容までは聞き取れなかったけれど、身振りから察するに、警備の配置換えを伝えているようで、指示を受けた騎士たちは、驚いた素振りを見せることもなく、「かしこまりました」とだけ告げて颯爽と持ち場へ向かっていった。




