第六十六話 毒見は任せて
「ユミナ、そろそろ王女殿下を宿に案内して差し上げろ」
ガストンが声をかけてきた。
「あ、はいっ」
気が付くとガストンもヴィクトールも既に立ち上がっている。二人の顔から、先程までの疲労の色は跡形もなく消えていた。
私はフェリシアの隣に歩み寄った。
「フェリシア、いいかしら?」
「はい、お願いします」
別れ際、シエルとヴィクトールが、揃ってガストンに深々と頭を下げた。ガストンは軽く手を上げただけだったけれど、二人の表情は満ち足りたものだった。
宿が近づくにつれ、慣れ親しんだ野菜スープの匂いが風に運ばれてきた。その中に、香ばしい肉の焼ける匂いがかすかに混じっている。
「あ、この匂い……!」
フェリシアが、隣で小さく声を弾ませた。
「懐かしい……、またお手伝いできないかしら」
期待に満ちた眼差しがこちらに向かってきた。
「え、え~っと……、今日はもうできていると思うので、お母様に相談してみましょうか?」
「はいっ!」
食い気味の返事に、思わず苦笑してしまう。まるで、返事を用意して待っていたかのような速さだった。
「フェリシア様が、料理を……」
意外そうに呟いた後、ヴィクトールがふと何かに思い当たったように目を細めた。
「もしや、シエルに教わったのですか?」
「はいっ、厨房には入れてもらえなかったのですけど、部屋でコッソリと……」
得意げに胸を張りながら、フェリシアが続けた。
「ティアルにも付き合ってもらったので、斬り方はバッチリです!」
――切り方……は?
小さな両手をきゅっと握りしめるフェリシアを見たヴィクトールの顔が引きつった。私も同じだった。
「そう、ですか……」
ヴィクトールが目を伏せた。
「何か、ご不満でもあるのでしょうか?」
シエルはにっこりと笑みを浮かべ、小首を傾げてみせる。先ほどと変わらぬ穏やかな声のトーンが、かえって怖い。
「い、いや、何もっ」
あのヴィクトールが勢い良く首を振り、あからさまに視線を泳がせた。
「フェリシア……。ティアルさんっていうのは……?」
「私の専属メイドですよ。シエルの妹で、ナイフの扱いがとても上手なの」
「な、なるほど……」
私は並んで歩くフェリシアとシエルの背中を見ながら、そっとヴィクトールに近づいた。
そして、前を歩く二人の様子をちらりと窺ってから、声を潜めた。
「あ、あの……ヴィクトールさん……」
私が聞きたいことを察したのだろう、ヴィクトールは少し困ったような笑みを浮かべた。
「二人の料理は……そうですね」
彼は一拍置いてから、言葉を選ぶように口を開いた。
「まあ……食べられないものではありません」
その歯切れの悪さが、逆に雄弁だった。
扉を開けると、温かな灯りと、食欲をそそる匂いが一気に広がった。
「王女殿下、ようこそおいでくださいました」
出迎えてくれたのは、アレンたちから街の給仕のことを聞き、この日のために新調した服に身を包んだリザだった。
その隣には父の姿もあり、さらに奥にはセレナとニナも並んでいた。
「まあ……、皆さんでお出迎えいただけるなんて」
フェリシアが、嬉しそうに目を細めた。
「本日は、当宿を貸し切りにさせていただいております。ごゆっくりお過ごしくださいませ」
フェリシアが小さく頷くのを確認したリザの顔にふわっと笑みが広がった。
――練習の成果出てよかったね、リザ。
「さぁ、座って座って! フェリシアたちのためにとっておきを用意したのよ」
リザが手を差し伸べ、フェリシアを席へと案内する。
促されるまま腰を下ろしたフェリシアは、テーブルの上に飾られた白い花にふと目を留めた。
「あら、これは……」
「おお、お気づきになりましたか、王女殿下!」
待ちきれなかったとばかりに、父がずいっと前に出てきた。
「これはルーメナと申しまして、浄化された大地で育ち始めた花なのです」
「ルーメナ……、これがそうなのですね」
フェリシアはルーメナに顔を近づけてじっと見ていた。
「はいっ、コーリウス様が仰るには、かつてこの地が豊穣の地と呼ばれていた頃に咲いていた花だとか」
父が得意げに胸を反らす。
「村では浄化の象徴として大事にされておりまして、殿下をお迎えする際にぴったりだと思いまして、飾らせていただきました」
――え? 浄化の象徴……、初耳なんだけど……。
内心で首を傾げる私をよそに、フェリシアの表情がふと曇った。
「まぁ……、それは、ありがとうございます。ですが、村の皆様にとって大切なものを、私のために摘ませてしまってよかったのでしょうか……?」
「えっ、あっ……、そうですね……」
途端に父の声が小さくなり、視線が泳ぎ始めた。得意げに反っていた背中が、心なしか丸まっていく。
「その、決して無理を言って摘ませたわけでは……、皆、殿下のためならと、喜んで……」
しどろもどろになりながら、なんとか取り繕おうとする父の額に、うっすらと汗が滲んでいる。
「大丈夫ですわ、フェリシア様」
そこへ、ちょうど厨房から出てきた母が、穏やかな声で助け舟を出した。
「教会の薬草園でたくさん育てておりますので、遠慮なさらないでくださいね。それに、殿下にお喜びいただけることこそ、村の者たちにとって一番の誇りなのですから」
母の柔らかな微笑みに、フェリシアの表情がふっと緩んだ。
「そう、なのですね……。ありがとうございます、エミリア様」
「いいえ。そのお言葉だけで、十分でございます。……さて、お食事の準備も整いましたので、お持ちいたしますね」
母がすっと視線を向けると、厨房の入り口で控えていたリザが、待っていたとばかりに頷いて、厨房からトレイを持ってきた。
「お待たせいたしました」
リザが、慣れた足取りでテーブルへと近づいてくる。
湯気を立てる野菜スープの器がテーブルに並べられると、玉ねぎと香草の匂いがふわりと鼻先をかすめた。ほろほろと崩れるほど柔らかく煮込まれたウサギ肉が、黄金色のスープにたっぷりと入っている。
続いて、香ばしい香りを漂わせる褐色のパンと、薄くスライスされたチーズの皿、ナイフやスプーンが置かれた。
そして最後に、小さな器に盛られた赤い粉が、フェリシアの前にそっと差し出される。
「こちらは……、もしかして」
フェリシアは小さく息を呑み、器をじっと見つめた。リザの視線がすっと父に流れた。
「コホンっ。殿下、こちらの粉は炎の種と申しまして……」
先程の失敗を思い出したのか、父が心なしか慎重な様子で口を開いた。
「これを仕入れた商人の話では……、海の向こうにあるルブラという村で栽培されている、赤い実を乾燥させて挽いたものだとか」
「まあ、海の向こうから……」
「ええ。王国内でもあまり出回っておらず、珍しい品なのだそうです」
いつもより控えめな口調で、父が言葉を選びながら説明を続ける。今度はばっちり練習通りだった。
「普段はスープに混ぜてお出ししているのですが、殿下が辛さをどの程度お好みかを把握しかねましたので、少しずつお好きな分だけかけていただければと」
一通り説明を終えた父が、そっと胸に手を当て、ほう、と小さく息を吐いた。よほど嬉しかったのか、目にはうっすらと光るものすら浮かんでいるような気がした。
「これが、ユミナが手紙に書いていた……」
フェリシアの琥珀色の瞳が、ぱっと輝いた。
「辛くて、でも食べるとやみつきになるって、ずっと気になっていたの!」
待ちきれないとばかりに小皿へと伸びようとした、その時。
「殿下、恐れながら」
セレナが、すっと一歩前に出た。その手に小皿とスプーンをしっかりと握りしめながら。
「念には念を入れ、この私が毒見を務めさせていただきます」
「えっ、あ……、はい。お願い致します」
セレナがスプーンでスープをすくう。そこには、しっかりと一口サイズのウサギ肉が乗っていた。
「むぐむぐ……。はぁ……、お肉がとろけて……おいしっ。んんっ、問題ありません!」
上機嫌なセレナに、ニナがそっと近づき耳打ちをした。
「あ、あの、セレナ様。毒見は味わうものではなく……」
「っ! 失礼しました。では、もう一度」
再び小皿に盛られた量は、先程より明らかに多い。それでもセレナはぺろりと平らげた。
「むふぅ~……、問題ありません」
司祭らしい、非の打ち所のないお辞儀だった。ただ……締まりのない顔がすべてを台無しにしていた。
フェリシアが小さく笑い声を漏らす中、母の眉がぴくぴくと動いていた。
「殿下、失礼します」
今度は母が一歩前に出た。パンやチーズをナイフで小さく切り分け、小皿にのせた。
「セレナ司祭、こちらもお願い致します」
セレナに差し出されたパンの上には赤い粉がかけられていた。
――チーズにかけられていないのは、お母様の優しさかな……。
「えっ……」
セレナの視線が、赤くなったパンと無言で微笑む母を往復していた。観念したセレナがパンとチーズを口の中に放り込んだ。
「……んぐっ!!」
セレナの目がカッと見開かれた。眉間に皺が寄ったかと思うと、次の瞬間には「ふはっ」と息を吐き出し、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「もんふぁい、あひまへんっ」
セレナは目の端にはうっすら涙を浮かべながらも職務を遂行した。
「殿下、御覧のように少し刺激が強くなっておりますので、お気を付けください」
母が静かに、けれどどこか楽しげにそう告げた。
「は、はいっ。では……」
軽やかな仕草でスプーンを手に取ると、小皿に盛られた赤い粉を、迷いなくすくい上げた。セレナの様子をひとしきり眺めていたフェリシアだったけれど、恐れる様子は微塵もなかった。
慣れた様子で粉をふりかけ、スープ全体に馴染ませていく。周りが固唾を呑んで見守る中、フェリシアは涼しい顔でスプーンを口へと運んだ。
「んっ……!」
ぱっと、琥珀色の瞳が輝いた。
「あ、フェリシア、大丈夫?」
思わず、心配になって声をかけた。
「えぇ、最初はピリッとするのだけど……、そのあとにじんわりと甘味が広がって……。とても美味しいです」
「よかった……」
ほっと胸を撫で下ろした私につられるように、周りからも、ほう、と小さな安堵の息が漏れた。
「王宮でも香辛料の利いた料理にはよく慣れているのだけど……これは、ちょっと違う感じね」
フェリシアがそう呟きながら、興味深そうにスープの中を覗き込んでいた。
ふと何かに気づいたように、フェリシアが顔を上げ、辺りをぐるりと見渡した。控えていた父や母、リザ、そしてセレナやニナの姿に、順に視線を移していく。
「あっ、皆さんもぜひ、ご一緒に」
そう言うと、フェリシアは隣の席をぽんぽんと叩き、私に向かって手招きをした。
「ほら、ユミナも。ここに座って」
「え、でも……」
「ふむ、では、失礼して」
周りの反応を窺おうとした矢先、ヴィクトールが遠慮なくどかっと椅子に腰掛けた。それを合図にしたかのように、シエルや父たちもそれに倣った。
「ふふ、みんなで食べればもっと美味しくなるわ」
にっこりと微笑むフェリシアに促されるまま、私は隣の席に腰を下ろした。
「エミリア様、皆さんの分は……」
「もちろん、ご用意してあります」
母の言葉に応えるように、厨房の方からリザとメリルが次々と料理を運んできた。
それぞれがスプーンやパンへと手を伸ばし始め、温かな湯気とともに、賑やかな話し声が食堂いっぱいに広がっていった。




