第五十九話 食べ過ぎは気をつけて
翌日、訓練を終えた私は、母とルナと共に教会へ向かった。
「お母様、セレナさんは……」
「えぇ、まだ寝ているわ」
母がくすりと笑いながら言った。
セレナはニナと一緒に教会で寝泊まりする予定だったが、父がセレナに気を使ってベッドを譲り、父自身は宿を使っていた。
久しぶりに母と会えたセレナは、夜遅くまで話し込んでいたようで、今朝はまだ寝入っていた。
教会に着くと、ニナが馬車から運び込んだ荷物を、一つずつ丁寧に整理しているところだった。
「あ、エミリア様! ユミナちゃんも、おはようございます」
「おはよう、ニナ。私たちも手伝うわね」
「ありがとうございます。では、こちらの箱を……」
母とニナは息の合った様子で荷解きを進めていった。私も本を運んだり布をたたむのを手伝いながら、しばらくその作業に加わった。
昨日、みんなで手伝っていたこともあり、それほど時間はかからなかった。
「ふぅ、片付きました……。あの、もしよければ、少し村の中を見て回ってもいいですか? まだ、どこに何があるのかよく分かっていなくて」
「もちろんよ。案内するわ」
そうして私たち三人は、連れ立って村の中を歩くことになった。
「ここが交易所よ。街から持ってきてほしい物があるなら、ここで頼めばいいわよ」
母が一つ一つ、丁寧に説明していく。ニナはその度に「はい」と頷きながら、熱心に耳を傾けていた。
しばらく歩いていると、一際大きな民家の前で、賑やかな声が聞こえてきた。
「マルク先生、それじゃあ、レガリア王国の他にも王国はあるの?」
「そうだよ。まずはリヴィエール王国だね。そこは……」
覗き込んでみると、マルクが子供たちに囲まれていた。
「あれは……」
「マルクが、子供たちに勉強を教えているんです。ヴィセリアの学校で習ったことを、村の子にも分けてあげたいからって」
私がそう説明すると、ニナは目を丸くして、その様子を眺めた。
「素敵ですね……。あの、でも……ここって誰かの家じゃないんですか?」
「最初はそうだったみたいなんですけど、今は宿として使われていて……、その宿も新しくできたので、私たちが勝手に学校ってことにしちゃって……」
「そうだったんですね。でもそれだと多くの人が来ちゃったら……」
ニナがそう呟いた瞬間、何かを思いついたように、ぱっと表情が明るくなった。
「あの、それなら教会を使っていただいても構いませんよ」
「えっ、いいんですか?」
「はい、元々そういうことをやっている所もありますので大丈夫だと思います」
ニナがこっそり母の顔色を窺うと、母は小さく頷いた。
「ただ……私は苦手なものも多くて……お手伝い程度しかできないかもしれません。特に歴史なんて……」
ニナの声が急にしぼんでいくのが分かった。それは、どこか諦めに似た響きだった。
「ニナさん、歴史が苦手なんですか?」
私が尋ねると、ニナは気まずそうに視線を泳がせた。
「はい……。草花の名前は覚えられるんですけど、人とか国は……」
「その気持ちすごくわかりますっ。歴代の国王の名前とかほんとに苦手で」
私が力を込めて言うと、ニナは驚いたようにこちらを見た。
「そうなんです」
二人で顔を見合わせた。そして、小さく笑った。
マルクと子供たちに教会を使って良いと伝えると、喜んで向かって行った。
この日を境に学校ごっこは正式に学校になった。
「良い村ですね……」
ニナがしみじみと呟くのを見て、母は嬉しそうに目を細めた。
「まだまだ見せたい所があるのよ」
そうして再び歩き出した私たちは、厩舎の近くまで来ると、トーマスとディックが馬を歩かせているのを見つけた。
「よ~し、ゆっくり歩くんだ」
「すぐに良くなるからな」
トーマスが馬の引き手を持ち、その傍らでディックがわらの束を丸めたもので、馬のお腹を優しく撫でていた。
「もしかして、調子が悪くなっちゃったんですか?」
「あぁ、そうなんだよ。この子は食いしん坊だから、また食べすぎちゃったんだと思うよ」
トーマスが困ったように眉を下げた。
「食べすぎないようにしてたんだけど、いつの間にか首を伸ばして盗み食いしてたみたいでな。困ったやつだよ」
ディックはそう言いながらも、馬の具合を気にするようにお腹をなで続けていた。
馬を見ると耳を伏せ、自分のお腹を振り返ってみていた。
「まぁ、しばらくこうしてればそのうちボロを出すだろうから、それで腹もすっきりするさ」
トーマスとディックは顔を見合わせて笑った。
私はそっと足元にいるルナを見る。私の視線に気づいたのか、ルナはこちらを見上げた。
『腹が痛いようだな』
――やっぱりそうなのね。まぁ、お腹が痛いだけなら……。
ニナは馬の様子にじっと目を凝らしていた。
「少し待っていてください!」
そう言うと教会の方向へ駆けだした。
「え!? ニナさん?」
突然のことにびっくりして母の顔を見た。
「行きましょうか」
母は何か思うところがあるようだった。
母と一緒に教会に着くと、ニナはいくつかの乾燥した薬草を取り出していた。
「何か手伝うことはあるかしら?」
「あ、エミリア様。すみません、蜂蜜と麦の粉が欲しいのですが」
「えぇ、それなら……宿が一番近いわね」
「なら、私が貰ってきます」
私はそう言うと、宿に向かって駆け出した。
厨房に入るとメリルが料理の仕込みをしていた。
「メリルさん、蜂蜜と麦の粉を分けてもらえませんか?」
「もちろん構わないけど、どうしたの?」
メリルは、その手を止めて蜂蜜の瓶と麦の粉の入った袋を持ってきてくれた。
「ちょっと、馬の具合が悪いみたいで……」
「あら、それは大変ね。早く持って行ってあげて」
「ありがとうございますっ」
私はそれを受け取り、教会へ戻った。
「お待たせしました!」
「ありがとう」
「これぐらいでいいかしら?」
母がすり潰した薬草をニナに見せた。
「はい、大丈夫ですっ」
ニナは細かくした薬草と、蜂蜜、麦の粉を手際よく混ぜ合わせて丸めていった。
「ニナさん、その薬草は……」
「食べ過ぎを解消する効果のある薬草です。これを団子にして食べさせます」
団子がいくつか出来上がると、母がそれを布に包んで渡してくれた。
「ユミナ。これを先に持って行って、食べさせてあげてほしいんだけど、いいかしら?」
「分かりました」
私は団子の包みを持ち、急いでディックたちの元に戻った。
馬は先程と変わりなく、ゆっくりと歩いていた。
「ディックさん。これ、食べさせてあげたいんですけど」
持ってきた包みをディックに渡した。
「ん? それは構わないけど……、ほら、食べるか?」
ディックは馬の口を開けさせ、団子を素早く口の奥に放り込んだ。
「よしよし、いい子だ」
ディックはそう言いながら、馬の首筋を優しく撫でた。
団子が気に入ったのか、ディックが持っている包みに大きな鼻先をぐいぐいと押し付けていた。
「ははは、腹が痛かったんじゃないのか?」
団子を奪おうとする馬を見て、トーマスが笑い出した。
馬の鼻先が伸びてくるたびに、ディックは包みを持った手をひょいと持ち上げてかわした。
「ユミナ、これ全部食べさせても大丈夫なのか?」
「多分、大丈夫かと。特に何も言われてないので……」
「分かった」
団子を平らげた馬は満足げに歩き出した。
――そんなに美味しいのかな……。
少し……ほんの少し、食べたいと思ってしまった。
しばらく馬が歩く姿を見守っていると、母とニナが戻ってきた。
「あ、ニナさん。全部食べさせちゃったけど、よかったですか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
そう答えるニナの手には、別の包みが握られていた。
「あれ? それも団子ですか?」
「はい、食べすぎじゃなかったことも考えて……ひゃっ」
ゆっくりと歩いていたはずの馬が、いつの間にかニナの持つ包みに鼻先を押し付けていた。
「あ、あのっ、これは違うので」
ニナは慌てて包みを胸元に抱え込んだ。
「こらっ、まずは出すものを出してからだろ」
トーマスが苦笑しながら引き手を軽く引き、馬の頭の向きを変えた。
仕方なさそうに足を動かしていたけれど、大きな黒目だけはずっとニナの胸元の包みをじっと見つめていた。
歩き出した馬の進路を開けるように、ディックは数歩下がって私たちの方へと歩み寄ってきた。
「あの、念のために餌を見せてもらってもいいですか?」
「あぁ、それはもちろん構わないけど」
厩舎に入ると、ディックが餌の入った木箱を持ってきてくれた。
「これがそうだよ」
「ありがとうございます」
木箱の前にしゃがみこんだニナは、かき分けるようにして中を確認していく。
私も横から覗き込んでみたけれど、どこにでも生えているような雑草だった。
「……大丈夫そうです」
ほっとしたようにニナが呟くと、ディックも安心したように頬を緩めた。
「そうなると、やっぱり単純な食べ過ぎかもしれませんね。少し様子を見ましょうか」
ディックが木箱を片付けるのを待ってから、私たちは厩舎の外に出た。
「気になってたんだが、食べ過ぎってダメなのか?」
ディックがニナに聞いた。
「はい……馬は、ガスがお腹に溜まっても、うまく外に出せない子が多くて」
「そうなのか?」
「人みたいに口から出せればいいんですけど、馬はそれが難しいみたいで……。それに、今の時期の若い草って甘みが強くて、お腹の中の菌が急に増えやすいんです」
「菌が、増える……?」
ディックが首を傾げると、ニナは頷きながら言葉を続けた。
「それで普段よりガスが多く作られてしまって……。だから食べ過ぎると、お腹の中がぱんぱんになって、苦しくなってしまうんです」
ディックは、驚いたように歩いている馬を見た。
「……知らなかったな。ただの食いしん坊だと思ってた」
「ひどい時は、それだけで命に関わることもあるので……」
ニナはそこで言葉を切ると、少し表情を曇らせた。
「そうか……そんなに危ないことだったんだな」
「なので、この時期は特に、食べる量にはできるだけ気をつけてあげてほしいです」
「あぁ、分かった」
それからしばらくトーマスが馬を歩かせ、ディックが馬のお腹をさすっていると、馬が急に落ち着かない様子を見せた。
「ディック、離れろ!」
トーマスが握っていた引き手を素早く伸ばし距離を取る。ディックもすぐに馬から離れた。
次の瞬間。
ブフォッ、という腹に響くような重い音とともに、溜まっていたガスとその他色んなものが勢いよく噴き出された。生温い獣臭が一瞬にして辺りに広がり、私は思わず息を止めて後ずさった。
――…………。
想像以上にすごかった。遠くから見ていて本当に良かったと心から思った。
「よかった」
ニナは安堵したように胸を撫で下ろした。
「え、えぇ……本当によかったわね……」
「はい……本当に……」
母と私も馬が無事だったことに安堵した……。
「いやぁ、助かったよ。まさかこんなに早く良くなるとは思わなかった」
「本当に、ありがとうな」
トーマスとディックが口々にお礼を言うと、ニナは照れくさそうに眼鏡を押し上げた。
「い、いえ、そんな……」
トーマスに引き連れられている馬も先程までとは違い、すっきりとした様子で鼻を鳴らしていた。
「あなたも元気になってよかったわね」
ニナが馬の首筋を撫でると、馬は気持ちよさそうに目を閉じ、ぶるぶると鼻を鳴らした。その様子はとても穏やかで、私たちも思わず頬を緩めた。
けれど次の瞬間、馬の耳がぴくりと動き、視線がニナの腕の包みへと吸い寄せられていった。
「おいっ、こら。全く、お前は……」
ディックの言葉を聞いても馬の視線は包みを捕えたままだった。
「さっき、あんなに大変な思いをしたばかりなのに……」
『腹が減ったようだ』
思わず苦笑いを浮かべると、ニナも困ったように眉を下げた。
その後、ニナの持つ団子をねだる馬をなんとか厩舎の中に戻すことに成功した。
「しかし、シスターは馬のことにも詳しいんだな」
ディックが感心したように言った。
「た、たまたま同じような状況を見たことがあって……」
「ふふ、見て知っているだけと、実際に行動できるのは違うわ」
母がくすりと笑いながら言った。
「エ、エミリア様まで……」
「ニナは修道院できちんと学んできたから、私よりもずっと詳しいの」
母がそう言うと、トーマスとディックは顔を見合わせて驚いたような表情を浮かべた。
「そいつはすごいな。てっきり祈りだけしてるものかと思ってた」
「まぁ、それは失礼よ」
――お母様、ニナさん、ごめんなさい。私もそんなイメージでした……。
「そんな、私なんてまだまだで……」
ニナは慌てたように手を振ったが、母は穏やかな笑みを崩さなかった。
「なるほど。じゃあこれから、色々教えてもらえると助かるよ」
「あ、はいっ」
トーマスがそう言うと、ニナは少し嬉しそうに、でも照れくさそうに頷いた。




