第五十五話 母と薬草園
豪奢な邸宅の書斎。上品な金の飾りをあしらった大理石の暖炉。
手元には、遠い国から取り寄せた芳しいお茶。
私は、立派な椅子の背もたれに体を預けながら、本を開いている。
――完、璧。
冬の風が窓をガタガタと叩いていたけれど、これはこれで情緒というものだった。
『顔が変だ』
足元から声がして、私は現実に引き戻された。
視線を落とすとルナがこちらを見上げていた。
「……寝てなかったの?」
『あれだけ声を出していれば気にしてしまう』
いつの間にか声が漏れていたらしい。
「……そう、……ごめんなさい」
右手でカップを持ち上げようとすると、使い古された椅子がギシっと音を立てた。
それでも、私は優雅に、あくまでも優雅にカップに口をつける。
お湯だった。
「ふぅ~」
暖炉の石組みをよく見ると隅にすすがついていて、壁のあたりがかすかにひび割れているのが見えた。
――ま、まぁ、これはこれで十分だし。
ガタッ、ガタッ。
窓の音が少しうるさかった。
しばらくして外に出ていた母が戻ってきた。
「ユミナ、少し手伝ってもらいたいのだけどいいかしら」
「はい、何でしょう?」
私は本を閉じて顔を上げた。
「教会の薬草園の準備をしたいの」
「家の庭から持っていくのですか?」
「いいえ」
母は穏やかに首を横に振った。
「薬草園に鉢が置いてあるから、移植を手伝ってほしいの」
「分かりました」
本をテーブルに置いて立ち上がる。
「ルナも行く?」
足元のルナを見ると、のんびりと起き上がり伸びをしていた。
――今日はついてくるのね。
冬の時期は、声をかけても尻尾を動かして合図するだけのことが多いのだけど、今日は気が向いたようだ。
ルナは暖炉の前に居座ることが多いけれど、寒さが苦手なわけではなかった。
一度「寒いのは苦手?」と聞いたことがあった。その時の答えは『暖かいのが好き』だった。
コートを着て家の外に出ると、遠くにどんよりとした雨雲が見えた。母も同じものに気づいたのか、空を見上げて目を細めた。
「今夜あたり、雪が降りそうね」
初めて村で雪を見た時、私は少しウキウキしていた。
しかし、周囲の反応は真逆だった。
ノックス領は、冬のあいだ雪が降り続けるような土地ではない。それでも、積もることはそれなりにある。そしてその雪が、村の貧相な家々にとっては厄介な敵になるのだ。
積もったままにしておくと、重みで屋根が押しつぶされる恐れがある。そのため、雪下ろしは必須の作業だった。降り方がひどい時には、夜中であっても外に出なければならない。怪我人が出ることもあるため、なかなかの一大事なのである。
「あまり降らないといいですね」
吐く息が白く、すぐに冬の風にさらわれた。
「えぇ、そうね」
ルナが、数歩先で立ち止まって振り返った。
その視線が『行かないのか?』と静かに問いかけていた。
「ごめんなさい。今、行くわ」
私は母と顔を見合わせて、歩き出した。
村の道は、朝のうちに霜が降りたらしく、土がところどころ白っぽく固まっていた。踏むたびにかすかに音がする。ルナはそれを気にする様子もなく、すたすたと先を行く。少し歩くと、建物の輪郭が見えてきた。
村の教会だ。
外見はしっかりと完成しており、静かな貫禄があった。
「もうすぐ完成ね」
母が遠くを見るような目でつぶやいた。
「そうですね」
――そういえば、教会って誰が……。
「あの、教会の管理ってお母様がやるのですか?」
「いいえ。来年の春ごろに一人配属されることになっているわ」
「そうなんですね……、もしかしてセレナさんだったりします?」
セレナとは調査団に同行して来た時以来、会えていなかった。
「ふふ」
母は微笑んでから首を振った。
「あの子は、ここでの功績が認められて、司祭に昇叙したの。それで色々な場所に駆り出されているわ」
「そうですか……それはちょっと残念ですね」
セレナにも少しだけ発展した村を見てもらいたい気持ちがあった。
「そうね。でも、本人も何とかしようとしているみたいだから、その内顔を見せてくれるわよ」
そう言って、母は少し笑った。
――お母様、気づいてないかもしれないけど、セレナさんの話をするときはいつも楽しそう。
私もつられて、少し笑った。
その時、建物のドアが開いて人影が現れた。
「おや、夫人に嬢ちゃんじゃないか」
「あぁ、どうも」
アレンとハンスだった。
宿屋と交易所が完成し、教会の建築も残りわずかとなっていたため、他の職人たちは街に戻り、アレンとハンスだけが村に残って作業を続けていた。
「おっ、ルナも来たのか」
ルナを見つけたアレンは、嬉しそうにしゃがみ込み腰のあたりを探り始めた。
「しまった、テントの中だったか。すまんな、ルナ」
自然に手を伸ばしルナの頭をなでるアレン。
「……少し散らかってるが、中を見ていくか?」
「いえ、今日は娘と薬草の移植をしようと思って来たのですけど、大丈夫かしら?」
「あぁ、そっちはもう終わってる」
教会の隣に、屋根のついた畑があった。
丁寧な作りだった。柱は太く、屋根は雨風をしっかり受け止められるよう、少し急な傾斜がついていた。
近づくと、土の匂いがした。
畑の地面には、平たい石が規則正しく並べられていた。それぞれの区画をきっちりと四角く囲むように敷かれていて、大きさの違う升目がいくつも連なっている。土を盛り上げた場所はまだほとんど空で、移植を待つ鉢が端に並んでいるだけだった。
――これだけの大きさなら、沢山の薬草を育てられそう。
「屋根もついているのですね」
「えぇ。でも、ちゃんと日も当たるように作ってもらったのよ」
石の縁に小さな木の札が立てられているのが見えた。
「お母様、これは……」
少し屈みこんで見ると、薬草の名前らしきものが書かれていた。
「新しい人が来ても分かるように、アレンさんにお願いしておいたの。これならどこに何があるか、分かりやすいでしょ」
母は少し誇らしげに目を細めた。
私は端に並んだ鉢に視線を移した。
「どこから始めればいいですか?」
「そうね、まずはここからね」
母はしゃがみ込んで、鉢のひとつに手を添えた。葉が密に茂った、丈の低い薬草だった。私もその隣に膝をついて、道具を手に取った。
土を掘ると、思ったより柔らかかった。
「根を傷つけないように、ゆっくりね」
「はい」
鉢から丁寧に株を抜き取る。根のまわりにはしっかりと土が絡まっていて、それだけ根付いているのだということがわかった。穴に収めて、両手で周りの土をそっと押さえる。
「上手ね」
「そうですかっ、ありがとうございます」
隣の区画の鉢は少し背の高い薬草だった。
先程と同じように穴を掘り、その中に植えていく。
――倒れないようにしっかりと……、よしっ。
いい感じに出来たと思い、母が移植したものと見比べてみる。
――……あれ?
立ち上がってもう一度確認すると、私が植えたほうは少し傾いていた。
母の顔を見ると、楽しそうに微笑んでいた。
「背の高いものは、少し深めに穴を掘って、風が吹く方向と逆側に少しだけ力を入れて土を寄せると、傾きにくくなるわよ」
母はそう言いながら、傾いてしまった薬草が倒れてしまわないように土を寄せてくれた。
「なるほど、分かりました」
別の鉢を手に取り、もう一度やってみる。
――風はこっちからだから、少し力を……。
「……」
今度は逆側に傾いた。
「ふふっ」
母の笑い声と共に、石の縁を歩いていたルナがこちらを見ていた。少し呆れているような目で。
「……やり直したほうがいいですか?」
「しっかり植えられてるから大丈夫よ」
「そうですか、よかった……」
それから、しばらく作業は続いた。
「次で最後ね」
「はいっ」
最後の区画に移動する。
「あれ? これって……」
鉢の中にあるのは見慣れた薬草ではなく白い花だった。
「えぇ、ルーメナよ」
白い五枚の花弁が星のように見えるルーメナは、冬の寒い時期でも力強く咲いていた。
「グレイモント子爵のパーティーの時に髪飾りを作ってあげたでしょ。実は、あの時から鉢で育てていたの」
「そうだったんですね、でも……薬として使えるのですか?」
「それがまだわからないの。毒はないことは確かめたから、害はないと思うのだけど……なんとなく、ただの花ではない気がして」
あまり見ない母のお茶目な顔だった。
「毒がないって……もしかして食べたんですか?」
「葉をすりつぶして肌に当ててみたり、少し舐めてみたり、後は煎じてみたりね」
気づけば母の顔をまじまじと見つめていた。
「ふふ、修道院にいた頃はよくやっていたのよ。手順さえ守れば、そう危ないものでもないの」
母は当然のことのように言って、また花に目を戻した。知っているようで、知らない母がそこにいる気がした。
「実はね、ユミナたちにも協力してもらっていたのよ」
「へ!?」
――協力? 怪我をして薬を塗ってもらった覚えはないけど……
「暖炉で温められているお湯よ」
「お湯……ですか?」
――お湯……お湯?
今日も飲んだ記憶はあった。けれど、どれだけ思い出してもただのお湯だった。
母は黙って、楽しそうにこちらを見ているだけだった。
目の前の花を見ていて、ふとひらめいた。
「もしかして、あのお湯って……」
「えぇ、ルーメナの葉を煎じたものよ」
母は涼しい顔をしていた。
「安心して、二人に飲んでもらう前にちゃんと自分で確かめたから」
「全然、気づきませんでした……」
「そう、そこが面白いの」
母は人差し指を立てて、続きを話す間を作った。まるで授業の始まりを告げるような仕草だった。
「薬草やハーブは水に入れたり煎じたりすると、色や味が付くのだけれど、ルーメナはそれが無かったの。それに、ハーブと一緒に煎じると、色も香りも消えて普通のお湯みたいになっちゃうのよ」
母の声は弾んでいた。
「お母様ってもしかして、薬草学が得意なんですか?」
「えぇ。だって面白いじゃない」
何も言えない程に晴れやかな笑顔だった。
「でも、まだ分からないことが多いの。だから栽培してみようと思って」
「……お母様、あまり無理をしないでくださいね」
「ふふ、大丈夫よ。セレナみたいにお腹を壊すことはしないから」
何故か、その場面が簡単に想像できてしまった。
――セレナさん……ごめんなさい。
「それにね、ルナもこの花に興味があるようなの」
「ルナも?」
呼んだわけではなかったけれど、母の足元からルナがひょっこりと顔を出した。
「他の薬草には興味なさそうなのに、ルーメナには興味を持っているみたいで、庭で育てている時も良く近くに寄ってくるのよ」
「そうなんですね」
ルナはルーメナの鉢の前に座り、鼻を近づけていた。
『大丈夫だ』
根拠があるのかよく分からないけれど、自信に満ちた声だった。
――……まぁ、二人がそう言うなら。
「さぁ、雪が降る前に終わらせましょう」
「あ、はいっ」
一通り終えて、私たちは並んで畑を眺めた。
区画の半分はまだ土が剥き出しのままで、緑でいっぱいとはとても言えなかった。それでも、石で仕切られたひとつひとつに薬草が収まっているのを見ると、少しずつ形になってきた感じがした。
一角だけ、白い花が静かに咲いていた。
ルナはいつの間にか畑の縁に座って、私たちと同じように中を眺めていた。何を思っているのかはわからないけれど、その横顔はどこか落ち着いて見えた。
「春になったら、もう少し賑やかになりますね」
「そうね」
母は満足そうに、でも静かに頷いた。
しばらく、誰も何も言わなかった。土の匂いと、冬の冷たい空気だけがそこにあった。
* * *
夕食を終えた居間で父がゆったりとカップに口をつけた。
「ふぅ……落ち着くな」
母はいつもと変わらない穏やかな顔で、「ふふ」っと笑った。
私は黙って自分のカップを見つめた。
――お父様、そのお湯は……。
言おうか少し迷った。母の方をちらりと見ると、何事もないような顔でお湯を飲んでいた。
――まぁ、何かあってもお母様が診てくれるからいいのかな。
そう思い、私もカップに口をつけた。




