第五十話 伯爵の誘い
「ユミナちゃん、これ、お願い」
「はいっ」
メリルから器と小皿の載ったトレイを受け取り、お客さんの待つテーブルへ向かう。冬が近づいてきている季節だけど、昼食の時間帯になると、食堂の中は人の熱と暖炉の火が相まって、暖かかった。
「お待たせしました」
スープの器を置くと、向かいの席の男が厚い掌で湯気をゆっくりと手繰り寄せた。
「おぉ、いつもありがとな」
笑い声や話し声があちこちで弾けている。顔ぶれは村の住人だけではない。アレンたち建設職人、それからヴィンター伯爵領からの街道工事に携わる土木職人たちも混ざっていた。村が賑やかになるのは嬉しいけれど、正直こんなに忙しくなるとは思っていなかった。
「ユミナ、次はこれをお願いね」
厨房に戻ると、母から新しいトレイを渡される。
「は、はい」
「ほら、早くしないと次の人が待ってるわよ」
リザから急き立てられる。そのリザはといえば、三つのトレイを両手と腕でうまく抱えながら、慣れた足どりで料理を届けていた。
――いつの間にあんなに板についたんだろう。
思わず口元がゆるんだけれど、感心している場合ではなかった。私も足を動かした。
食堂が賑わい始めたのは、リザとレベッカが村中に触れ回った翌日からだった。
収穫を終えた村人たちが次々に顔を出し、辛い野菜スープが出るとなるとお祭り騒ぎのようになった。
赤い粉をさらに追加しようとしたロベルトを止めることには成功したものの、殺到する注文の前に、辛いスープは一週間も経たずに品切れとなってしまった。
それでも、食堂は村の新しい憩いの場としてゆっくり根付いていった。
風向きが変わったのは、収穫が一段落した秋の頃だった。見知らぬ顔つきの人たちが、遠慮がちに食堂の入り口に立っていた。
ヴィンター伯爵領からやってきた街道整備の土木職人たちだった。
作業の進み具合に合わせて仮の宿を移しながら働く彼らの野営地が、ちょうど村の近くになったことがきっかけだった。
最初は何気なくスープを一口すすっていた職人たちが、気づけば常連になっていた。素朴だけれど毎日食べても飽きない、というのはどうやら村の外の人間にも通じるようだった。
本当の転機はやはり、炎の種の粉末の再入荷だった。
待ちわびていた村人が多かったのだろう、昼食の時間を待ちきれずに早めに食べに来る人まで現れた。食堂の前に列ができたあの日のことは、しばらく忘れられそうにない。
忙しい時間が過ぎ席が空き始めた頃、扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
振り返ると、扉のところに父が立っていた。その隣には……。
――え。
思わず瞬きをした。父の隣に並んでいるのは、見覚えのある落ち着いた佇まいの男性だった。ヴィンター伯爵だ。後ろには従者らしき人物が一人と、いかにも手練れといった様子の護衛の姿があった。
「ユミナ、今大丈夫か?」
「少々お待ちください、席をご用意……」
父たちの席を確保するために声をかけようとした瞬間、伯爵に気づいた人がひとり、またひとりと腰を浮かせ始めた。
「おや、伯爵もいらしたんですね。今空けますから、お待ちを」
「俺たちはもう食い終わりましたんで」
誰が声をかけたわけでもないのに、奥のテーブルの周りがすっきりと空いていく。移動した人たちは皆、慌てた様子もなく自然に壁際へ詰めたり、食器を手に立ち上がったりしていた。
――みんな自分から動いてる。
権力のある人が来たからではなく、この人だから空けたい、そんな思いが伝わってきた。
「では、こちらへどうぞ」
席につく前に、伯爵はふと食堂を見渡すようにして言った。
「急に押しかけてしまって申し訳なかった。事前に伝える時間がなくてね」
大きな声ではない。それでもよく通る落ち着いた声は、自然と食堂の隅々まで届いた。席を空けてくれた職人たちも、壁際に移った村人たちも、ちらりとこちらを見た。
「いつでもお越しください」
嬉しそうな父の声が、食堂に響いた。
――お父様……。
場が、ふんわりと和んだ気がした。
「ご注文は何にいたしましょうか」
「私には辛い野菜スープを」
伯爵が迷わず言った。
「あ、はいっ」
――伯爵、辛いスープのこと知っていたのね。
「ユミナ、私も同じもので頼む」
父が便乗するように続ける。
「かしこまりました。他の方も同じで大丈夫でしょうか?」
「私は、普通の方も食べてみたいのですが、構いませんか?」
従者の男性が、少し遠慮がちに手を挙げて言った。
「でしたら、食べ比べセットがお勧めですよ。量は少し控えめになりますが、二種類別々に頼むよりお安くなっております」
両方食べたいというお客さんがいたので、私がメリルさんに提案して採用してもらったものだった。
「ほう」
従者の男性が、ほんの少し眉を上げた。
「なるほど、それはいい案ですね。では、私はそれをお願いします」
「私たちもそのセットで。それと、おすすめの肉料理もいただけますか」
護衛の一人が、仲間の分もまとめて告げた。
「かしこまりました」
注文を頭の中で繰り返しながら、厨房へ向かった。
厨房には、既に料理のいくつかが準備されていた。
「こっちは任せて」とでも言うように、リザがウィンクしながらスープセットのトレイを手に取り、ホールへ向かっていく。
「ユミナちゃん、お肉のほうはもう少しかかるわ」
メリルは既に肉料理を始めていた。
――リザが伝えてくれたのかな。
「ユミナ、伯爵の分よ。お願いね」
「はい」
母から器を受け取り、伯爵の元へ運んでいく。
「野菜スープ・辛口になります」
スープの入った器、スプーン、パンの載った小皿を順番に並べていく。最後にチーズの小皿を置くとき、指先に少し力が入った。
「おぉ、これが」
伯爵が向かいの父を見ると、父は「間違いありません」とでも言いたげに、ゆっくりと頷いた。
「辛さが強い場合は、チーズを召し上がってください。辛味が和らぎますので」
「なるほど」
伯爵の目がスープに釘付けになっているのを見て、父が小さく笑みを浮かべた。
「チーズはそのままスープに浸しても美味しくいただけますので、お好みでどうぞ」
――噛まなくてよかった……。
すらすらと言えていたけれど、内心はかなり必死だった。
「ほう、それもまた美味しそうだ」
伯爵が、最初の一口を口に運ぶ。その瞬間、食堂の空気が変わった気がした。
しばらく何も言わなかった。目を細めて、ゆっくりと二口、三口と続ける。
「……うん」
小さな声だったが、満足そうな響きがあった。
向かいで父が、「どうですか」と言いたげに伯爵を見ていた。
「マグナ殿、これはなかなか」
「そうでしょう、そうでしょう」
父は一安心したのか目の前のスープに手を伸ばした。
一方、従者の男性は、二種類のスープを交互に味わいながら、しきりに首を傾けていた。
「不思議ですね。辛いのに、後を引く」
――そうなんですよっ。
護衛たちはといえば、無言で黙々と食べていたが、器が空になるのはあっという間だった。
「お待たせしました、肉料理になります」
リザが運んできたトレイの上には、炭火で焼かれた猪肉が並んでいた。一口大に切られた肉は表面に焼き色がついていて、香辛料の香りが食堂にふわりと広がった。
――あ、いい匂い。
思わずテーブルの上に置かれるお肉を目で追ってしまう。
「香辛料のソースと塩をご用意しております。お好みでどうぞ」
リザが慣れた動きでそれぞれの前に皿を置いていく。伯爵の前だからだろうか、いつもよりも動きが優雅だった。
「これは猪ですか」
従者の男性が、焼かれた肉を見ながら言った。
「はい。村の近くで獲れたものになります」
「ソースの香りが……独特ですね。何を使っているのですか?」
「村に来てくれるお友達が、調合してくれた香辛料が入ったものなんです。今は学園に戻ってしまっているんですけど……」
リザが少し誇らしげに答えた。
その話に興味を持ったのか、香りにつられたのか、スープを味わっていた伯爵の手がふと止まった。
「私にも一口貰えるかな」
――あ、えっと、お肉は小皿に入れて、それから、ソースと塩を……あ、フォークも。
私が考えている間に、リザは動いていた。
「すまないね」
伯爵はまず塩をつけた猪肉を口に運んだ。
「なるほど……」
お父様がそわそわしながら伯爵の様子を窺っている。
次にソースをつけてもう一口食べた。咀嚼しながら、小さく目を細める。
「炭火の香りとソースがよく合う。それに猪肉の旨みが引き立っている」
独り言のような呟きだったが、どこか楽しそうだった。
その様子を横目で見ていた従者の男性が、手にしていたスプーンをそっと置いた。
「あ、あの。私もいいでしょうか?」
伯爵が手を止めるのを待っていたらしい護衛たちが、フォークを構えたところへ従者の男性が声をかけた。護衛たちは従者の男性を見た。次に肉を見た。また従者の男性を見た。
「……どうぞ」
一人がぼそりと答えた。
「ありがとうございます」
従者の男性が頭を下げた瞬間、こうなることが分かっていたかのように、ソースの小皿やフォークなどをリザが従者の前に並べた。
従者の男性が一口味わい、小さく感嘆の声を漏らす。その隣では、護衛たちが黙々とフォークを動かしていた。塩、ソース、また塩。誰も言葉を発さないまま、皿の上の肉を口の中に運んでいく。
――す、すごい……。
気づけば、沢山あったはずのお肉は次々と消えていった。その速度が、何よりの感想だった。
食事を終えた伯爵が、テーブルの上で手を組んだ。
「馳走になった。それに、ここまで丁寧に給仕してくれて助かったよ」
小さく笑ってから、伯爵は表情を改めた。
「エルデガルド嬢、少し話したいことがあるのだが、よいかな。席を改めて、という話になるが」
「は、はい」
反射的に返事をしてから、お父様の方をちらりと見た。お父様は静かに頷いている。
――お父様はもう知っているのね。
「では、我が家でよろしいでしょうか」
「ああ、お邪魔させてもらおう」
厨房に戻ると、メリルがもう片付けを始めていた。昼の混雑が落ち着いた食堂は、さっきまでの賑わいが嘘のように落ち着いていた。
「メリルさん、少し抜けてもいいですか」
「もちろん。リザと二人で大丈夫よ。行ってらっしゃい」
メリルが手を振った。
母に声をかけに行くと、事情を話す前に「聞いてるわ」と返ってきた。
――何の話なんだろう。
あれこれ想像しながら、私は伯爵たちと共に家へ向かった。
* * *
伯爵は護衛たちを外に残し、従者の男性だけを伴って居間の椅子に腰を下ろした。父と母が向かいに座り、私はその隣に収まった。
全員が揃うと、伯爵がゆっくりと口を開いた。
「単刀直入に申し上げよう。エルデガルド嬢、ヴィセリアにある学校に来てみる気はないかな」
「……学校、ですか」
思わず繰り返してしまった。
「剣術に魔術、読み書きに算術、それから歴史もある。……正直、人によっては退屈な講座も混じっているがね」
伯爵がわずかに口の端を上げた。
「だが、ノックス領は直轄領となりこれから大きく変わっていく。それを担っていく者たちには、相応の知識と経験があった方がいい。エルデガルド嬢だけでなく、希望する者がいるなら数人受け入れる用意が出来ている」
食堂でスープを一口ずつ味わっていた時と同じ、ゆっくりとした話し方だった。
――私だけじゃなく、他にも……。
すぐに顔が浮かんだのは、ロベルト、リザ、マルクの三人だった。
――この話をしたら、みんなはどう思うかな。喜びそうだけど、村を離れるのは……。
「ただ、村のこともある。皆に無理をさせるつもりはない。まずは冬の間だけ、週に三日ほど街の屋敷を生活の拠点にしてもらおうと思っている」
「冬の間だけ、週に三日、ですか」
「ああ。通常は三日間は学校で学び、三日間は農家や教会、街の手伝いをしながら過ごしてもらっている。残りの一日が休息だ。村の子たちは学校で学んだ後、村に戻ってもらう形を考えている」
父と母は伯爵の話を小さく頷きながら聞いていた。
「どうかな?」
「あ、えっと……少し、考えてもいいでしょうか」
「もちろんだ。急かすつもりはない。ゆっくり考えてほしい」
伯爵が穏やかに笑った。
――学校、か。
私にとってありがたい話だと思った。だけど、すんなり頷けない気持ちもどこかにあった。




