第三十七話 小さな約束
お風呂から上がると、侍女が柔らかな寝間着を用意していた。袖を通すと、肌触りがまるで違った。
寝室に到着し侍女が扉を開けると、フェリシアが当然のように中に入っていく。私も続いた。
――あれ。
部屋の雰囲気が、さっきまでいた応接室とも、食事をした部屋とも違った。天蓋付きの大きなベッド。窓際に小さな机。壁際の棚に、本や小さな置物がいくつか並んでいて、生活の匂いがした。
「……この部屋もしかして、フェリシアの」
「えぇ、そうです。『友と枕を並べ、夜を共にする』と……」
フェリシアは一冊の本を取り出し、表紙をこちらに向けた。
「この本に書いてありました」
視線が本に吸い寄せられた。
「……それ、小説ですか」
「えぇ。お気に入りの一冊です」
本の背表紙に思わず目をやる。
――この世界の小説……読んでみたい!
魔術書や図鑑の類なら何度も読み返してきた。でも物語のための本は、聖女様のおとぎ話と子供向けの童話しか読んだことがなかった。
「……本が好きなのですか?」
「好きです」
頷いた。もう一度頷いた。気づいたらまだ頷いていた。
「ふふ、では貸しましょうか?」
――本当ですか!
心の中で叫んだ。表には出さなかった。たぶん。
「……ありがとうございます」
「顔がほころんでいますよ」
出ていた。
「あ、でも、この本でいいかしら? 他の本が良ければそちらでも……」
「はい、大丈夫です」
言い終わる前に、視線は既に本棚の背表紙を追っていた。一冊、二冊。どんな本があるのか、足が勝手に近づいていた。フェリシアの笑い声が少し遠くに聞こえた。
知らない本ばかりだった。どれも面白そうで、どれにするか決められなかった。
――これも、あれも……
視線を動かし続けた。そして、ふと、手が止まった。
――あ。
見覚えのある題名だった。〈光の聖女と、闇の魔王〉。誰もが知っている、おとぎ話。
「ユミナは、そのお話を知っていますか?」
いつもより、静かな声だった。
「それは、もちろん」
村でも誰でも知っているお話。ただ、ふと引っかかった。
――でも待って。ノックス領が良く思われていないなら……この話って、もしかして。
「もしかして、珍しい本……なの?」
「いいえ、ほとんどの人が知っているお話です。ただ……ノックス領で暮らしてきたユミナ、どんなふうに映っているのかな、と……思っていました」
――どんなふうに……
ノックスで育った自分だから、何か特別な見方ができるのかもしれない。そう思って考えてみた。
――聖女様が魔王を倒して、めでたしめでたし……
普通だった。どう頑張っても、普通の感想しか出てこなかった。
だけど……私は、その話の真実が少し違うことを知っている。
「本当にあった事なのかな……」
頭の中で考えていたつもりだった。つもりだったのに、フェリシアがこちらを見ていた。
――あ……
「ほ、ほら……魔王が本当にいたのかな、って。汚染された大地が残っているなら、そういう存在がいたのかもしれないし……」
言えば言うほど、声が小さくなっていった。取り繕おうとして、余計に怪しくなっている気がした。
「フェリシアはどう思ってるの!?」
「私は……本当にあったことだと思っています」
静かな、でもはっきりとした声だった。
「汚染された大地が今も残っているなら、それを生み出した何かが確かにあったはずですから」
そう言って、フェリシアがふっと笑った。その笑顔の意味が、私にはよく分からなかった。
「どの本にしようか迷っているのなら、1冊ずつ貸しましょうか?」
「え!? いいのですか?」
返事より先に、一歩踏み出していた。
「そのかわり、手紙もつけて返してくださいね」
「任せてくださいっ」
心の中で、本を高く掲げてくるくると回った。誰にも見えないから、何度でも回れた。表に出なかったのは、奇跡だった。
天蓋付きのベッドに横になったまま、フェリシアと話した。今日あったこと、村のこと、本のこと。
気がついたら、話す声がだんだん小さくなっていった。
「……ぇい……ま、ぉ……」
ふと、フェリシアの声が聞こえた。
――寝言?
そっと顔を向けると、フェリシアは目を閉じていた。静かな寝顔だった。
――何て言ったんだろう。
聞き取れそうで、聞き取れなかった。天蓋の向こうで、燭台の灯りが小さく揺れた。
――聖女、魔王……?
目を閉じた。でも、しばらく眠れなかった。
* * *
朝のお風呂は、昨日より長く入ってしまった。朝食を終えて、フェリシアと廊下を歩いている。後は村に帰るだけという安心感から、足取りも自然と軽くなる。ただ、それだけが理由ではない。手に持った本の重さが、心地よかった。
父と母が馬車の前に立っていた。ムルガ、ヘクター、ケビンの顔もあった。
全員が、フェリシアに向かって頭を下げた。
――そうだった。
一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂に入って、隣で眠った。それでも、フェリシアは王女殿下だった。
「皆さん、どうかお気になさらず」
フェリシアの声は穏やかだった。でも自然と周りの空気が引き締まるのが分かった。
私だけが、忘れていた気がした。
「皆さんがここにいるということは」
フェリシアがムルガたちに視線を向けた。
「はい。此度はエルデガルド男爵一家の護衛を承りました」
ケビンが背筋を伸ばして答えた。
「頼もしいですね」
ヘクターが少し得意そうな顔をした。ムルガがそれを横目で見て、小さく咳払いをした。
「道中、どうかご無事で。再びお会いできる日を楽しみにしております」
フェリシアが静かに言った。
「はい。色々とありがとうございました」
馬車に乗り込んで、窓から外を見た。フェリシアがこちらを見ていた。小さく手を振った。フェリシアも、静かに手を振り返した。
馬車は王都に来た時と比べると見劣りはするものの、ソファーもフカフカで振動も少なかった。
「帰りは宿が手配されているそうだ」
緊張から解放された父がソファーに深々と沈み込んでいた。
「お父様、大丈夫ですか?」
「あ、あぁ……」
――お父様、なんだか少しやつれたような……
「街が近くなったら起こしますから、少し休んでいてください。眠れてないのでしょう?」
「そうさせてもらう……」
母にそう言われた父は、壁に寄り添い目を閉じた。寝息が出るまで、そう長くはかからなかった。
「ユミナは、元気そうね」
「はい……あ、お母様。セレナさんに送る手紙の予備ってありますか?」
「えぇ、もちろん。……ふふ、来月にはたくさん届くと思うわ」
いつもより弾んでいるような母の声に、王宮での時間が、私だけのものではなかったのだと、今更ながら気づいた。
* * *
ユミナが村を離れて、四日が経った。
柔らかな日差しが村の隅々までいきわたった頃、ルナは村の入り口が見える場所に移動していた。
「あら、ルナ。おはよう」
声をかけてきたのはレベッカだった。
「朝ごはんね、ちょっと待っててね」
しばらくして、レベッカが戻ってきた。いつもと違う匂いがした。
差し出されたのは、皮に包まれたまま切られた、見慣れない形の肉だった。食べてみると、いつもより柔らかかった。それだけだった。
「美味しいでしょ? 王都から送られてきたんだから」
誇らしげなレベッカに、ルナは尻尾を一振りした。
――人は柔らかい方がいいのか。
「今日も同じ場所で待つのかしら?」
ルナが人を真似て頭を縦に振る。
「そう、でも……一週間ぐらいって話だったから、ユミナちゃんが帰ってくるまで、あと三日ぐらいかしらね。もう少し寂しい時間が続くけど我慢してね」
レベッカの手に一度だけ鼻先を押しつけてから、いつもの場所に向かって歩いていく。
南向きの厩舎の壁際に、干し草の詰まった麻袋が置かれていた。その上には古い毛布がかけられている。
始まりは、ルナが厩舎の傍で村の入り口を見ていたことだった。
「ルナ、寂しいの?」
「この毛布、ボロボロだけどルナにあげるわね」
「今日は、一緒に待っていてあげる」
気づけば、こうなっていた。特に必要とは思わなかったが、断る理由もなかった。結果、そこが定位置になった。
――しかし、サビシイとはいったい何なのだ。ユミナが帰ってきたら聞いてみるか。
お昼を過ぎた頃、村の入り口の向こうに三頭の馬の影が見えた。
当然、ユミナたちではなかった。馬に乗った三人の男。ルナはそのうち一人を見たことがあった。名前は……覚えていなかった。
「おや、ギルバートさん。久しぶりだね」
「おぉ、ディック。突然で申し訳ない。馬、入れさせてもらっていいか」
「どうぞ。ちょうど空きがありますよ」
ディックに促され、ギルバートたちが馬を引いて厩舎へ入っていった。ルナは毛布の上で欠伸をした。
ギルバートは以前にも来たことがある。残りの二人は知らない顔だった。二人とも興味深そうに村を見回していた。
「マグナさんに二人を紹介したいんだけど、今どこに?」
「あぁ。今、王都に行ってるんだ」
「王都?」
ギルバートの声が少し上ずった。
「……色々あってね」
ディックは、少し前までフェリシアが村に滞在していたことをギルバートたちに伝えた。ルナはその様子をじっと見ていた。
「……そんなことが」
ギルバートは目を丸くし、連れの一人も同じように驚いた様子だった。しかし、残りの一人は驚かなかった。ただ黙って、何かを噛み締めるように考え込んでいた。
「どうします? 男爵は今不在なようですし、出直しますか?」
ギルバートが連れてきた二人に聞いた。
「そうですね……せっかく来たのですし、村を見て回ってもいいですか? 色々と話も聞いてみたいですし」
連れの一人が、落ち着いた声で言った。
「あぁ、もちろん構わないよ。と言っても、杖様ぐらいしか見どころはないと思うけどね」
「おっ、それは儀式に使われた杖かな? 一度見ておきたいな」
もう一人の男が身を乗り出すように言った。
「そうだよ、案内しようか?」
「いや、案内なら俺がやらせてもらうよ」
ギルバートが買って出た。
「そうかい、それならお願いするよ。あぁ、話を聞きたいなら宿に行くといいよ。今、ちょっとしたお祭りになってるから」
「お祭り?」
ギルバートが首を傾げた。連れの二人も顔を見合わせた。
「まぁ、行けば分かると思うよ」
ディックは笑いながら馬の世話に戻った。三人が村の中に足を進める。ルナは毛布から降りて、三人の後ろをついていった。
宿の扉を開けると、中から熱気が溢れ出てきた。
「王女殿下が、このノックスに!」
「くそ~、俺も話を聞きに行けばよかった……」
「ふふん、私なんて毎日会っていたんだからっ。これはもう友達ってことよね!」
村人たちの声が重なり合っていた。テーブルの上には見慣れない瓶が並び、干し肉とは違う香りが漂っていた。
「ん? ギルバートじゃないか。もしかして、噂を聞いてきたのか?」
顔が少し赤らんでいる村人がギルバートたちを見つけ声をかけてきた。
「いや、マグナさんに紹介したい人を連れてきたんだけど、行き違いだったようでね……おや、それはいい酒じゃないか」
村人が手に持ったビンを見て、ギルバートが言った。
「はんっ、こんなもんが良い酒じゃと。あんたが持ってきてくれた物の方が口に合うわい」
「そんなこと言いながら、飲みすぎなんだよ爺さん」
ワドルの足元には空になった瓶が転がっていた。
「もしよろしければ、好みを教えていただけますか。扱っている品の中に、合うものがあるかもしれません」
男がワドルの隣に腰を下ろしながら言った。
「なんだか杖様を祀ってから良い事が増えたよね」
「それって、広場で大事にされていた魔導具の事かい?」
村人たちの会話に耳を傾けていたもう一人の男が、ここぞとばかりに身を乗り出した。
「おぉ、知ってるのか!」
「ついさっき、見てきたところなんだ」
気づけば、ギルバートを含めた三人の周りには村人が集まっていた。村人たちも嫌な顔一つせず、むしろ嬉しそうに話していた。




