第三十五話 王都
翌朝、着替えた私は、鏡の前に立って自分の姿を確認していた。フェリシアが用意してくれた服は、村では見たことのない仕立ての服だった。
――悪くはない……よね?
それなりに着こなせているように思えた。けれど、私は自分のセンスを信じていなかった。今も昔も、服は着ることが出来れば良い物でしかなかった。
「……お父様、お母様、どう、ですか?」
ゆっくりと、両親のいる方へと振り返った。
「よく似合っているわ」
母はしばらくこちらを眺めてから、静かに微笑んだ。
父は一瞬だけ目を瞬かせてから、何か言いたそうに口を開いて、結局何も言わずにどこか満足そうに頷いていた。
食堂に入ると、既に席についていたフェリシアと目が合った。一瞬、その目の奥に隠しきれない喜びが光った。けれどすぐに、王女らしい穏やかな微笑みを取り戻していた。
案内された席に座った私は、まず目の前を確認した。
――フォークが二本。ナイフが一本。スプーンが一本……少ない。よかった。
私はパンとスープから始まった朝食をしっかりと味わうことが出来た。パンは外がかりっとしていて、中がふわふわだった。添えられたジャムは程よく甘く果実の味が生かされていることが分かった。思わず追加しようかと迷った。迷ったけれど、誰もそうしていなかったので我慢した。
――昨夜も、こんな風に食べられたらよかった。
美味しかった、だけの夕食に少し後悔した。
「ノックス領の暮らしは如何ですか?」
スープを口に運びかけて、思わず手が止まった。伯爵がこちらではなく、父に向けて言った言葉だった。
今日の私は、会話も耳に入るほど余裕があった。自分自身を褒めながら、スープを口に運んだ。
「教会の方々に助けていただいたこともあり、お陰様でつつがなく過ごしております」
父が少し背筋を伸ばしながら答えた。
「悪い噂しか耳に入らなかったのですが、最近は少し違う話も聞こえてくるようになりましてな」
伯爵の口調は穏やかだった。
「村で頂いたお食事は本当に美味しかったですよ。特に素朴なのに味が濃い野菜。あれは忘れられません」
「恐れ入ります」
フェリシアの言葉を聞いて、父の表情が照れたようにほころんだ。
「ほう」
伯爵が少し目を細めた。
「王女殿下がそこまでおっしゃるとは。これは一度足を運んでみたいものですな」
冗談めかした口調だった。
「勿論です、いつでも歓迎いたします」
父は社交辞令だと思っているようだった。伯爵も、きっとそのつもりで言ったのだろう。でも、なぜだろう。言葉が耳に残った。
しばらくして、話題が伯爵領の教育に変わった。
領内外から年齢を問わず生徒を集め、読み書きや計算、礼節を教えているという。元は修道院が一部の子供を対象に行っていたものを、伯爵が教会に掛け合って広げたようだった。民兵の訓練も同様だという。
――学校みたいなものよね……「行きたいです」って言えば私も行けるのかな。
もちろん、口に出すことはなかった。目立ちたくない、平穏に暮らしたい。それが私の望みのはずだった。でも、少しだけ。ほんの少しだけ、気になった。
食事を終えて、出発の時間になった。
馬車に向かいながら、ふと屋敷を振り返った。一泊しただけの場所なのに、なぜか少し名残惜しかった。
「道中、お気をつけて」
玄関を出ると、到着した時と同様に伯爵一同が整列していた。
「お世話になりました」
フェリシアにならい頭を下げた。頭を上げると伯爵と目が合った気がした。
貴族というものを、私はよく知らなかった。アルデリックのような自信家か、ポンティウス司祭のような高慢な人物を想像していた。けれどヴィンター伯爵は、どちらでもなかった。
もう一度小さく頭を下げた後、馬車に乗り込んだ。
馬車が走り出すと、フェリシアがこちらをじっと見ていた。しばらくして、ぱっと両手を合わせた。
「うん、凄く似合ってる」
満足そうだった。服を選んだ本人が一番嬉しそうだった。
「そう、かな……ありがとう」
フェリシアのお墨付きは素直に嬉しかった。けれど次の瞬間、街中を歩く自分を想像して胃が痛くなった。
――嬉しい。嬉しいのだけど……目立つ、よね?
「では、ユミナ。今日もお願いします」
そう言って、フェリシアが私の横に移動してきた。今がいいと思った。
「あ、実はそのことでお願いがあって」
「お願いですか?」
フェリシアが小首をかしげた。
「うん、私が教える代わりに、マナーを教えてほしくて」
少し間があった。それからフェリシアはくすりと笑った。
「ふふ、それなら任せて」
トン、と胸に手を当てるフェリシアが頼もしかった。
「でも、しっかりできていると思いますよ」
「ほんと!?」
服が似合っていると言われた時よりも、ずっと嬉しかった。
「ただ……一生懸命になりすぎている時がありますね。夕食や朝食の時など」
「うっ」
必死だった夕食はまだしも、余裕があったつもりの朝食まで見抜かれていたとは思わなかった。
「そんなに分かりやすいかな?」
「はい」
笑顔で即答だった。
「ヴィンター伯爵はお気になさらない方でしたが、礼儀作法に厳しい方というのもいらっしゃいます。今日お世話になる方も、どちらかというとそちらで」
「ガンバリマス」
冷ややかな目で見られる自分の姿が、嫌になるくらい簡単に想像できた。想像したくなかったのに。思わず遠い目をしていたのか、フェリシアがまたくすりと笑った。
――笑いごとではないのだけれど。
「そうですね、ユミナ。一つだけ覚えておいてください」
フェリシアの真っ直ぐな視線に、自然と背筋が伸びた。
「大事なのは自信を持つこと、です」
「……自信」
「はい、たとえ内心では不安でも、それを表に出さないこと。自信があるように振る舞うのです」
「え? それって……いいのかな」
「えぇ。『私が正しい』という顔をしていればいいのです。……もちろん、本当に正しくある努力は必要ですけれど」
――確かに……優柔不断な王様……それは嫌かも。お父様も決断する時は出来ているし……時々、慌てていた気もするけど。お母様は……
あまり慌てているところを見たことがなかった。何があっても、穏やかだった。
――そういえば、夕食の時も……フェリシアの言う自信と同じか分からないけれど、お母様って貴族っぽい。
「ただ……その自信が度を越して、他者を見下してしまう方が居るのも事実なのですが」
「……王族って大変なのですね」
「あら、ユミナも貴族でしょ」
「……あ」
すっかり忘れていた。自分が一応貴族であることを。
――自信……もてるかなぁ~。
「……はぁ」
貴族に生まれた責任の重さを今さら実感して、私はそっと溜息をついた。
道中、馬車の中でフェリシアの魔力制御の休憩も兼ねて、色々と教わった。本当はメモに残したかったけれど、それも難しく、ただひたすら頭に詰め込んだ。
―― 一夜漬けならぬ馬車漬けね。
我ながら上手いことを言ったと、一人で自画自賛していた。
それでも、そのおかげで新しい街に自信を持って降り立つことが出来た。別の馬車から降りてきた父も、背筋を伸ばし、しゃきっとした顔をしていた。少し子爵の視線が痛い時もあったけれど、母やフェリシアの顔を思い浮かべてなんとか乗り切った。
ヴィンター伯爵の屋敷に引けをとらないお風呂のことはしっかり覚えているのに、料理の味については相変わらず美味しかったことしか覚えていなかった。
* * *
村を出て三日目の夕暮れ。
「うん、もう光属性は完璧ですね」
向かいの席に座っているフェリシアの手のひらの上には光の球が浮いていた。ふぅ、と深く息を吐き出すとともに、光の球は何もなかったかのように消えた。
「はい、でも……もう一つの方はユミナの助けがないとまだ無理そうです」
「感覚は分かってると思うので、後は慣れればできるはず、です」
根拠はなかった。だけど、一度感覚をつかめれば、あとはついてくると思えた。
「頑張ります」
フェリシアの目はまっすぐにこちらを向いていた。
「あ、あの……くれぐれもコッソリと、お願いします」
「勿論です」
言葉は完璧で優雅だった。ただ、目がキラキラしすぎていた。どう見ても楽しんでいる目だった。
私はそっと窓の外に視線を移した。すると、街灯のようなものが見えた。
「そろそろ、王都に着きそうですね」
フェリシアの言葉を聞いて、窓へと近づいた。進行方向に、大きな城壁が見えた。その向こうから街全体がぼんやりと光っていて、夕暮れの空に溶け込むように広がっていた。夜が近いのに、明るかった。
フェリシアを見るといつもと変わらない顔をしていた。
城壁をくぐった瞬間、息をのんだ。明るかった。とにかく、明るかった。夕暮れどきだというのに、昼間と変わらないほどに。
石畳が続いていた。どこまでも、整然と。人がいた。建物があった。魔導具の光があった。
――同じ時代の、同じ国なんだよね……
ほんの三日前まで土の道を歩いていた自分が、遠い未来に迷い込んだような気がした。
馬車を下りると、衛兵が敬礼し、侍女が頭を下げた。それだけだった。
盛大なお迎えがあるかもしれないと身構えていたのは、どうやら私だけではなかったらしい。隣で父がそっと息を吐いたのが聞こえた。
案内されるまま廊下を歩いた。
天井が高かった。壁の装飾が細かかった。壁に飾られた絵画が、私をじっと見ていた。
――自信を持つ。
窓から見える中庭が広かった。飾られた花が美しかった。すれ違う使用人の服が上等だった。
――自信を持つ。自信を持つ。
見るもの全てが背中を丸めさせようとしてくる気がした。フェリシアの言葉を呪文のように繰り返しながら、なんとか顔だけは前に向け母の背中を追った。
用意された部屋に入るなり、侍女が新しい服を広げた。
――……服?
「こちらにお召し替えをお願いいたします」
にこやかに言われた。断れる雰囲気ではなかった。
――この服も十分良いものだと思うのだけど、ダメなのね。
着替えを終えると、「しばらくお待ちください」と言って侍女たちが出ていった。
静寂の中、自分の鼓動が聞こえた。
――き、緊張する……
今すぐにでも村に帰りたい気持ちでいっぱいだった。父を見ると目を閉じて何かブツブツ言っていた。母は静かに座っていた。
「二人とも大丈夫よ」
そんな母が緊張をほぐすように言った。
「はい」「うむ」
蚊の鳴くような声だった。
「あなたは二度目なのに慣れませんね。馬車の中であんなに練習していたのに」
「え? 練習?」
思わず母を見ると、扇で口元を覆い隠しながらも、その縁からこぼれる笑みまでは隠しきれていなかった。
「お、おい!」
父に視線を移すと、口をつぐんで視線を逸らした。
――練習……あ、もしかして、声がかすれていたのって。
父と母の馬車の中の光景が想像できた。自然と口元がゆるんで、気持ちが楽になった。
侍女に促され、再び廊下に出た。
着替えた服のおかげで背中が丸くなることはなかった。
――なるほど、これなら背筋を伸ばしていられる。気持ちだけでどうにもならない時は、物に頼ればいいのね。
そんなことを考えながら、背筋だけ伸ばして、前を向いた。
案内された部屋は、想像していたものとは違った。高い天井に左右に並ぶ衛兵、玉座に座る国王。そんな場面を想像していた。
そこにあったのは落ち着いた色合いの椅子と、テーブルと、暖炉……応接室だった。
――あれ。
緊張して損した、とは思わなかった。思わなかったけれど、少しだけそう思った。
しばらくして、扉がノックされた。
父が音を立てて立ち上がった。私と母もそれに続いた。
――自信を持つ。自信を持つ。
扉が開く前に、もう一度だけ繰り返した。
「失礼いたします」
侍従の声とともに扉が開いた。私は頭を下げた。視界に石畳の床だけが見えた。足音が近づいてくるのが分かった。一つではなかった。
しばらくして、足音が止まった。
「面を上げよ」
落ち着いた、低い声だった。
ゆっくりと顔を上げた。
椅子に腰掛けた男性が、こちらを見ていた。エドワード・マクシミリアン・レガリア。赤色の髪だけど、瞳はフェリシアと同じ琥珀色だった。王冠はなかった。豪華な服でもなかった。けれど、そこにいるだけで部屋の空気が変わっていた。
隣にフェリシアが立っていた。こちらに向けて、小さく頷いた。




