第二十九話 初めてのお手伝い
昼下がりになると、ヘクターとケビンが広場に姿を現した。
二人とも昨日とはうって変わって旅支度を整えており、背には保存食の入った袋、腰には取り戻した武器を下げていた。
シエルは、ディックに頼んで昨日襲われた場所を確認しに行ってもらっていた。
「ちゃんとありましたよ。武器も保存食も。馬車の残骸も確認してきましたが……まぁ、使えるもんじゃなかったですね」
戻ってきたディックは、そう言ってシエルに回収してきた物を手渡していた。
「これを陛下に」
シエルは手紙をケビンに手渡した。
「必ず」
二人は馬に跨ると、そのままゆっくりと歩き出した。
「行って来ます、隊長」
ヘクターが振り返りもせず軽い調子で言った。ケビンは短く頭を下げてから、前を向いた。
二頭の馬が、そろって村の入口へと向かっていく。蹄の音が石畳を叩いて、だんだんと遠ざかっていった。
シエルとムルガは、その背中が見えなくなるまで無言で立っていた。
* * *
シエルからヘクターたちが出発したことを聞いたフェリシアは、祈りの手を組み静かに目を閉じた。その姿には先程までルナと戯れていた少女の面影はなく、まるでおとぎ話に出てくる聖女様のようだった。
「一週間ほどですか……もっと王都が遠ければよかったのに」
目を開けたフェリシアは、少女に戻っていた。
「ハハ、そうですな。いい休暇がもらえたと考えましょう」
楽しそうな二人の横で、シエルが静かに眉を寄せた。
「ところで……」
シエルの視線が、ふとフェリシアの膝の上のルナで止まった。
「この子はルナ。ユミナが私の護衛のために連れてきてくれたの」
「は、はぁ……」
何とも言えない表情のシエルをよそに、ムルガがルナの前にしゃがんで観察を始めた。体に触れたり手足を確かめたりしているが、ルナは我関せずといった様子でされるがままだった。村でも同じようなことは何度もあった。ロベルトの時を除いては。
――ルナはどういう気持ちなのかな。今度聞いてみよう。
「何かの亜種でしょうかな……」
「害はない」
フェリシアの護衛のためしばらく宿に詰めることになったガストンが、短く言い添えた。
「……そう、ですか」
シエルはルナに向き直り、小さく頭を下げた。律儀な人だと思った。心なしか、ルナが胸を張ったように見えた。
日が沈みかけた頃、母が夕食の準備のために顔を出した。
「エミリア夫人、お手伝いできることはありませんか?」
フェリシアの目は輝いていた。それはもう、キラキラと。
「え、えーっと……」
母がシエルに視線を送る。「どうしましょう」と顔に書いてあった。
「フェリシア様……」
「私、一度やってみたかったんです。でも、なかなか機会がなくて」
気がつけばフェリシアはもう母の横に立っていた。その動きはあまりに早く、誰も止めることができなかった。
――王女様にそんな事させたら、普通は怒られるんじゃないかな……
「あの……ごめんなさい」
「いや、こちらこそ」
気づけば私とシエルは、当の本人たちのいないところで謝り合っていた。
「それじゃあ、野菜を切ってもらえますか」
「はいっ」
フェリシアが両手でナイフを握り、大きく振りかぶった。
――え!?
その瞬間、穏やかな部屋の空気が変わったのがはっきりと分かった。
ダンッ。
威勢のいい音とともにキャベツが真っ二つになった。
「やりました。……あれ?」
見事な太刀筋で木の板に深々と食い込んだナイフは、びくともしなかった。
板に刺さったナイフを、母はさりげなく引き抜いてフェリシアに返した。
「刃の角度はよかったですよ。でも、それほど力を入れなくても大丈夫です」
「そうなんですか?」
「野菜を切る時は、こうして……」
母がフェリシアの手に自分の手を添えて、ゆっくりと動かしてみせた。フェリシアは真剣な顔で手元を見つめている。
壁際ではシエルが腕を組んだまま、フェリシアから視線を離さずに立っていた。止めるタイミングを完全に逃した顔だった。その横でムルガが静かに目を細めている。
「楽しそうで何よりです」
「そうだな……」
トン、トン、とゆっくりではあるけれど、野菜を切る音が響き始めた。全員、固唾をのんでフェリシアを見守っていた。気が付くと胸の前で両手を組んでいた私の横に何かが触れた。ルナだった。いつもと変わらない様子で丸くなっている……全員じゃなかった。
「できました」
フェリシアが顔を上げると同時に、肩の力が抜けるのが分かった。シエルもホッと一息ついていた。まな板の上には、大きさの揃わない野菜が並んでいた。
「上手ですよ」
母は微笑んだ。大きさについては何も言わなかった。
――そういえば、私の時も……
母に何かを教わる時、いつもそうだった。できないことを責めるのではなく、できたことを先に見つけてくれる。隣でただ見守りながら、必要な時だけそっと手を貸してくれた。
「次は何をすればいいですか」
「お鍋に水を張ってもらえますか。井戸は外に……」
「分かりました」
フェリシアが振り返るとシエルが立ちはだかった。
「……私も参ります」
「わかりました」
外に出ていく二人の後にガストンが続く。部屋が少し静かになった。
やがて、フェリシアが鍋を両手で抱えて戻ってきた。後ろにシエルとガストン、そして普通に歩く父の姿もあった。
――お父様、ようやく緊張がとけたのかな。
「これぐらいでよかったですか?」
「えぇ、ありがとうございます。では、火にかけますね」
母が鍋を受け取ってかまどに置き、切った食材を入れていく。フェリシアはその様子をじっと目で追っていた。
グツグツ。
部屋にシチューの匂いが広がっていった。
「美味しそうな匂い……」
フェリシアが小さく呟いた。その顔は、さっきまでの真剣な顔とは少し違って見えた。
皆で協力して、テーブルに料理を並べていった。いつもより具だくさんのシチュー、焼きたてのパン、そしてギルバートさんが持ってきてくれた砂糖煮の果物。村の宿とはいえ、これだけの人数が座れる広さは十分にあった。
これだけ大勢で食卓を囲むのは久しぶりだった。あの時と違って、テーブルの上にあるのは私にとって日常よりほんの少しだけ贅沢なもの。
――フェリシアには、どう見えるんだろう。
フェリシアがシチューをそっと口に運んだ。ルナ以外の全員が、自然とその様子に目を向けていた。フェリシアの顔がぱっと明るくなった。その笑顔を見て、父がそっと息をついた。
私も一口シチューを口に運んだ。不揃いな野菜の甘みがじんわりと広がった。いつもと同じ味のはずなのに、なぜか今日は少し違う気がした。
「どうですか?」
フェリシアが私の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「美味しいです」
「よかった」
お互いが笑顔になった。
フェリシアのスプーンの動きは静かで、音一つ立てなかった。思わず自分の手元を見た。特別おかしくはないと思うけれど……なんとなく、いつもより丁寧に口に運んでみた。
「……何か、気になりましたか?」
顔を上げるとフェリシアがこちらを見ていた。
「あ、いえ……食べ方が綺麗だなと思って」
「そうですか?」
フェリシアは自分のスプーンに視線を落としてから、今度はこちらの手元に目を向けた。
「ユミナはいつもそうやって食べているのですか」
「え、はい……普通だと思うんですけど」
「羨ましいです」
「え?」
思わず聞き返した。フェリシアは少し困ったような、それでいて楽しそうな顔をしていた。
「王宮では、食事の作法がとても細かくて。シチューは音を立てずに、パンはこうちぎって、肘はこの角度で……といった具合に、小さい頃からずっと言われてきたので」
「……それは、大変そう」
母から作法については教わったけれど、ちぎり方や角度まで細かく言われることはなかった。
教育係の人に指導される自分の姿を想像してしまう……上手にできず泣き出してしまう姿が簡単に想像できてしまった。
「ええ。だから、こうして気にせず食べられるのが少し羨ましくて」
「フェリシアは普段どんな感じで食事しているのですか?」
ふと疑問に思い、聞いてみた。
「そうですね……」
フェリシアは少し考えてから、答えた。
「食事中の会話も作法の一つなので、くだけた話はあまりできなくて。給仕が傍に立っていますし、静かに食べることの方が多いです」
「……そうなんですね」
「ええ。だから、こうして皆で話しながら食べるのが少し不思議な感じがして」
不思議、という言葉が引っかかった。
「不思議、ですか?」
「悪い意味ではないですよ」
フェリシアは少し笑った。
「何を話してもいいような、そんな気がして。王宮ではあまりそういう感覚がなかったので」
しばらく間があった。
「ユミナの家では、いつもこんな感じなのですか」
今度はフェリシアが聞いてきた。
「はい、だいたいは。こんなに大勢で食べるのは久しぶりですけど」
「そうなのですね……」
フェリシアが言葉を飲み込んだように思えた。「どうしたの?」と聞こうとしたけれど、笑顔に遮られた。
――その顔、ずるい……
それからしばらく静かな時間が流れた。シチューを食べる音、パンをちぎる音、言葉を交わす声。窓の外はすっかり暗くなっていたけれど、部屋の中は温かかった。私たちは、何気ない話を続けていた。
「フェリシア様が村にしばらく滞在されることは村の者には伝えました。ただ……お伝えしにくいのですが、病弱ということになってしまいまして……」
食事中の談笑の中、父が少し申し訳なさそうに切り出した。
何となく察しがついた。
――村の人たちに素性を隠すための口実かな。でも「病弱」って……お父様らしい。外に出てほしくなくて言っちゃったのかな。
「それは、むしろ好都合です。安静にしていなければなりませんね」
シエルの言葉に、フェリシアが何か言いたそうな目を向けた。
「……はい、わかりました」
渋々答えていた。
「それから……何人か訪ねてくるかと思います。ご迷惑でなければよいのですが……」
その何人かには心当たりがあった。
――うん。それを聞いたら、そうなるわよね。
「えぇ、もちろんです。構いませんよ」
「私たちもご迷惑をおかけしていますし、仕方ありません」
先ほどまで渋い顔をしていたフェリシアがすっかり嬉しそうになっている。その分をそのままもらったように、シエルの表情が曇っていた。
夕食が終わり、食器がひとつずつ片付けられていくと、賑やかだった部屋が少しずつ静かになっていった。
フェリシアは自分のお皿を両手で持ち、どこに運べばいいものかと母を見た。
「そこに置いておいてください。片付けは私がしますから」
「わかりました、ありがとうございます」
フェリシアは少し名残惜しそうに皿を置いていた。
片付けが終わると、フェリシアがこちらを振り返った。
「今日は、ありがとうございました」
一度、胸の前で上品に手を重ね、教わった通りの静かな仕草で頭を下げた。それは先ほどまでナイフを振りかぶっていた少女と同一人物とは思えないほど、凛としていて、どこか遠い世界の住人のような美しさだった。
けれど、顔を上げた彼女は、「ふふっ、今の、王女様っぽかったでしょう?」と言うようにいたずらっぽく笑っていた。
「おやすみなさい、ユミナ」
――敵わないな。
素直にそう思った。
「おやすみなさい、フェリシア」
夜の空気の中、私たちは自宅へと戻った。
フェリシアたちが滞在する間、フェリシアの要望もあって母が食事を作ることになり、私はそのお手伝い兼話し相手となった。
「しかし、大変なことになったな。何かあったら陛下に顔向けできん」
椅子に腰を下ろし、腕を組みながら父が言った。そう言いながら、背筋はいつもより三割ほど伸びているように見えた。
――どうしてだろう。全然困ってない気がする。
母は静かにお茶を一口飲んでいた。
「村の周りに誰かが居る様子もなかったのでしょう? あまり張り切りすぎないでくださいね」
――えっ、張り切る?
「どういうことですか?」
母の言葉を不思議に思い二人を見ると、父が慌てて視線をそらした。
「あら、ごめんなさい。何でもないのよ」
笑って誤魔化された。
「そういえば、お父様。王女様って聞いた時も冷静でしたね。私はてっきり……」
土地が浄化されていることをトーマスたちが伝えに来た時のことを思い出していた。今回の衝撃は、その時に匹敵すると思って身構えていたけれど、実際には多少動きが変だったこと以外は冷静でかっこよく見えた。
「ん? ……ま、まぁ、これでも十年以上領主をやっているからな」
胸を張る父の姿が、なぜか虚勢を張っているように見えた。そして、父を見る母の目が少し冷ややかだった。
――あれ? どうしたんだろう。
気になりはしたけれど、二人ともあまり話したくなさそうな雰囲気だったので、お休みの挨拶をしてベッドに入った。
横になると、いつもと何かが違うことに気が付いた。ルナがいない。温もりも、かすかな重みも、今夜は何もなかった。
――フェリシアの傍にいてくれているのかな。
目を閉じると、今日のことが浮かんできた。凛とした所作で頭を下げて、顔を上げたら笑っていた。あの切り替えは、きっと意識してやっているわけじゃない。
眩しいと思う。同時に、少し悔しかった。
『なら、ユミナもそうすればいいだろう』
ここに居ないはずの誰かの声が聞こえた気がした。もう夢の中かもしれない。
「……嫌よ」
夢の中の私はそう答えていた。




