第二十五話 再会1
暗闇の中に、光があった。
聖女が、魔王に立ち向かっていた。
でも、おとぎ話のようにはならなかった。
光は押し返され、地に叩きつけられ、それでも手を伸ばし続けていた。
もう、駄目だと思った。
その時、誰かが来た。
銀色の、髪をした人が。
銀色の髪をした人の姿が、霧のように溶けていく。引き止めようとしたけれど、指先には何も触れなかった。
ぼんやりと、天井が見えた。
見慣れないものだった。王宮の天蓋でも、訪問先の豪奢な客間でもない。節の浮いた、素朴な板張りの天井。それがフェリシアの意識を、ゆっくりと現実へ引き戻した。
暗い。窓の外はまだ夜と朝の境目で、部屋の輪郭がかろうじて分かる程度の光しかなかった。質素な木の寝台。粗削りな文机。壁に掛けられた、飾り気のない棚。どれも丁寧に作られてはいるけれど、フェリシアがこれまで泊まってきたどの部屋とも違った。
それでも、不思議と落ち着いていた。
隣に目をやると、シエルが静かに眠っていた。普段は凛と張っている眉が、今は少し緩んでいた。
フェリシアはしばらく、その寝顔を見つめた。
――あれは夢だったのかしら
馬車が砕ける音。地を這う触手。シエルを守りたくて、でも何もできなくて、それでも目を閉じることができなかった、あの瞬間。
夢にしては、鮮明すぎた。
フェリシアはゆっくりと体を起こした。軋む寝台の音が、静かな部屋に小さく響いた。
掛け布を除けると、スカートの裾に乾いた泥がこびりついていた。夢ではなかった、とフェリシアは思った。
足を下ろすと、ギシッという音と共にかさり、と布の擦れる音がした。
「……目が覚めましたか」
低く、けれど穏やかな声だった。驚いて振り返ると、隣のベッドで横になっていた女性がゆっくりと身を起こすところだった。水色の髪が、薄暗い部屋の中でも柔らかく揺れる。
エルデガルド男爵夫人。昨夜、慌ただしい中で紹介を受けた名前を、フェリシアは思い出した。
「……起こしてしまいましたか?」
「いいえ」
エミリアは首を振り、静かにフェリシアを見た。責めるでも、案じるでもない。ただ、そこにいるというような目だった。
「もともと、浅い眠りしかとれていませんでしたから」
柔らかな声音の中に、昨夜ずっと気を張っていたことが滲んでいた。
フェリシアは思わず視線を落とした。
気がついた時には、既にこの家の中だった。
あの後のことを、フェリシアはまだ断片的にしか思い出せなかった。雨の匂い。誰かに支えられた感触。揺れる灯りの光。
差し出されたお茶が、震えていた手をじんわりと温めてくれた。
その向こうでエミリア、今隣にいる女性は、手慣れた様子でヘクターたちの治療を続けていた。声を荒げるでもなく、慌てるでもなく、ただ静かに、それでも確かな手つきで。
ちなみに、男爵夫人だと教えてくれたのは、夫であるエルデガルド男爵だった。ここがノックス領の村だということも、その時に知った。
――こんな形で訪れることになるなんて……
フェリシアは自分がどんな顔をしているのか気になった。
エミリアと目が合った。何も言わずに、ただ穏やかに見ていた。
その時だった。
きゅう、と小さな音が、静かな部屋に響いた。
一瞬の沈黙。
「……っ」
フェリシアは両手でお腹を押さえた。耳まで熱くなるのが自分でも分かった。これまで生きてきた十二年間で、これほど間の悪い瞬間があっただろうかと思った。
「そういえば、昨夜は何も召し上がっていませんでしたね」
エミリアの声に、責める色はなかった。ただ、その口元がほんのわずかに緩んでいた。
「……はい」
絞り出した返事が、情けないほど小さかった。
「何か用意しますね。一緒に来られますか?」
フェリシアはこくりと頷いた。シエルの寝顔をもう一度だけ確認してから、そっとベッドを降りる。足音を立てないように気をつけながら、エミリアの後に続いた。
ドアを開けると、昨夜の慌ただしさが嘘のような静かな空間が広がっていた。
* * *
「フェリシア様!」
奥の部屋からシエルの声が聞こえた。民家の中には日の光が差し込んでいた。
バンッと勢いよく開いたドアから現れたシエルはいつもの顔だった。
「フェリシア様、ご無事ですか!?」
周りに目もくれずフェリシアの元に駆け寄り、ペタペタと体に触れて無事を確認している。
「シエル、私は大丈夫なので落ち着いてください」
「ハハ、隊長は相変わらずですな」
テーブルの向こうから、ムルガの笑い声が響いた。
三人がそれぞれ椀を手にしていた。着ているのは村人から借りた物で、くたびれた麻の上着と、丈の合っていないズボン。昨夜の面影はどこにもなく、ヘクターなどは袖が短すぎて手首がむき出しになっていた。
「隊長こそ大丈夫ですか?」
ケビンが神妙な顔で尋ねる。
「んっ?」
言われてから、シエルは初めて自分の体に目を向けたようだった。肩口の破れたブラウスから覗く素肌に、一瞬だけ視線を落とした。指先を軽く動かす。表情は変わらなかった。
「……あぁ、特に異常はないな。お前たちはどうなのだ?」
「この通りです!」
ヘクターが元気よく腕を持ち上げてみせた。借り物の袖がずり落ちて、またむき出しの手首が現れる。
「……その服はどうしたんだ?」
ようやくそこに気が付いたシエルに、泥で汚れた衣服を洗濯するために村人から借りた事を説明した。
「これがシエルの物です。まずは着替えてきてください。話はそれからです」
シエルは受け取った衣服をちらりと見てから、無言で部屋へ戻っていった。
フェリシアはその背中を見送ってから、席を立ち棚から木の椀とスプーンを取り出した。暖炉の前で温めてあるポタージュをよそい、褐色のパンと一緒にテーブルに並べると、温かみのある朝食の形になった。
ちょうどその時、ドアが開く音がして着替えを済ませたシエルが食堂に入ってきた。村人の服はシエルにも少し丈が余っていたが、昨夜よりずっと落ち着いた顔をしていた。その視線が、フェリシアの手元に止まった。
「フェリシア様、それぐらい私が……」
「今の私は商人の娘、でしょ?」
フェリシアは茶目っ気のある顔でシエルを見て、椅子を指し示すように手のひらを向け、着席を勧めた。
シエルは一瞬だけ口を開きかけて、それから小さく息をついて席に着いた。向かいに並べられている皿を見たシエルは三人を睨みつけた。
「あぁ~、いやっ、俺たちも断ろうとしたんですよ! でもフェリシア様が……」
ヘクターが圧に負けて自白を始めた。
「私が勝手にやった事です。それよりも冷める前に食べてくださいね、シエル」
「はぁ~」
シエルは諦めたようにため息をついてから、木のスプーンでポタージュをひとさじ口に運んだ。
「皆さんは、昨日の事をどこまで覚えていますか?」
全員が食べ終わるのを確認してから、フェリシアが口を開いた。
シエルがスプーンを置いた。それだけで場の空気が変わった。
ムルガは腕を組み、少し眉を寄せた。
「恥ずかしながら、魔物と戦っていた……という事しか覚えていません」
「俺もフェリシア様と隊長の魔術が当たったぐらいしか……」
ヘクターは頭を掻きながら、困ったように笑った。
ケビンは視線を手元に落としてから、ゆっくりと顔を上げた。
「私も同じ感じです。ただ……誰かに背負われていた……と思います」
暖炉の薪が、ぱちりと弾けた。
「隊長が倒したわけじゃ、ないんですよね?」
「あぁ、それはない」
シエルが視線を落とすことはなかった。ただ、フェリシアにはギュッと両手を握る姿が見えていた。
「私たちは、たまたま通りがかった旅人に助けられたようです」
フェリシアはその旅人が魔物を倒し、ここまで運んでくれたこと。そして、ここがノックス領の村であり、今いる家を使ってもらっていいと、男爵夫人のエミリアから言われたことを皆に伝えた。
「そうだったんですね……」
ケビンが静かに呟いた。
「隊長でも倒せない魔物を倒せる人なんて……国内でも数人いるかどうかでしょ……」
ヘクターが、いつもより声を潜めて言った。
「それもあるが、どうやって私たちを運んだのだ? あそこからノックス領の村まではまだ距離があったはず……いや、街道をつかわなければ、そうでもなかったのか……」
ムルガは独り言のように続けた。
三人が言葉を交わす中、シエルだけが黙っていた。その視線はどこか遠くを向いていて、昨日の記憶の中を歩いているようだった。
「これからどうします? ……隊長?」
「……んっ、あ、あぁ……」
おそらく昨日のことを思い出していたのだろう。フェリシアはそっとシエルの横顔を見た。
「やっぱり、男爵にフェリシア様の事を伝えたほうが……」
「いや、まずは現状の把握だ。そのあと援助が必要なら相談する」
ヘクターの言葉を遮ったその瞬間、シエルの顔から先ほどのかげりが消えていた。
「まずは、フェリシア様の身の安全の確保が最優先だ。あの魔物は馬車で運ばれていた。それと偶然出くわし、偶然暴れた……とは考えにくい。だとすれば、敵の狙いはフェリシア様だろう。私たちは商人を装っていたが、商品にしろ人にしろそれが狙いなら、あのような魔物を使う理由は無い」
「くそっ、いったい誰が……」
ケビンが唇を噛んだ。
「それを考えるのは無事に王都に帰ってからだ」
シエルの言葉。
「となると……まずは村、およびその周辺の確認と、新しい馬車の確保かですな……グレイモント子爵領なら、最悪歩いても行けそうですが……」
ムルガが腕を組んだまま呟く。
「道中、襲われる可能性も捨てきれないな。昨夜、何事もなかったようだから、首謀者にまだ伝わっていないか、あの魔物以外の手はないのか、判断はできないが」
シエルは視線を窓の外に向けた。
「グレイモント子爵側から動きはないんですか? ほら、フェリシア様が到着されていないわけですし」
「あぁ、今回の訪問で各領主に伝えてあるのは、三か月以内に訪れるかもしれない、ということだけなんだ。そうすることで経路を特定されにくくする……はずだったんだが……」
ケビンが隣の二人に視線を向けると、反応は真っ二つに分かれた。
「こんなことを言うと怒られるかもしれませんが、馬車や護衛の手配で関わっていた者も多いですし、知ろうと思えば知ることが出来た、とは思いますがね」
そう言いながら、ムルガは苦笑いとともに頭を掻いた。
「援助を頼むにせよ、王都に報告するにせよ、馬を借りる必要があるな。なんとか男爵にお願いしてみるか」
シエルの言葉に、フェリシアはふと我に返った。
「あっ、馬なら一緒に戻ってきたとエミリア様が仰っていましたよ。村の入り口付近の厩舎に居ると」
「そうですか……」
ムルガはそれだけ言って静かに息をついた。腕を組んでいた手がゆっくりと解けた。
「足があるなら……ムルガ、一度状態を確認してもらえるか?」
「もちろんです」
「ヘクターとケビンはここでフェリシア様の警護を頼む」
「わかりました」
「了解です」
フェリシアも小さく頷いた。
シエルはムルガと一緒に家を出ていった。
「フェリシア様、俺とケビンは外に居るので何かあれば声をかけてください」
「あ、わかりました。ありがとうございます」
二人はフェリシアに一礼してから外に出た。
――気を使わせてしまいましたね……
フェリシアは今の自分の状況を理解していた。自分が命を狙われた事、未だ安心できる状況にない事、そして移動するための馬車もない事。
フェリシアの中に恐怖はそれほどなかった。しかし……
――もう、できなくなってしまうことが、少し寂しいですね。……皆を危険な目に合わせておきながら、ほんと自分勝手。
王族が身分を隠して、こっそりと街を見て回る。これは父である国王や兄たちも行っていた、レガリア聖王国の王族の伝統行事のようなものだった。安定してる王国だから許されていた事であった。
こっそりといっても街の領主への挨拶は行っていたが、フェリシアはこの時間が大好きだった。
過去に二度、街を訪れており、その時に一人の子供として色んな人と接することが好きだった。シエルとの出会いもこれがきっかけだった。
静かになった部屋の中で、フェリシアはただ座っていた。
「……本当に、自分勝手……」
呟きとともに視線を落とした瞬間、膝の上に置いた拳に、ぽつりと涙がこぼれた。
コンコン、という音に、フェリシアは顔を上げた。心臓が小さく跳ねる。慌てて涙を拭い、息を整えた。
「今、大丈夫かしら?」
女性の声が聞こえた。
――エミリア様?
「はい、大丈夫です」
開かれたドアの向こうに立っていたのはやはりエミリアだった。そして、もう一人。エミリアの陰に隠れるように一人の少女がいた。
「あら、もしかして緊張しているのかしら」
「い、いえっ。だい、じょうぶ……ですっ」
微笑むエミリアにそっと背中を押され、前に出た少女はフェリシアと目が合った瞬間、膝を折った。
「は、はじめまして……」
顔を上げてから、名前を言っていなかったことに気がついたのだろう。少女の頬がさっと赤くなった。
「ユミナ・エルデガルドと申します。えっと……お、お目にかかれて……光栄です」
言い終えてから、もう一度膝を折った。
フェリシアは口に手を当てて、目を丸くした。
——まさか……
その先を、フェリシアは心の中でも言葉にできなかった。




