第二十四話 灰色の魔物2
魔物が動いた。
触手が横薙ぎに払われる。フードの人物はそれをひらりと躱した。一歩も動いていないように見えた。触手が空を切り、地面を抉る。
また来る。今度は上から叩きつけるように振り下ろされた触手が、しかし寸前で軌道をそらされた。
「……」
フェリシアは息をするのを忘れていた。
左から、右から、下から地を這うように魔物は角度を変えるたびに触手を繰り出した。それなのに、フードの人物はそのどれにも触れさせなかった。大きく跳ぶわけでも、全力で走るわけでもなかった。
――本当に夢を見ているの?
そう思えた。触手が届く寸前、必ずそこに人がいなくなっている。かといって消えているわけではない。ただ魔物の攻撃が、その体を捉えることができていなかった。
剣が一閃し、触手の一本が地に落ちた。
魔物は奇声をあげ、触手が同時に小柄の人物に迫った。上、右、左、そして足元から。
フェリシアは思わず声を上げかけた。
風が吹いた。触手がそれぞれわずかに弾かれ、軌道がほんの少しずれる。その隙間を縫うように、フードの人物は魔物の懐へと潜り込んだ。直後、閃光のような斬撃がその胴体を裂く。
魔物が後退する。縦長の瞳が、初めて揺れたように見えた。
「……だれ……なの」
フェリシアの呟きは、雨に溶けた。
* * *
意識が重い。
霞む視界の中で、シエルはそれでも目を離せなかった。
触手が迫る。上から、右から——フードの人物はそのどれに対しても、無駄な動きをひとつもしなかった。半歩退いて軸をずらし、剣の腹で流して、肩をわずかに傾ける。それだけで、触手は届かない。
――あの、足の運び。
剣術の入門書に書いてある基本だった。重心を低く保ったまま最小限だけ動く。相手の力を殺さず、流して、ずらして、次の一手へ繋げる。
ただ、それは理想であった。訓練でできたとしても実戦で使えるかと言われれば、積み上げた十数年を以てしても、なお届かぬ境地だった。
風が生まれた。四方から迫る触手の軌道が、ほんのわずかに歪む。その隙間はどこにあるのか、フードの人物には最初から見えているようだった。迷いなく潜り込み、既にあった傷跡を一閃する。
――見切っている。
触手の速さを、重さを、次にどこへ向かうかを。全部、分かった上で動いている。
シエルの記憶の中にその動きはあった。教わったのは短い間だったけれど、その動きの美しさだけははっきりと脳に焼き付いていた。
――……いや、違う。体格が違う。けれど……
閃光のような斬撃が胴体を裂き、魔物が後退する。フードの人物は乱れた呼吸ひとつなく、ただ静かに立っていた。
羨ましい、と思った。
視界が、また滲む。体が重くなっていく。それでもシエルは、その背中から目を離すことができなかった。
その視界が地面の膨らみを捉える。
――あれはっ!
叫ぼうと開いた唇の間から漏れるのは、掠れた吐息と苦悶の熱だけだった。
針のような先端が大地から顔を出し、フードの人物を背後から襲いかかる。
次の瞬間、銀光がその軌道を先回りする。まるで初めからそこに触手が現れることを知っていたかのように、刃が迷いなく振り抜かれた。
「……せんっ、せい……」
声と呼べるものではなかった。吐息に混じった、ほとんど形のない言葉だった。
* * *
――凄く硬い……
少し頭の長い蛸のような魔物。そう、蛸だ。蛸ということにしておく。
魔物の攻撃も速さはガストンの剣ほど早くはない。動きは不規則だったけれど、魔力の流れを視れば次の動きを予測することはできた。避けきれない攻撃は、風を生み出しその軌道を誘導することで対応できた。
体表は固く剣で斬るのは困難だったけれど、剣の動きに風の刃を合わせることで蛸の足を斬ることはできた。
問題は、灰色の部分だった。汚染された大地と同じ色のそれは風の刃でも少しの切り傷しかつけられなかった。
――傷跡があったから、そこを斬ることは出来たけど……
蛸を見ると、その部分を守るように自分の足を巻き付けていた。
――足の部分を全部切り落とせば……
私の考えを察したかのように、切り落とされた足が再生する。
――時間がかかりそう。
意識はそのままに、周りの状況を確認する。後ろで倒れている一人は明らかに体調が良くない。道端に倒れている人たちは少し動いているように見えるけれど、冷たい雨が容赦なく彼らの体温を奪い去っていく。
――汚染されているのなら、浄化すればいいかも? だけど……
ウネウネしている蛸の足がそれをする隙を与えてくれるとは思えなかった。
――ルナに助けてもらった方が良さそうかな。
刃から滴り落ちる雨粒を、視線で追う。
――そっか、魔力を放つんじゃなくて、纏わせることが出来れば!
剣を体の一部のように魔力を纏い、その魔力を普段浄化に使う魔力に変える。
鉄の塊が輝きを持っていく。
――うん、でも……もっと鋭く。
雨粒が、刃に触れるたびに光の雫となって弾け散った。まるで無数の光の粒が刃の周りを漂っているようだった。暗く沈んだ雨の街道に、そこだけ違う景色があった。
一瞬、魔物の瞳と、視線が交わった。
今まで以上に、魔力を全身に巡らせ踏み込む。筋肉の一本一本に力を通す。足が地を蹴る感覚がいつもと違った。速い、と自分でも思った。
魔物が反応する。触手が四方から迫った。
軌道を読んで体をわずかに傾ける。触手が腕を、肩を、フードの縁を掠めた。湿った風圧が頬を叩く。
その瞬間、フードが落ちた。
雨が、直接頭に降り注ぐ。銀色の髪が雨を受けて揺れ、頬に張り付いた。視界を遮る雫を拭うことさえせず、ただ前を見据える。もう、間合いの中にいた。
輝く刃を振り抜く。光が弧を描いた。
音はなく、ただ白い軌跡だけが雨の中に残った。
魔物の胴体に走った亀裂から、淡い光が滲み出す。縦長の瞳が、ゆっくりと揺らいだ。それからすべてが、霧のように——静かに、跡形もなく消えた。
雨だけが、降り続けていた。
「ッ! ゲホッ、ゲホッ!」
止まっていた時間が動き出したかのように、倒れている女性の顔が苦悶に歪む。魔物から受けた毒は消えていなかった。
「シエル!」
シエルと呼ばれた女性を介抱する金髪の少女が光の魔術を行使しようとするけれど、発動せずに魔力が散っていく。もう一度……結果は同じだった。
「っ!」
声を、必死に飲み込んでいた。それでも瞳からこぼれ落ちるものだけは、止められなかった。
「……」
金色の魔力の中に、ルナと同じ色の魔力が視えた。私は少女の向かいに膝を突き、そっと手を重ねた。
少女と目が合った。私はゆっくりと、小さく頷いた。
「私が補助するから、もう一度」
頬を伝う涙は止まらなかった。けれどその瞳の奥に、揺るがないものが戻ってきていた。
「……天上の輝き、生命の陰りを暴き出し偽りの腐蝕を焼き尽くさん。セイクリッド・パージ」
金色の魔力に混じり込もうとする白銀の流れ。少女自身も意図しているわけではない。けれど、守りたいという強すぎる思いが今回に限って良くない結果をもたらしていた。
壊さないように、乱さないように。白銀の魔力の流れを読みながら、ほんの少しだけ向きを変える。それだけでよかった。
金色の光がシエルを包み込むように広がっていく。赤黒く腕を侵していた痣が、光に押し出されるように縁から色を失っていく。中心へ、中心へと追い詰められ、やがて何もなかったかのように消えた。
青白かった顔に、少しずつ血の気が戻る。苦しげだった呼吸が、一度深く吐き出されて、それから穏やかに整っていった。
「よかった……」
その様子を確認して緊張の糸が切れたのか、少女はシエルに覆いかぶさるように倒れ込んだ。
『大したものだ』
顔を上げるとルナの姿があった。
『しかし、この後どうするのだ? 村に運ぶか?』
私は周囲を見回した。魔物の脅威は去ったけれど、それで安心という状況ではなかった。
「えっと……お願いしても平気?」
『あぁ、半分に分ければ大丈夫だろう。人を運ぶのは慣れている。……だがあの生き物はどうする?』
「え?」
ルナの視線を追って、私は少し驚いた。馬たちが雨の中で身じろぎもせず、静かにこちらを見つめていた。
――あの子たち……もしかしてこの人たちの……
「ど、どうしよう……ついてきてくれる、かな?」
『聞いてみるか』
ルナはそう言い、ゆったりと地を蹴った。歩くよりも一歩が深く、それでいて流れるような足運びで馬たちに近づいていく。
「ルナ!? ちょっ……」
馬たちは逃げなかった。耳をぴんと立てたまま、ルナをじっと見つめている。怯えているわけでも、威嚇しているわけでもなかった。
――大丈夫って理解しているのかな……でも、聞いてくるって……ま、まぁ、ルナも大きいけど狼だし……
突然明かされたルナの能力に驚きつつ、私は立ち上がり、道端に倒れている人たちの元へ……
「あっ」
二人が雨に打たれないように風の魔力で包み込んでから、倒れている人たちの元へ向かった。
三人とも頭から血を流しているという事はなく、呼吸もしっかりしていた。その中の一人の腕に青い痣が見えた。母が治療の魔術を使っているところを何度か視ていたので、ある程度再現できる自信はあった。でも、倒れている人がどのような状態なのかは分からなかった。
――とりあえず、お母様の魔術を真似して全身を治療してみる? でも、成功するか分からないし……起こして確かめるにしても……
少し悩んだ末、担架のように魔力で体勢を固定して運ぶことにした。既に二人の元に戻っていたルナから『器用だな』と褒められたような気がした。
「ルナ、村の入り口から少し離れたところに、葉を落とさない大きな木があったと思うんだけど……そこまで運べる?」
『あぁ、分かった』
「最初に男の人たちをお願い」
ルナは頷き、慣れた尾さばきで三人を背に乗せた。魔力が繭のように三人を包み込む。
『すぐ戻る』
「うん」
一人残された街道は、雨音だけが響いていた。
フェリシアはシエルに寄り添ったまま眠っていた。シエルの呼吸は安定している。ふと、濡れていた服が目に入った。
――あっ、このままだと体が冷えちゃうよね……
火の球を作り二人を包む風の衣に近づける。
――これで少しは温かい風になるかな。
そうこうしているうちに、銀色の影が雨の中から現れた。
『待たせた』
「ううん」
ルナが二人を丁寧に背に乗せる。私もその後ろにまたがった。
「そういえば、あの子たちはどうだったの?」
『ついてくると言っていた』
本当に会話できるのか分からないけど、意志の疎通はできるようで、少し羨ましく感じた。
ルナが視線を送ると、四頭の馬がこちらに近づいてきた。
走り出したルナの後を、蹄の音がついてきた。ルナの足取りは、来た時よりも明らかに穏やかだった。
『それで、これからどうするのだ』
皆を下ろし終えたルナが聞いてくる。
「うぅ~ん……ルナが見つけて、ルナが助けたってことにしようかなって……」
大きな狼が目の前で首をかしげた。光に包まれたその体が小さくなる。頭は傾いたままだった。
『……私が?』
「そう。ルナが旅人の姿でここにいてくれれば、あとはなんとかなると思うから」
我ながら雑な作戦だとは思った。でも、私の名前が出るよりはずっとましだった。
「ルナ、人の姿でここに居て!」
『……分かった』
銀髪に碧眼の女性が現れた。私は真っ先にコートの下を確認した。
――よかった、今回はちゃんと服を着ている。
「完璧よ。それじゃあ、ルナはこの人たちを助けてここまで連れてきた旅人。いい?」
『無茶苦茶だな』
「分かってる」
呆れたように息をついたルナだったが、それ以上は言わなかった。
まずは父に知らせるべく、私は駆けだした。ふと振り返ると、ルナがついてきた馬たちに囲まれていた。
その後のことは、あまりよく覚えていない。必死だったのだけは分かる。
父が馬車と共にガストンやディックを連れて来てくれた。事情を話す間もなく、五人はあっという間に宿へと運ばれていった。母に皆を診てもらい、旅人を装ったルナには「調べたいことがある」と言って姿を消してもらった。
気がついたら、小さな狼に戻ったルナと一緒に布団の中にいた。
父と母は不測の事態に備えて宿に泊まることになった。もとは大きな民家でしかなかったその建物は、調査団の一件を機に寝台が増え、今では宿としての体裁を少しずつ整えつつあった。
「お父様、お母様、ありがとうございます。……ごめんなさい」
返事はなかった。あるはずもなかった。
ルナが、小さく身じろぎした。その温かさに引き寄せられるように、瞼が落ちていく。色々ありすぎた一日は、静かに終わっていった。




