第二十三話 灰色の魔物1
少し時間は遡る。
パカラ、パカラ、パカラ。
馬の蹄が、湿った街道を叩く音が規則的に響く。
グレイモント子爵領へと続く道を、一台の馬車が進んでいた。豪華な装飾はないが、しっかりとした木組みと、丁寧に仕上げられた車体。荷台を覆う帆布も質の良いもので、成功した商人が使うような堅実な馬車だった。
馬車の前後には、それぞれ一人ずつ護衛が馬に乗って付き従っている。剣を腰に下げ、周囲に鋭い視線を向けながら進む姿は、ただの荷物運びではない、何か大切なものを守っているようだった。
馬車には二人の女性が座っていた。
一人はブラウン色のボブカットで黒い瞳の女性。薄手コットンの長袖チュニックと黒のコルセットで引き締まったしなやかな体躯。
コルセットの下には、黄金のラインが細く施された、同色のキュロットスカートが合わせられている。脚には太腿まで達するフルレッグガードを着用し、フード付きのマントを羽織っている。
もう一人は緩やかにウェーブした金髪の三つ編みと、意志の強さを感じさせる琥珀色の瞳をもつ少女。
袖口に精緻な装飾を施された深いグリーンのハーフコートの下にはチュニックと赤いボタンベスト。重ね着された厚手のスカートから黒のレースアップブーツが見えていた。
「グレイモント子爵領はアルヴェイン公国製の魔導具が沢山あるのでしょう、楽しみだわ。シエルは行ったことがあるの?」
「いえ、私も初めてです」
そう答えつつも、シエルの意識は外に向いていた。
「もう、せっかく二人だけなのに、そんなに外が気になるの? ノックス領の近くだからかしら?」
「はい、そうです。フェリシア様」
シエルは少しむくれた顔をしているフェリシアを見て答えた。
「ですけど、事前の偵察では何も危険は無かったのでしょう?」
フェリシアの言う通り、一週間前に王国の兵士が街道の周辺に危険が無いか調べていた。その結果安全と判断されたのだが、変異した魔物がいると噂される土地の近くでは、警戒するに越したことはなかった。
「司教様の話でも、汚染された大地が浄化されているとか……ねえ、シエ……」
「ダメですっ」
言葉を遮られたフェリシアはじぃーっとシエルを睨むように見ている。
「ノックス領の村にも立ち寄りたいと言いたいのでしょうけど、ダメなものはダメです。この街道も安全
と報告は受けていますが、何かあってからでは遅いのですよ」
「はい、分かりましたよ」
フェリシアは母親に怒られた子供のようにしゅんとしている……と思いきや頬に手を当てて何かを考えて
いた。
「ノックス領の調査に同行したいと司教様にお願いしてみようかしら」
こういう話を冗談ではなく本気で考えているのが、フェリシアという人物だと知っているシエルは、諦めさせる方便を考えた。
「ノックス領は行商人の往来もほとんどなく、調査員を受け入れるだけで精一杯と聞きます。受け入れる側である男爵や村人の事も考えてください」
シエルは人差し指をスッと立てて、一つ一つ事実を確認させるように説明した。フェリシアは顔を背けるでもなく、その言葉に耳を傾けている。
「良くなってきているというのなら、支援を増やせばもっと良くなるという事よね。そうすれば商人や人の往来も増えて、村も人を受け入れられるようになる」
「それが簡単ではないことは理解しているでしょう」
二人は王国内の貴族からでノックス領がどのような目で見られているのか知っていた。「価値のない土地に資金を投じることは無駄」というのが、一般的な考え方になっていた。
国王は「国内に暮らす臣民は等しく守られるべき」としてノックス領の人々が暮らせるように援助を続けているが、この考え方が広まるにつれ援助の維持が困難になりつつあった。
組んだ指をじっと見つめていたフェリシアだったが、ハッとしたように顔を上げると、パッと花が開くような笑顔を見せた。それとは対照的に、シエルは言いようのない胸騒ぎに眉をひそめた。
「せっかく状況が改善し始めているのだから……そうだっ、私のお気に入りと言う事にしましょう」
パンっと手を合わせ笑顔をシエルに向ける。
「はぁ~」
シエルは頭を抱え、フェリシアに聞こえるように大きなため息をついた。
口で言うのは簡単だが、それを実際に行うのはとても難しいという事をフェリシアは理解している。
ただ、それを理由に諦める人ではないことをシエルは知っていた。それ故、シエルはこれから巻き込まれるであろう面倒ごとに対して、大きなため息をついた。
「でも、そうなると……一度は訪問しておきたいわね。何かそれらしい理由を考えて……」
フェリシアは小さく唸りながら、視線を彷徨わせて頭をゆらゆらと揺らした。その動きに合わせるように馬車がスピードを緩めた。
「どうした?」
シエルは御者に状況を確認するために、馬車の帆布を少しめくった。額にポツリと雨粒が当たった。
「それが……あれを」
御者がが指さした方を見ると、街道を遮るように木製の馬車が止まっているのが見えた。
「確認してきましょうか?」
「あぁ、頼む」
護衛の一人が、馬に乗ったまま近づいていく。
――はぁ、嬉しくないトラブルだな。賊……にしては馬車の作りが良すぎる。
馬車の護衛と思われる人も目視できなかった。
――周りに誰かが潜んでいる気配もない……
シエルが立てかけておいた剣に手を伸ばすと、馬の耳が後ろに倒れ、突然、言い表しがたい悪寒に襲われた。
バキ、バキバキッ!!
同時に止まっていた馬車が内部から破壊され、その馬車の御者と思われる男が街道に投げ出された。
「あっ、がっ、た、たすけっ……」
壊れた馬車の影から何かが伸びた。空間を裂く鋭い風切り音と共に、濡れた光沢を放つ太い何かがしなっ
た。道端に倒れ伏していた男の胴体に、それは容赦なく叩きつけられる。
「がはっ……!」
悲鳴すら満足に上げられず、男の体はボロ雑巾のように宙を舞った。凄まじい衝撃に弾き飛ばされた肉体
は、数メートル先の石壁に激突した。
馬が叫び声を上げた。前脚を高く蹴り上げ、体を大きくのけぞらせる。
「っ、おわっ!」
護衛の一人が鞍から弾き飛ばされ、泥の混じった街道に叩きつけられた。受け身を取る間もなかった。
「ヘクター!」
もう一人の護衛が叫んだが、自分の馬を抑えるので精一杯だった。白目を剥いた馬が頭を激しく振り、手
綱を引く腕ごと持っていかれそうになる。
「落ち着けっ、落ち着かないかっ……!」
御者も必死だった。二頭の馬が互いに絡まるように暴れ、馬車ごと引きずられそうになる。手綱を両手に巻きつけ、全体重をかけて引き絞る。それでも馬は言うことを聞かなかった。
「どうどうっ……どうどうっ……!」
声を張り上げながら、御者は手綱を緩めず、しかし無理に引き戻そうともしなかった。馬の恐怖に逆らう
のではなく、少しずつ、少しずつ……
馬車の中からはフェリシアの短い悲鳴と、何かにしがみつく気配が伝わってきた。
「フェリシア様、掴まっていてください!」
シエルは帆布を押さえながら叫んだ。腰の剣に手をかけたまま、外の様子を確認する。
街道に投げ出されたヘクターが、泥の中でゆっくりと体を起こそうとしていた。
「ムルガ、馬は動かせるか。来た道を引き返す」
シエルは剣を抜きながら御者に指示を送り、前に出る。
「やってみます!」
「ヘクター、ケビン、時間を稼ぐ」
壊れた馬車の影が、ゆらりと動く。見た瞬間、全身の毛が逆立った。胴体は人一人吞み込めるほど。
灰色がかった皮膚は濡れたように鈍く光り、そこから伸びる暗赤色の触手が、まるで意思を持つように地を這っている。
顔と呼べるものは、ただ一つ中央に据えられた縦長の瞳だけだった。それが、こちらをゆっくりと捉えた。
――あれが、あの男を吹き飛ばしたのか。あの触手は厄介だが、動きは鈍そうに見える。
「近づきすぎるな、あの触手は見た目以上に長い」
「はいっ」
不測の事態ではあるが、冷静さを取り戻していた。ヘクターとケビンが魔術の詠唱を始める。
触手が動きを止めた。
それまでうねるように動いていた暗赤色の触手が、ぴたりと地に張り付く。まるで……
――跳ぶ。
シエルの体は頭より先に動いていた。
「姫様っ!」
帆布を剣で横一文字に切り裂く。同時に、馬車の中に腕を突っ込んでフェリシアの体を力任せに引きずり
出した。
次の瞬間、影が落ちた。
触手をバネのように畳み、真上へと解放した跳躍。赤黒色の塊が空へ舞い上がったのは一瞬だった。重力
に引かれまっすぐに、馬車めがけて落ちてくる。
ズドンッ
踏み潰された馬車が内側から爆ぜるように砕け散る。木片と金具が雨の中に飛び散り、丁寧に仕上げられた車体は一瞬で形を失った。
衝撃波が泥を巻き上げ、シエルの頬を打つ。
腕の中のフェリシアをかばいながら、シエルは地面を転がり膝をついた。
馬たちは狂ったよう千切れた手綱を引きずりながら、街道を駆け去っていく。蹄の音が、雨の中に溶けて遠ざかった。
「……シエル」
フェリシアが、掠れた声で呼んだ。
「ご無事ですか」
答えながら、シエルの視線は瓦礫の中心から離れなかった。土煙が晴れていく。その奥で、縦長の瞳がゆ
っくりとこちらを向いた。
馬車はない。馬もない。
「ムルガ、無事か」
「えぇ……何とか……っ!」
右腕を押さえながらよろよろと立ち上がるムルガ。
「正面は私が支える。ヘクターとケビンは左右に回れ。ムルガは背後に。……フェリシア様、援護をお願
いします」
本当はフェリシアには「逃げてください」と言いたかった。護衛としてそう言う事が正しいことも分かっ
ていた。しかし、フェリシアがそれを聞いてくれないことも分かっていた。
「はいっ」
フェリシアの力強い声が返ってくる。
シエルの意識が目の前の敵に集中していく。
シエルが間合いを詰める。地を這うように伸びてきた一本を、シエルは横に跳んで躱す。
「っ!」
返す刀で触手の側面を斬りつける。手に伝わったのは、肉を断つ感触ではなく、硬い何かを叩いた衝撃だ
った。
ムルガが詠唱する。魔物の背後から放たれた炎の塊が魔物の胴体を直撃し、黒煙が上がった。しかし縦長
の瞳は動じない。触手が二本、三本と持ち上がる。
左右に回り込んでいたヘクターとケビンが同時に斬りかかった。しかし、胴体の側面を狙った斬撃は触手に阻まれた。横薙ぎに払われ二人は体勢を崩す。
「くそっ」
ケビンが歯を食いしばり踏みとどまる。
シエルは正面から踏み込んだ。触手の動きを見切り、潜り込むように間合いを詰める。胴体の中心、縦長の瞳の下、皮膚の薄そうな部分に渾身の一突きを叩き込んだ。
ガキンッ!
剣先が、弾かれ手首に痺れが走る。弾力のある見た目に反し、鉄を突いたような感触だった。
「シエル!」
鋭い声に反応してシエルは横に跳び、射線を開ける。
フェリシアが光の弓を構えていた。収束した魔力が矢の形を成している。
「セイクリッド・アロー!」
放たれたそれは一直線に魔物の胴体へ直撃した。爆音と共に白い閃光が弾ける。魔物の胴体が大きく揺
れ、よろめくように後退した。
「荒れ狂う螺旋。虚空の刃を以て、一切を断ち切らん。ヴォルテックス・ゲイル」
複数の風の刃が円盤状に回転し、大気と共に魔物を切り裂く。
「やった……!」
ムルガの口から思わず声が漏れた。ヘクターとケビンも動きを止め、光が晴れていく先を見つめた。
その瞬間だった。煙の中から、触手が放たれた。
「……っ」
シエルは咄嗟にフェリシアを襲う触手を剣と体で防ぐが、衝撃に視界が揺らぎチュニックの肩口が破れる。
視界の端で三つの影が宙を舞うのが見えた。金属が地を打つ乾いた音が、雨の中に混じった。
煙の向こうで、縦長の瞳が変わらずこちらを見据えている。少しの切り傷と共に。
「……シエル」
フェリシアの声が、低く静かだった。
「大丈夫です。もう一度、いけますか」
無言でうなずくフェリシア。
――恐ろしく硬いが、無傷ではなかったのなら勝機はある。
ふと、違和感を覚えた。魔物の触手が地面に突き刺……
――下か!!
視線を下に落とすと、フェリシアの足元に膨らみが見えた。
地面から触手が付きだす。その先端は丸みを帯びたものではなく尖ったものだった。シエルはフェリシア
と触手の間に体を滑り込ませる。避けきれないそれが腕に刺さる。
二人は泥の上を転がる。シエルは態勢を立て直そうと立ち上がろうとするが、力が入らず視界が紅く染まる。
――くそっ、毒までっ。
「はぁっ……はぁっ……」
呼吸が荒くなっていく。体が熱を持ち、手が震え額を流れるものが雨なのか汗なのか分からなくなってい
く。
「シエル!」
フェリシアが体を起こしシエルを支える。その顔は泥で汚れていた。
「逃げて……もらえませんか」
「嫌ですっ!!」
見上げるフェリシアの瞳から涙がこぼれ落ちるのが見えた。そして、その上に赤黒い塊が迫っていること
も……
* * *
頭上に迫るそれに気が付いた時にはすでに手遅れだった。それ以前に、シエルを抱えて逃げる力も、一人で逃げる選択肢もなかった。せめて、シエルだけは守りたいという自分勝手な望みから、フェリシアは目を閉じシエルに覆いかぶさる。
ギィンッ!
来るべき衝撃が訪れないことを不思議に思い顔を上げると、半透明の白い膜の中にいた。
――……これ、防御結界?
今回の訪問にあたり、フェリシアが兄から渡されたイヤリング。それがほのかに熱を持っていることに気
が付いた。
「もしもの時は、これが身を守ってくれる。……とはいってもあまり長続きはしないし、一度発動すれば
それっきりだから、過信しないように」
フェリシアはその言葉を思い出し、少しだけ冷静さを取り戻せた、改めてシエルの様子を確認すると顔色
は青白く、腕に赤黒い痣のようなものが見えた。
――毒? でもこの色は……
ある程度の知識を持ち合わせていたフェリシアだったが、この症状の知識はなかった。
――でも似ているのなら……試したことはないけど、魔術の理論は分かってる。
ギンッ! ギィンッ!
半透明の膜が薄くなりつつあったが、フェリシアは意識を集中させる。
――シエル……絶対にっ
「天上の輝き、生命の陰りを暴き出し偽りの腐蝕を焼き尽くさん。セイクリッド・パージ」
フェリシアの両手から輝く光が放たれる。しかし、それは見慣れた光の魔術とは決定的に何かが違っていた。
ピントの合わない視界のように、感覚がじりじりとズレていく。かつて魔術が失敗に終わったあの苦い経
験がフラッシュバックし、指先が強張る。光は形を保てないまま、散り散りとなって消えていった。
「……どうして?」
バリンッ!!
「ぁっ」
顔を上げると、近づいていた魔物が触手を振り上げる姿が、琥珀色の瞳に映った。
目を閉じることができなかった。次の瞬間、視界が白く染まった。それでもフェリシアの瞳は、その光景を捉え続けていた。
それは、自分が行使した魔術よりも、圧倒的だった。
これほどの光魔術が存在するのだと、フェリシアは初めて知った。王都の宮廷魔術師でも、この光には及ばないだろう。
爆音と共に白い閃光が弾け、魔物が遠ざかる。しばらく、フェリシアは動けなかった。
煙が雨に溶けていく。視界が開けたその先に誰かが、剣を持って立っていた。いつからそこにいたのか、フェリシアには分からなかった。
まるで光の中から生まれたように、そこにいた。夢を見ているのだろうか、とフェリシアは思った。




