第二十二話 何かいる
ルナと出会ってから、一年が経った。
初めて会った日のことを思い出すと、今でも少し笑ってしまう。あの頃のルナは人の世界に慣れていなくて、道端の草を野菜だと思って食べようとしていた。今は……まぁ、相変わらずといえば相変わらずなのだけれど。
一年前と変わったのは、ルナだけではなかった。去年の冬に着ていた上着が、今年は肩のあたりで窮屈になっていた。母に指摘されるまで気がつかなかったけれど、言われてみれば確かに、鏡の中の自分は少し前とは違う輪郭をしていた。十二歳とはそういう年頃らしい。……あまり実感はないけれど。
冷え込みはじめた初冬の朝、母が新しい上着を仕立ててくれた。
生地は飾り気のない素朴なもので、街の貴族の子女が身につけるような品とは程遠い。
「去年までなら、少しためらっていたような厚手の布を使ったのよ。ギルバートさんが気を利かせてくれたの」
教会の調査に同行して村を訪れて以降、ギルバートは何度か色々な物を持って村を訪れていた。訪れるたびに人々の声に耳を傾け、望まれる品を届けていた。村では硬貨が出回っているわけではなかったため、物々交換の形で取引しているようだった。
身にまとってみると、裾がくるぶしまで届くワンピースだった。生地は素朴だけれど、ウエストのあたりが少し絞られていて、去年までの子供っぽいものとは少し違う形をしていた。袖口をなぞると、そこには細い刺繍が一本だけ入っていた。
「ありがとうございます、お母様。大切にします」
母は、愛おしそうに目を細めて微笑んでいた。
* * *
『何をしているのだ?』
私はルナと共に昼下がりの森の中に居た。湿り気を帯びた冷たい風が吹き抜け、空は厚い雲に閉ざされはじめていた。母から貰った服の上に父が着ていた少し大きめのコートを羽織っているのでほとんど寒さを感じなかった。
「ちょっと、試してみようと思って……」
赤い宝石の付いたペンダントを両手で持ち、集中する。本で学んだ簡単な魔導回路をペンダントに刻む。
何度か石板で練習を繰り返し慣れてきたので、魔石を使って試してみたかった。
魔石は魔力を蓄積できる鉱石で、宝石もそこに含まれる。入門書にはそう書かれていた。
当然、誰もが簡単に入手できる物ではなく、生活が安定してきたとはいえ父におねだりできるような物ではなかった。
今手にしているペンダントは、隣の街の領主であるグレイモント子爵の息子アルデリックからの贈り物だった。
数か月前、両親が毎年参加しているグレイモント子爵主催のパーティーの招待状が、私にも送られてきた。差出人はアルデリック……もちろん断った。父も街での私とアルデリックのやり取りを知っていたので、仮病をつかい参加を見送ることになった。
それでも、アルデリックは「ぜひ、渡してほしい」と言って、丁寧に包装された箱を両親に手渡していた。その箱の中にはペンダント、そして……「親愛なる僕の月、ユミナへ」という書き出しで始まる手紙。それは愛の告白というより、一方的な精神の不法投棄だった。
「ど、どうしたらいいんでしょうか……」
その日、エルデガルド家では緊急の家族会議が開かれた。結果……手紙でお礼をして、できるだけ出会わないようにしましょうという事になった。ペンダントは保管しておくことにしたのだけれど、気持ちはともかく、魔石は魔石だった。
アルデリックが、突然会いに来る可能性もあり不安があったけれど、今のところその危機的事態にはなっていない。
「蓄積した魔力を放出するように……うん、これで大丈夫なはず」
魔導回路を刻んだペンダントを、前にかざして魔力を込めると、宝石が淡く光った。
――よし、いい感じ。
ぴゅっ、という音とともに、小さな風の塊が放たれ目の前の木に当たって弾ける。はずだった……
ビュッ、という音の後に、パンッ、という乾いた音がした。
「……え」
目の前の木に、丸い穴が開いていた。風が抜けた跡が、断面までくっきりと見えている。私は目をぱちぱちとさせながら、穴に指を近づけた。間違いなく、貫通していた。
「あ、あれ……? こんなはずじゃ……」
『いい威力だ』
予想外の結果に魔導回路を確認しなおしている私に、ルナが満足そうに頷いた。
「よ、よくないの! 小さい風の塊を飛ばしたかっただけなのに……!」
『十分小さかったが?』
「穴が開いてるのよ!?」
私は声を荒げてから、はっと口を押さえた。辺りを見回す。幸い人の気配はなかった。
私はもう一度、木に開いた穴を見た。断面はとても綺麗だった。
――ま、まぁ、正しくは動いてくれたってことで……とりあえずは成功かな。もっと少しずつ放出するように変えていけば……
ため息をついて、穴の開いた木をそっと撫でた。
「ごめんなさい」
『木に謝っているのか?』
「そうよ」
しばらくの沈黙の後、ルナは短く息をついた。
『……ユミナは、不思議だな』
それは以前にも言われた言葉だった。褒められているのか呆れられているのか、今回もよく分からなかった。
* * *
――魔力の出口をもっと小さく、ゆっくりと出ていくようにすれば……
ペンダントに刻んだ魔導回路を調整していると、冷たい一粒が頬を叩いた。
「あ、もう降ってきちゃった……ルナ、帰りましょう」
ルナは耳をぴんと立てて、一点を凝視して動かなかった。これまで見たことのないルナの態度に一抹の不安を覚えた。
「……どうしたの?」
『ユミナ、何かいる』
「……え?」
頭の中に響く声がいつもと違っていた。その瞬間、心臓がひとつ大きく跳ねた。
「……魔物?」
『……あぁ』
ルナと一緒に暮らし始めてから、数は多くないけれど近くに魔物が現れたことはあった。でも……ルナは気にする様子もなく、のんきに寝ているだけだった。
「普通の魔物じゃ……ないんだよね?」
『あぁ、この嫌な感じ、昔狩っていた感じに似ている』
ルナはその存在を確認するかのようにじっと視線を動かさなかった。
――昔……それってつまり……汚染されて変異した魔物? ……でも私が見た魔物は大地と一体化しているかのように動かなかったけど……
「変異した魔物は私も見たことがあるけど……違うの?」
『ユミナが見たのは、魔力に取り込まれてしまった存在だ。人に害をなすことはほぼ無いだろう。……だがこの感じは、魔力を持ち動き回れる存在だ』
振り返ったルナと視線が交わる。
「村が危険なの?」
『分からない。が、感じる気配は村からは離れている。おそらく、何かが汚染され始めたのだと思うのだが……』
いつも物事をはっきりと言うルナにしては珍しく、口を濁していた。
「?」
『……何か違う気もする。記憶と同じように感覚も鈍ってしまったのかもしれないな』
言葉と共に、その小さな尾は自信を失ったように力なく下を向いた。
『片づけておくか?』
私は一旦気持ちを落ち着けるために目を閉じ、小さく深呼吸した。
――ルナに任せれば、何とかしてくれると思うけど……どうしよう。
野生の魔物や動物が汚染された大地に迷い込むというのは決して珍しい事ではない。人のように好んで近づくことはしなくても、例えば……何かから逃げて迷い込むという可能性は十分にあり得る。
――汚染されてから時間が経っていないなら、まだ助けられるかもしれない。村からは離れているとはいえ、手遅れになってからルナにお願いすれば人目につく可能性も高くなる。それに……ノックス領に住んでいる以上、同じようなことはきっとまた起こる。それならっ。
ルナはじっと動かずに待っていてくれる。
「場所は分かるのよね? 案内してっ」
『わかった』
雨音が次第に早くなりはじめたので、私はコートのフードを深く被った。
ルナの体が光に包まれる。
ふわふわの小さな体が膨らむように大きくなっていく。銀色の毛並みが輝き、気がつけば見上げなければ目が合わないほどの銀狼がそこに立っていた。
『乗れ』
一瞬、迷いが頭をよぎった。次の瞬間には、ルナの背の上にいた。
ルナが音もなく、風のように駆けだす。森の中を進んでいるはずなのに、木々が私たちを避けているかのように思えた。
速い。けれど、風も雨粒も感じなかった。
ふと、気が付いた。向かっている方向が、ルナの見ていた方向と違っていた。
「ルナ、こっちなの?」
『誰かに見られることを望まないだろう』
森を駆けるスピードを落とさずにルナが答えた。
ルナが人目を避けてくれているのだと分かり、胸が少し傷んだ。
「……ありがとう、ルナ」
やがて、街道にでた。とある伯爵領とグレイモント子爵領を繋ぐ街道。伯爵の名前は……昔、教えてもらったことがあったが、覚えていなかった。
『この道の先だが……』
「大丈夫、行って!」
迷いは消えていた。
『人が見えたら、隠れて進む』
「うん」
そう言ってから気が付いた。ルナが『何かいる』と言っていたことから、勝手に汚染地域に魔物が出たと思っていた。けれど、この街道は当然そこへは繋がっていない。
「ルナ、汚染された大地じゃないの?」
『どうやらそのようだ。……見えた』
そう言われて視線を前に向ける。何も見えなかった。
近づくにつれて、私の目にも捉えられるようになってきた。何か大きな物体。そして……
「ルナ……」
私が止まってと伝える前に、ルナは岩陰に足を止めた。
『人か、それに、あれは……』
ルナから降り、岩の端から確認する。私は鼓動が早くなるのを感じた。
破壊された馬車と思われる残骸、重なる二人の影、そして大人の人よりも一回り大きい魔物。
その魔物は、見たことがあった。もちろん本の中で。描かれていた絵と違いはあってもその特徴は一致していた。
もう思い出すことはないと思って、忘却の棚の奥に押し込めたはずの記憶。……今すぐ、また押し込めたかった。
無意識のうちに、私は……ゆっくりと両手を前に構えていた。そして、魔力を集め槍の形にイメージして……
放つ!!
直線に飛ばすと二人に当たる可能性があったため、光の槍は曲線を描いて飛んでいく。やったことはなかったけれど、失敗する気はしなかった。
槍は魔物に直撃し、光が弾ける。
『硬いな』
魔物を倒しきれていない。ルナの言葉もあったけれど、伝わる嫌な感じは消えていなかった。
「ルナはここで待っていて」
ルナの姿を誰かに見られたくないという気持ちはあった。でもそれ以上に、この魔物だけは自分の力で何とかしたい気持ちが強かった。
『……分かった』
しばらく視線を交えた後、ルナが諦めたように頷いた。
「あ、でも、危なくなったら逃げるつもりだから、その時は助けてね」
『あぁ、そのつもりだ』
耳がわずかにかたむき、尻尾の先が一度だけ揺れた。それがルナにとっての笑顔なのだと、一年一緒にいた私にはなんとなく分かった。
魔力で脚を強化する感覚はもう慣れたもので、数秒もかからず起き上がる魔物の前に立っていた。
見えていた二人の影は、地面に横たわる女性をもう一人の女性が抱きしめているものだった。
横たわる女性の髪はブラウン色で、衣服はところどころ破れていた。濡れた髪が顔に張り付き、顔色は青白い。震える手は剣を握りしめていた。
もう一人は年の近そうな少女で、襟と袖口に銀糸の刺繍がされた深緑色のコートを着ていた。上質な布地のように見えたけれど、今は顔や金色の三つ編みと同様に雨と泥で汚れていた。
さらに、数人倒れている姿が視界に入った。
灰色の泥の塊のような頭部と思われる部分から、赤黒い何かをウネウネしたものが生えていたけれど、心は落ち着いていた。魔力を集中させようとして、あることに気が付いた。
――あれ? 待って。詠唱無しで魔術を使うのは駄目じゃない!?
目立たないようにルナに「待っていて」と言っておきながら、自分が詠唱無しで魔術を使って目立つことは……加えて、私は魔術があまり得意ではなかった。小さいころから魔力を直接動かしていたこともあり、詠唱という手順をどうしても後回しにしてしまう癖があった。簡単な風属性の魔術なら母に教えてもらったので扱えるけれど、この魔物に対してはあまり意味がなさそうだった。
――そもそも、どうして私はここに居るの!? 魔物を倒すだけなら隠れながら攻撃すればよかったんじゃ……
考えるよりも先に体が動いていた。そうする必要もないのに、そうすることが正しい事のように。
本の中のヒーローはそうだった。私は、役に立った知識に文句を言いたくなった。
――え、え~っと……どうしよう……あっ。
救いを求めて視線を泳がせると、足元に落ちていた剣が目に入り、即座に手にとった。
――重い……これが本物。
毎朝の訓練で握ったことあるのは木の剣。本物を持つのは初めてだった。
体中に魔力を巡らせ、筋肉を補強する。
足は肩幅、重心は少し前。剣を正面に構え、呼吸を整える。ガストンに教わり、ほぼ毎日続けてきた基本の構え。
ゆっくりと迫ってくる単眼の魔物。私はじっと見ていた。
本の中のヒーローは、きっとここで笑うのだろう。……私には、まだそこまでの余裕はなかった。




