第55話
まぁね、昔を知っているアイリーン様に否定はしませんよ。恋に恋するというのは言い得て妙だけれど、確かに昔の私はそんな女の子だったのだ。けれどアイリーン様と親しくしていた時の私は15歳にもなっていない若かりし頃。しかもその頃は婚約者が大好きで仕方なかった、今はもう存在しない私である。ラウルからの手紙に一喜一憂していた時と一緒にされても困るのだ。
「大好きだった婚約者に裏切られたのがそんなにショックでしたの?」
「それも昔の話です」
裏切られたのは昔の話。やっと婚約破棄が出来たのだ。もう私は前を向いている。それにそれは私だけに言えることではない。アイリーン様だって元王太子に裏切られている。私と違うのはアイリーン様の心が元王太子になかったこと。
「グラン国の男性達は見る目がないですわね。こんなに可愛らしく魅力的なのに、誰一人としてマーシャの心を癒やすことができないなんて、ふがいないにも程がありましてよ」
アイリーン様の華奢な指が私の頬に触れた。
「私が男性なら貴女の何もかもを攫ってあげたのに、女の身が憎いですわね」
「アイリーン様…」
やだ、きゅーん、と心が鳴りましたとも。やだ、麗しくて目が潰れそう。
「ありがとう存じます。アイリーン様にそう言って頂けるだけで若かりし頃の私が救われる思いですわ」
どうせなら、いっそこのまま攫ってもらいたいくらい。女性だろうと男性だろうと、アイリーン様が素敵なのは変わらないのだ。
こうやって慰めてくれる麗しきアイリーン様と見つめ合っていると、脳内お花畑劇場をどこそこ構わず開演するアレ達を思い出してしまった。
どうしてか、視界の隅にいるはずのキースとミラー小伯爵のことなんて蚊帳の外って気分なのだ。ぜんっぜん気にならないし、完全に二人の世界突入。あの愉快なおつむ達の気持ちなんて理解したくなかったのに、これはちょっと危険だ。だって、もの凄く気持ちが良い。ふわふわと体が浮いているみたい。思考回路が上手く回らず、酔いしれるって多分こんな感じ。アルコールを呑んだわけでもないのにおかしい。そうは思うものの、心地良すぎて浸っていたい。
だが、そんな二人の時間もすぐに終わりを告げた。
「そこまでだ、アイリーン」
そう言ってアイリーン様の背後から現れた鋭い眼光の壮年男性の存在に、変にお耽美だった空気が霧散した。ついでに私の酔いも、だ。
この壮年の男性が誰かなんて、アイリーン様が振り返った時に見えた横顔ですぐに分かった。彼女が大輪の花を咲かせるような笑顔を見せる相手なんて一人だけ。深い愛情を宿した彼女の瞳に映る男性は、アイリーン様の旦那様。カーティス・ヘロニア大公閣下だ。
「あら、思ったより早かったですわね。てっきり私の事なんて忘れてしまったのだとばかり思っておりましたわ」
そんな風に憎まれ口を叩くアイリーン様だけれど、声音は柔らかい。
「ハッ、そういう君も我が輩が不在であるというのに、中々楽しそうではないか?」
一見その鋭い眼光に怖そうな印象を与えるヘロニア大公閣下だが、その尊大な態度とは裏腹に彼の瞳にもアイリーンに負けず劣らずの愛情が見え隠れ。いや、隠してはいるかもしれないが私には分かる。だってどこかの色ボケ陛下と同じ顔しているもの。
「おほほ、まさか拗ねてらっしゃるの? でも私を放って遅れていらしたのは貴方でしてよ」
「だからアルノーにエスコートを任せただろう。君の恥にはならなかったはずだ」
「恥かどうかは、誰でもない私が決めますのよ。貴方のエスコートを楽しみにしていましたのに……。まぁ、でもいいですわ。私、今とても機嫌がいいですもの」
ついさっきまではご機嫌は悪かったですけどね、というツッコミは誰もしない。
「それは助かった。君の機嫌を取るのは骨が折れる」
「まぁ、ほほほほ」
このやりとりだけで、どれだけお二人の仲が睦まじいか知れるというものだ。
ちょっと前までは私とアイリーン様の二人の世界だったのに、すっかりヘロニア大公夫妻の世界に早変わり。それも私の時のような、または脳内お花畑劇場のようなお耽美で倒錯的なものではない。素直に微笑ましいと羨ましく思う空気だ。
10年前の学園卒業パーティで婚約破棄を王太子から宣言されるという非礼を、王族からの配慮という名の懐柔で組まれた婚姻だったはずなのに、どうやらお二人の間には確かに愛情という絆が見えた。
ちょっぴり悔しいと思うのはさっきまでの名残だろうか。我ながら流石に気持ちが悪い。オツムにお花が咲いているアレらと同類にはなりたくはなかったのに、と私は脳内だけで大反省会開催である。
「お二方、いい加減になさいませ」
戯れている二人を止めたのは苦笑したミラー小伯爵だ。
「あら、ごめんあそばせ」
ひとしきり二人の会話を楽しんだのか、アイリーン様が悪戯っ子のように笑う。
「カーティス、こちら今回グラン国からいらした特例親善大使マーシャリィ・グレイシス嬢です。わたくしのお友達ですわ」
「あぁ、貴女が。ごきげんよう、我が輩のライバル殿。大公という難儀な肩書きがあるけれど、実際は麗しの貴婦人アイリーンの夫、いや僕というべきか、只のカーティスだ」
ふむ。これはまた随分と個性的かつフランクな挨拶である。ここまで外見と台詞の内容が乖離している人も珍しい。私も内心、これでいいの? と思ったものの、再び親善大使の仮面を付け直すのに成功した私の表情筋はとても良いお仕事をしてくれましたとも。
「初めまして、ヘロニア大公閣下。お目にかかれて光栄ですわ」
大反省会を脳内で開催した後の私の口は、狼狽を表に出すこともなくスルスルと言葉が出る。
「もう、カーティス。マーシャが困っているでしょう。お茶目もそこまでになさいまし」
「うむ、それは悪かったね。大使も気にしないでくれたまえ」
一見気難しそうな深く刻まれた眉しわに想像する人物像とは全く違う気さくな謝罪を、ヘロニア大公は口にした。
「私が気にすることなど何も。逆にヘロニア大公閣下にライバルと称されるなど、光栄に存じますわ」
どう言う意味の『ライバル』なのかは分からないが、良い意味で受け取っておこう。
「大公閣下。私をライバルと称して下さるのでしたら、是非マーシャとお呼び下さいませ」
もちろんミラー小伯爵もお気軽に、と付け加える。
「では遠慮無くそう呼ばせて頂こう、マーシャ。実は貴女の話はあちらこちらからよく聞いていてね、どうも初対面のような気がしない」
大公閣下はチラッと視線をアイリーン様や、少し向こうでおすまし顔して歓談しているエルに向けて小気味良く笑った。
「まぁ、どんなお話をお聞きになっているのか少し怖いですわ」
ふふ、と返答するものの、本当にどんな話を聞いているのやら。エルに対しては前例があるのだから、穿った見方をしてしまうのは仕方が無い。一方アイリーン様はどうかと言えば、決して人の悪口を口にする方ではない。だがキースと親しくしていながら、私に対しての勘違いを放置していたのだから、そう言う意味では信用も出来ない。
どちらも大好きで大切な人達だが、一癖も二癖もあるのはとうの昔から知っているのだ。
「おや、気になるのかね?」
「気にならないと言ったら嘘になりますわ。良いお話だと良いのですけれども」
悪くは言われていないとは思うものの、変に誇張されても困る。
「うむ、大使は案外繊細なのだね」
案外、とか褒め言葉では決してないよね、それ。つまり図太いと思われていたわけで。
「まぁ、カーティス!」
私がほんのりとショックを受けていると、アイリーン様は大公閣下の肩を扇でペシッと叩いた。
「そんな言い方をしたら誤解が生じますわ! 私はいつもマーシャを褒めていたでしょう!」
「早合点するな。悪い意味では言っておらん。噂とは違い慎ましい女性だと褒めておるのだ」
「当然でしてよ!」
私の為に怒ってくれるのは嬉しいけれどアイリーン様、扇が折れそうです。少々力を抜きましょうか。
「大公閣下。どうやらマーシャ殿はとても謙虚な方のようですよ。私も先ほどマーシャ殿の素晴らしさに言葉を尽くしましたが、お世辞以上には受け取って貰えないようで……、愚弟と共に振られてしまいました」
「まぁ、ミラー小伯爵ったらご冗談を、ほほ」
いきなりそんなことを言い出したミラー小伯爵にギョッとする。だってミラー小伯爵の褒め言葉は確実におべっかだったでしょう? 振ったって、え、いや、アイリーン様からの縁談の申し出を断っただけで振ったわけでは……、えっと、これは振ったことになるのかしら?
「なんだと、それはいけない。謙虚は美徳とは言うが、過ぎた謙虚は只の卑屈だ。相手を不快にさせてしまうこともあるから、気を付けたまえよ」
特に貴女は今、グラン国の代表なのだから。そう大公閣下は言った。
「そ、れは大変失礼致しましたわ……」
えぇ、なんでお説教受けているんだろう? そう思ってキースを見上げて玉砕。
「捻くれてるなー…とはずっと俺も思っていたぞ」
と、言われてしまってはどうしようもない。でも話の論点が違うような気がするの。
「そうですわよ、マーシャ。先程も言ったでしょう。貴女はとても魅力的でしてよ。今宵は特に表情をクルクル変える様は、とても可愛らしくもありますわ。自信を持ちなさいませ」
「ありがとう存じます……」
でもやっぱり口説き文句のようなおべっかはいらない。そう思ってミラー小伯爵を見やると、にこっと爽やかな笑みを返されて。つい顔を背けてしまった。だって脳内のライニール様が「警告!」って言ってくるんだもの。私の仮面様、大きいお猫様、頑張って仕事して!
「二人とも、マーシャ殿はしばらくクワンダ国に滞在するのだ。その間にいくらでも口説くチャンスはあるだろう。しっかり頑張りたまえ」
「はい?」
ちょ、ちょっとぉ! 大公閣下、何を仰ってくれるの⁉
「そうですわね。恋というものは落ちてしまえば抗うのはとても難しいもの。今のお気持ちも変わるかも知れませんわね、おほほ」
「アイリーン様まで⁉」
この夫妻、私が縁談を断ったことをなかったことにする気だ。いや、大公閣下はそれを知らないはずなのに、なんだこの展開。これはまずい気がする。助けを求めてキースを見やっても、
「無駄だ。あの方達は俺の言うことに聞く耳を持たない」
そんなこと言って何の反論もしてくれないと、困るのは私だけじゃなくキースもでしょう! あまつさえミラー小伯爵なんて笑顔でうんうんと頷いてくれているし、これを私にどうしろというのだ。おろおろとしている私を誰一人として助けてくれる様子はない。どちらかというと面白がっているようにも見える。
どうしようか、どう対応しようか。キースの台詞ではないが、聞く耳を持たない彼らに対し、グラン国の代表としての体面を保ったまま、どのようにすれば面倒なことにならず、この場が収まるだろうか。
私の脳みそはフル回転してその答えを探していた。だが、グルグルと悩んでいても答えなんてあるわけもなく、いっそキレてしまおうかしら? といつもの私では思いつかないような答えに辿り着きそうになった、その瞬間。
「………………え…」
誰かがテラスへの扉を開けたのだろう。フワッとした風に乗った臭気が私の思考を止めた。




