第56話
「マーシャ!」
ぐらりと揺れる視界に、突如吹き出る冷や汗。傾いだ体をキースが支えてくれているのを、腰に回った腕の温もりが教えてくれた。そのおかげで辛うじて立っている状態なのも。
「キース、こちらに」
突然の出来事に吃驚しただろうに、大公閣下は落ちついた声で私を支えたままキースを呼んだ。
「だ…め……っ」
グラン国を歓迎する為の夜会に国の代表たる親善大使が倒れる、そんなのは絶対に駄目だ。私は大丈夫、きちんと役目をこなせる。そうキースに訴えるも体は言うことを聞かない。
「安心するがいい。騒ぎにはせん」
そっとそっと手に触れた温もりに、この人に任せておいたら大丈夫、そうなぜか安心した私はキースに身を任せて誘導されるがままホールの外へ。
「アルノー。貴様は我が輩と共に残れ。彼女のことはアイリーンに任せれば良い」
「承知しました。キース、頼むよ」
「言われなくとも」
そんな彼らの会話が、近くに居るはずなのにどこか遠くから聞こえる。きっと何事もなかったかのように装うつもりなのだろう。その機転はとても有り難い。
冷や汗が止まらず、手足が震える。それはまるで凍えているようで、けれど体の芯は酷く熱い。私の身体に何が起こっているのか、さすがに2回目ともなればすぐに分かった。これはガスパール達と再会した時に起こった発作だ。
何もこんな時に起こらなくてもいいのに。
「マーシャ、こちらに座りなさい」
アイリーン様に案内されたのは、言わば逢い引き用の東屋。確かにここなら人目に付かない。
「キース、貴方は戻りなさい。そしてマーシャの侍女を内密に呼んで来てちょうだい」
「いえ、それはアイリーン様にお願いします」
きっぱりと断ったキースにアイリーン様が一瞬言葉を無くした。が、すぐに気を取り直したようにキースをきつく睨み付ける。
「馬鹿なことを仰いなさいな。夜会で東屋を使用するという意味を知っているでしょう? 貴方とマーシャを二人きりにして、それを誰かに見られでもしたらどうするつもりですの⁉」
それはキースと私が密会をしていると思われると言うことだ。例えそれが事実ではないとしても、間違いなく醜聞となる。
「貴方がそう言う意味で彼女を囲うとするのなら、私は絶対に許しませんわよ」
アイリーン様が私を守って、そう言ってくれているのは分かる。本当に有り難い。でもキースも私を守るためにアイリーン様に逆らったのも理解出来るのだ。
この夜会には特例親善大使の命を狙った輩がいるのだから、アイリーン様とはいえ二人きりにするわけにはいかないと、そうキースが考えているのだろう。
「ですが…」
「何が問題なのです! はっきりなさい!」
貴方の我が儘に付き合っている暇はない、とアイリーン様の叱責が飛んだ。
「………キー…ス」
私は遠のく意識を必死につなぎ止め、力なくキースの服を引っ張る。
「おい、無理はするな」
揺らぐ視界にキースの顔は見えないが、声だけで狼狽えているのが分かった。そうだ、山で倒れたときも彼は酷く狼狽えていた。
「大、丈夫……だか…ら」
そんなに迷子の子供のような顔して、全く。ほら、いつもの生意気で不遜な態度に戻りなさい、と私は安心させるように口端を少しだけ上げた。微かにキースが息を呑んだような音がして、それからすぐに大きな溜息が聞こえた。
「すぐに戻る。アイリーン様、頼みます」
「承知致しましたわ。さっさとお行きなさい」
まだ怒気が残っているアイリーン様の返答。そして遠ざかっていく温もりと足音。私はホゥと息を吐き、体の力を抜いた。東屋のベンチに横たわった体は未だに震えは止まらず、気を抜けば意識も持って行かれそう。でも、ここで意識を失う訳にはいかない。
「マーシャ、失礼しますわよ」
耳元で聞こえたアイリーン様の声。目が開かず、小さく頷くだけしか反応が出来ない。それでもアイリーン様は分かってくれたのだろう。少し頭が浮いたと思ったら、頬に当たる柔らかな感触に遠い昔の記憶が蘇る。
「お、母………さ…ま」
幼い頃の優しくて温かい思い出だ。メアリの少し弾力がある膝とは違い、母の膝はとても柔らかかった。
幼い頃の私は引っ込み思案で泣き虫。何かあればベッドで休んでいる母の元に行って膝枕をして貰っていた。その時と同じ温もりに、抵抗していた意識が沈んでいく。
────マーシャ、可愛い我が娘。そんなに泣いては目が溶けてしまうわよ。
クスクスと笑いながら涙を拭ってくれた温かい手が、とても大好きだった。ずっと側にあり続けると思っていた温もり。
────大丈夫よ、マーシャ。ほんの少し失敗したっていいじゃない。失敗も経験よ。なんとかなるなる!
儚く優しい容姿とは裏腹に、母の性格はとても大雑把。後悔も失敗も、いつか絶対に自分の糧になるのだから、恐れずにやってみればいい。そういつも笑っていた。
────え、失敗したら嫌われる? 嫌われるのが怖いの?
そんなの怖いに決まっている。失敗したら怒られるもの。
────あら、怒られている内がまだ花よ。怒られなくなったら、それは期待されなくなったと言うことだもの。
……うん? それはどう言う意味?
────興味が無くなるってこと。好きでも嫌いでもなくて、いてもいなくても気にならない。どうでもいい存在になるってことかな。
それは嫌だわ。だってそんなの寂しい。
────そうね。
お母様はマーシャが好き? 失敗しても、また期待してくれてる?
────もちろんよ。だって私の可愛い娘だもの。お母様はずっとマーシャの味方よ。
本当? ずっと?
────本当よ。ずっと、ずーっと、いつまでも。
うふふふ、マーシャもお母様が大好きよ。ずっと、ずーっと、大好き。だからずっと一緒にいてね。いなくならないでね。ずっとマーシャを見ていてね。そうしたらマーシャ頑張れるから。怒られても、叱られても、お母様がいてくれたら、いてくれたなら…………。
パアンと突如世界が変わる。優しく私を見つめる瞳も、頭を撫でる温かい手も、冷たい砂に変わって崩れ去っていく。足下すら崩れ、抵抗しようもなく落下していく体。
落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて。落ちきった先で、最後に誰かの慟哭が聞こえた。
────全部、全部、お前のせいだ!!!!
「…………さ……ま。マー………ャ……マーシャさん‼」
「っ! ……はっ、っは…は、っ…はっ……ぁ………シ、エ……ル?」
「そうですわ! シエルです!」
視界一杯に映るシエルの焦った顔に、一気に思考が戻った気がした。
そう、ここは私が幼い頃に過ごしたグレイシス領にある屋敷ではない。グラン国でもないし、私も幼い子供でもない。ここは同盟国であるクワンダ国だ。
「……ア、イリーン様、は?」
さっきまでアイリーン様と一緒にいたはずだ。それなのに姿が見えない。
「私が来てすぐにホールに戻りましたわ。くれぐれも貴女を頼むと言って。多分、マーシャさんが戻れないことを見越してフォローして下さるおつもりよ」
だから無理をして戻る必要は無いわ、とシエルが安心させるように言った。
「そう……」
なら良かった、そう素直に思う。本当なら無理をしてでもホールに戻るのが正解だ。けれど、無理して戻っても、今の私に特例親善大使の仮面が被れるとは到底思えなかった。
「どれくらい・・」
気を失っていた? と私はシエルに訊ねた。
「時間的にはそんなに経っていないわ。ホールでもマーシャさんがいないことにまだ気付かれてもいないわ」
そのくらいの短時間よ、とシエルは答えた。
「……魘されていた時間は?」
いつ意識を失ったのか記憶がない。けれど幸せな夢と、それを突き落とす悪夢を見た事だけは覚えているのだ。
「ほんの一瞬よ。アイリーン様から貴女を頼まれて、すぐ後に痙攣のように震え出して過呼吸を起こしたの」
だからこんなにも心臓が五月蠅いくらいに鳴っているのか。息も全然整わない。
「シエルが助けてくれたのね。ありがとう……」
おかげで悪夢に囚われずにすんだ、と私は素直に感謝を述べた。けれどもシエルは不満げに首を横に振る。
「私は隣で呼吸を促しただけ。それだけしか出来なかったわ」
シエルは悔しそうに唇を噛みしめる。
「駄目よ。唇が切れちゃうわ。せっかく可愛いのに勿体ない」
落ち込むシエルの頬に触れるために腕を上げようとして、全く力が入らないことに気が付く。
「無理はしないで。すぐにキース様がケイト様を連れてきてくれるから、そのまま寝ていて」
逆にシエルから肩を撫でられる。冷たい体に触れる温もりが私を安心させてくれた。
「ありがとう、シエル。やっぱり貴女を侍女に選んで良かった」
それは本当に心から出た言葉。優秀だと思っていたけれど、本当に優秀。過呼吸を起こした人に冷静に対処できる令嬢がどれくらいいるだろうか。想像するに十人中一人でもいたら良い方だ。大半は同じくパニックを起こすだろう。
「馬鹿ね。私は貴女の侍女だから承知したのよ。他の人だったらお願いされても断っていたわ」
「……そうなの?」
進路コースを女官コースに変えたシエルだったから、てっきり将来は王族の誰かに仕えるつもりなのだとばかり思っていた。
「そうよ。私は貴女に二度も命を助けて貰ったのだから、その恩を返したいの」
恩、ねぇ。そんな物を感じる必要はないと言っても、多分シエルの事だから逆に反発しそう。
「それなら、扱き使ってあげるから覚悟しておきなさい」
ふふ、と力が弱いなりに笑えた。少しずつ回復してきている証拠だ。
私はゆっくりベンチに横たわっていた体を起こす為に力を入れた。思った通り、さっきまでと違って体が動き、上体をあげることに成功した。シエルはそのまま寝ていた方が良いと止めたけれど、誰がいつ何時ここに来るか分からない。ベンチに座っているだけなら、誰かしら来たとしても休憩しているだけだと誤魔化せるだろう、そう思ったのだ。
そう思考を巡らせるようになったことからも、間違いなく落ち着いてきている。
「シエルも隣に座りなさい。そのままの体勢では辛いでしょう?」
私を介抱するために地面に座り込んでいたシエルを空いた隣に誘う。
「……分かったわ」
少しだけ躊躇したシエルだが、諦めたように立ち上がりドレスに付いた汚れを叩き始めた。素直で宜しい。
「せっかく素敵な装いだったのに……」
私が不在の間に親しくなったテイラー男爵夫人に整えてもらったと聞いた。侍女の立場であれど、グラン国随行員として夜会の出席をしたシエルの装いは控えめでありながら、とても可愛らしかった。
「汚させてごめんなさいね」
夜会を楽しんでいただろうに、私が発作を起こしてしまった為に中断させてしまった。
「さっきも言ったでしょ。私は望んでここにいるのよ。いい加減にしないと無理矢理寝かせ………え…?」
私の謝罪に少し怒りながらドレスを整えたシエルが、やっと隣に座ろうとしてなぜかピタリと動きを止めた。
「シエル?」
どうしたのか、と問いかけた時、ガサッと生け垣が揺れて私も身を強張らせた。まさか私を狙う誰かがそこにいるのか。私は用心して目を凝らして揺れた生け垣を見つめ、そこで見つけたものに、シエルと同じくピタリと動きを止めてしまった。
そして口から出たのは
「……へ?」
と、まさに間抜けなこれである。
だってそこに見つけたのは、私を狙う輩でもなく、またキースが連れてきた兄でもない。私の耳に聞こえてきた、
「うん、ちょ、うんっ、ちょ!」
と、そんな可愛らしい声。そんな声を刺客が出す? じゃあ、私が無意識に癒やしを求めた願望による空耳だろうか? ……って、そんな訳がない。
ガサガサと音を立て生け垣から覗いたのは、紅葉のような小さな手。一瞬幽霊かと思ったくらいには、夜の逢い引きによく使われる東屋には似つかわしくないものである。
私とシエルが呆気に取られている内に、小さな手だけだったものが腕になり、そして髪の毛、そして最終的に小さな顔がひょっこり。
「ぷはぁ、出たぁ!」
それはまるでそこだけお伽噺みたいな光景。そしてポカンとしている私達と重なる視線。お互いに吃驚した一瞬の静寂。けれどすぐに、
「あー、見ーちゅけたぁ!」
と、生け垣から覗いた舌っ足らずのぷくぷくとした4、5歳くらいの女の子がそう叫び、満面で私達に笑いかけたのだった。




