2. 甘い卵焼き
朝六時半。三ツ橋家の台所で、冷蔵庫の白板に丸くて小さな字を見つけた。昨日まで献立を書く場所だったのに、今は俺の仕事が並んでいる。行の終わりが、少しずつ右へ傾く。書いた人は、途中で眠くなったらしい。眠くても、俺への注文は忘れない。
〈彼氏の仕事。一、お弁当。卵焼きは甘く。二、大学の迎え。十八時、正門〉
早番に出る前のおばさんが、食卓でパンを齧りながら白板へ首を伸ばした。口は動いたままだ。
「茅乃が白板に字を書くなんて、珍しいわね! 面白いから許す! 柊吾くん、おばさんの朝ごはんもよろしくね!」
「朝ごはんは皿にあります。今、おばさんの口にも入ってます。俺、弁当を詰めるんで、食べながら同じもの注文しないでください」
「はいはい! 細かい子ねえ! それにしても、卵焼きは甘く、だって! 塩と砂糖、間違えないでね! 今朝は大事な注文でしょ?」
おばさんはパンをくわえたまま、早番へ飛び出していく。白板に残った「彼氏」の字を、俺は読み直した。
塩の容器を奥へ置く。卵を割った。甘い卵焼きは初めてだ。いつも日鞠の注文で、しょっぱいほうを焼いていたのだ。砂糖を落とした卵液は、とろりと重い。フライパンに流すと、小さな音と一緒に甘い匂いが立つ。同じ台所なのに、鼻だけが落ち着かない。
弁当箱を出す。茅乃さんの分と、俺の分。棚へ伸ばしかけた手を戻した。今日は、この二つにする。台所の入口で暖簾がかすかに揺れる。そちらを見たら手元が狂いそうで、火を弱めた。
階段を下りる音がする。制服の日鞠が流しの横から弁当箱をのぞき込み、並んだ蓋を指さす。
「しゅう、あたしのは? 先輩の分もいるんだけど。そこに重なってるの、あたしが持ってっていいやつ? 今日からって言ったじゃん」
「引き受けてない。ここにあるのは茅乃さんと俺の分だ。日鞠の分は作ってない」
「毎朝作ってたじゃん! ずっと!」
「弟だったからな」
自分の声が、思ったより平らに出る。言った端から、舌の奥が苦い。日鞠に食べてほしくて焼いていたのに、その言い方しか出てこない。
日鞠の指が、自分の弁当箱をしまってある棚の取っ手をつかむ。開ける音はしない。俺の肩のあたりで、声が小さくなった。
「……しゅう、怒ってる? 昨日は普通にごはん作ってくれたじゃん。あたし、いつも通りだと思ってたのに。お弁当だけ急になんて、困るじゃん」
「……別に。昨日の夕飯と弁当は別だ。先輩の分まで作るって、俺に聞く前に決めるなよ」
「先輩に、作ってくって言っちゃったのに! 昨日、明日からお弁当作ってくるねって、約束したんだよ!」
日鞠の声に手が止まる。卵の端が、熱でじりじりと縮む。菜箸で押さえて巻き直した。少しついた焦げ目を下へ向け、弁当箱に詰める。二つの箱の間だけを、俺の手が行き来する。
「日鞠はしょっぱいほうがいいって言うから、ずっと、そうしてきた。でも、今日は甘いんだ。茅乃さんが食べたいほうを作る。これは、持っていけない」
日鞠は棚の前から動かない。暖簾の陰から伸びた手が、余分に焼いた一切れをつまむ。茅乃さんの寝癖が、布の端から出てきた。卵焼きを口に運んだ茅乃さんが、眠そうな声を出す。
「知ってる。五年、毎朝一切れずつ、食べてたから」
五年、毎朝一切れ多く焼いている。気づくと消えていた。おばさんだと思い、翌朝も余分に切っていたのだ。返事をしようとして、息だけが出る。棚の前で、日鞠の指が取っ手から落ちる。俺は茅乃さんの指先を見た。
「茅乃さんだったんですか? だって、朝はいつも眠そうで……。あのしょっぱいの、ずっと? 俺、おばさんが食べてるとばかり思ってて」
「うん。今日は甘いね。まだ端っこ熱いけど、焦げてるとこまで甘い」
茅乃さんが熱そうに指先を振る。俺は菜箸を握ったまま、手の行き場をなくした。
「焦げてる端じゃなくて、きれいなところを取ってください。味見なら、言ってくれれば切りますから」
「ふーん。じゃあ今度から、柊吾くんに切ってもらうね。私の分、ここで待ってる」
「待つのはいいですけど、暖簾の裏だと見えないです。ずっとそんなところに立ってたんですか? 声くらい、掛けてくれたら」
茅乃さんは食べ終えた指を拭く。寝癖の一房をつまんで、目を細めた。その目が、暖簾を挟まず俺を見る。
「見えないの、知ってる。卵焼き巻いてるとき、こっち向かないもんね。今日も、ちゃんと巻けてる。彼氏が焼いてくれたの、持ってくね」
日鞠が鞄をつかみ、何も言わずに台所を出ていく。玄関の戸が鳴った。五年、毎朝並べてきた二つの弁当箱のうち、一つは今日、棚の中だ。日鞠を呼ぶには、口の中が乾きすぎている。
コンロの熱が耳まで上がる。昨日の言葉が芝居だとしても、五年前から仕込みはしないはずだ。茅乃さんの弁当箱を持つ手に、変な力が入った。蓋は冷たい。冷たいのに、うまく持ち直せない。
◇
昼休みの教室は、弁当を広げる音でいっぱいだ。朝の台所の静かさが、まだ耳の奥に残っている。前の席の放送部員、名越が、ひょろりと細長い体をこちらへ折り曲げた。椅子ごと向きが変わる。
もじゃもじゃの天然パーマが揺れる。そばかすの鼻に乗った丸眼鏡を押し上げた。奥の細い目が、俺の机に止まる。
「おーっと、梶浦の弁当、今日は一つかー。三ツ橋さんの机に渡る分がないぞー。僕の見間違いか?」
「見間違いじゃない。実況するほどのことでもないだろ!」
日鞠の机には購買の焼きそばパン。袋を手に取ったところで、教室の戸口に蜂谷が来た。女子たちが顔を上げる。
明るい茶髪のゆるいパーマを、指でかき上げる。長身で肩幅が広く、戸口が狭く見える。整った顔に白い歯がのぞいた。
蜂谷の切れ長の目が、日鞠の手のパンへ行く。立ちかける日鞠に、蜂谷は戸口から声を掛ける。
「日鞠ちゃん、弁当は? 弟くんの卵焼き、楽しみにしてたのに」
「ごめんなさい、今日はちょっと……。お弁当、持ってこられなくて。このパンなら、まだ開けてないんですけど」
「パンかー。……じゃ、オレ今日は学食で。卵焼きって聞いたから来たんだわ。昼、もうあんま時間ないっしょ?」
「え、先輩、ここで食べていかないんですか? あたし、席も空けてもらおうと思って……。パンでも、一緒に食べられますよ?」
日鞠の空いた手が椅子の背に掛かる。蜂谷は前髪をかき上げた。目を廊下へ向ける。
「いいって、席はそのままで。日鞠ちゃんも早く食べなよ。オレ、学食行ってくるから」
戸口から蜂谷の肩が消える。名越が丸眼鏡を押し上げた。
「おーっと蜂谷先輩、弁当が無いと見るや、まさかの撤退だー!」
クラスの者たちの忍び笑いが、蜂谷の消えた戸口へ流れる。日鞠は椅子に座り直し、袋を握ったまま俯いた。俺の指も、弁当の蓋の上で止まる。
名越が椅子を寄せる。今度の声は、俺にだけ届く。
「……梶浦、さっきのは僕が余計だったか? 僕、声がでかすぎたな。弁当、まだ開けないのか? 冷めるぞ」
「分かってる。今、開ける。……日鞠のほう見るな。パン食べるとこまで実況するなよ」
留め具に指を掛けても、蓋を開けられない。机の上で携帯が震えた。画面には茅乃さんからの文面。
〈卵焼き、甘かった。十八時、正門〉
白板と同じ時刻、同じ場所。短い文を目で追うと、今朝の眠そうな声が重なる。焦げ目のある端を、その人は今朝も先に食べている。指から力が抜けた。帰りの電車を調べるために、画面に触れる。
五年、毎朝一切れ足りなかった卵焼きの行き先を、俺はやっと知った。




