3. 本番デートの予約
土曜、予約の当日。俺は駅前の時計の下に十五分前に着き、宮守さんは十四分前に着いた。時計と改札を交互に見る忙しさが、ようやく終わる。
六月の土曜の駅前は、人の流れが速い。その中で、白いブラウスに水色の長いスカートの宮守さんだけが、止まって見えた。裾には、駅のガラスが返す光が揺れている。並ぶと、ちょうど俺の肩の高さ。制服のときと同じはずなのに、横を向く前に、なぜか息を整えてしまう。
くせっ毛の黒髪は、朝から三回なでつけてきた。たぶん、意味はない。気になって手を上げかけるけど、今さら直すのも意識してるみたいで困る。
宮守さんが、琥珀色の猫目で俺を見上げる。
「おはよ。……私服、何点?」
「え、点数? えっと、百……いや、俺がつけるのは、その」
「あははっ、もう、迷いすぎ」
宮守さんが、俺の顔をのぞき込む。その近さに、考えかけの点数まで全部どこかへ飛んでいった。
「だって、今まで点数つけられるほうだったから……急に言われても」
「私だって、言われるほうをやってみたいじゃん」
「……よく、似合ってる。その、水色とか」
宮守さんはスカートの裾をつまんで、軽く揺らす。さっきより細くなった目に、俺まで少しだけ息がしやすくなる。
「点数は言ってくれないんだ。そんなに悩んでくれるなら、待ってあげる」
そのとき、時計の柱の陰で、つばの広い帽子が動いた。
サングラスにマスクの、小さな人影。帽子の下から、姫カットの黒髪がはみ出している。こっちが顔を向けると、柱の幅からはみ出したまま、ぴたりと止まる。隠れる場所のほうが足りてない。
「……あれ、妹。見なかったことにして」
「え、あの、隠れてるつもりの……?」
宮守さんは表情を動かさず、俺の袖を引く。柱のほうへ上げかけていた手を、俺はそっと下ろした。
十一時。駅前のパンケーキ店の入口には、もう行列ができている。
甘いバターの匂いが、通りまで流れてくる。予約があるから入れるはず、と言いかけたところで、列の先頭に見覚えのある髪が揺れた。
茶色のポニーテールの隣で、センター分けの前髪をかき上げた杵島先輩が、店の奥をのぞいている。菜々花が、入口の店員へ身を乗り出した。
「樫井で予約してます。二人です」
「樫井様のご予約ですね。……ご本人様は、どちらに?」
店員の声に、菜々花が振り向く。俺を見つけて上がった口の端が、隣の宮守さんを見て、止まった。喉の奥が、きゅっと狭くなる。
「練習台のくせに、私の予約で、ほかの子とデートするわけ?」
「え、あ、俺が取ったのは……」
「先輩にもう話してあるの! ここ、私が見つけた店なんだから!」
菜々花が入口を背にして、両手を広げる。いつものように、俺がよければ済む形だった。
「晴紘なら、待ってくれるでしょ? 私たちが入ったあとで、もう一回聞けばいいじゃん」
口が勝手に、どうぞの形になりかける。三年間、こういうところで、俺はいつも順番を譲ってきた。今も、待つだけならできる。でも、俺が譲ったら、隣の人はどうなるんだろう。
宮守さんは俺の横から動かない。手も引かない。ただ、隣にいる俺にだけ聞こえる声で、ささやく。
「選んでいいよ」
選んでいいと言われたのは、生まれて初めてだった。
胸の奥が、熱くなる。菜々花を見ていた目を、店員のほうへ向けた。息を吸うと、どうぞの形がほどけていく。喉はまだ、少しつかえる。
「予約したのは、俺です。……連れは、この人です」
宮守さんへ延ばした俺の腕の袖を、宮守さんはそっとつまむ。表情は変わらないのに、その指先だけは妙に遠慮がちだった。その小さな重みに、ようやく息がほどける。
「樫井様、二名様ですね。ご案内します」
店員が、俺と宮守さんのほうへ手を差し伸べた。それから、入口に残った二人へ向き直る。
「ご予約のないお客様は、ただいま九十分待ちです」
「は? 予約してあるって言ったじゃん。……使えねえな」
杵島先輩の声に、列の前の人まで振り向いた。
「先輩、違うって、晴紘が勝手に……ほら、パンケーキ食べたいって言ってたでしょ?」
「だから来たんだろ。長嶺、最後尾あっちだって」
「……九十分も?」
菜々花は茶色のポニーテールを垂らして、日なたの列の最後尾へ歩いていく。入口まで掲げていたスマホが、腰の高さまで下がった。
窓際の席で、向かい合う。冷房の風が、まだ熱い首もとをなでていく。運ばれてきたパンケーキをひと口食べた宮守さんが、目を細めて、声を立てて笑った。
「あははっ、晴紘くん、まだ入口にいるみたいな顔してる」
「だって、入れたのが……俺と宮守さん、だから」
「本番デート、今のところ八十点」
「の、残りは……?」
宮守さんが、フォークを下ろす。皿に触れた小さな音に、つい背筋が伸びる。
「デザートのあとで決める」
「え、食べ終わるまで、ずっと採点されてるの?」
「私服の点数、まだ聞いてないもん。私だって待ってるんだから」
俺も、パンケーキを切る。入口で〈この人です〉と言った相手が、今は目の前で笑っている。口の中でバターがほどけて、甘さがあとから追いついた。
「……ねえ、さっきの〈この人です〉、もう一回言って」
「む、無理。あれ、一回言うので限界だったから」
「あははっ、じゃあ録音しとけばよかった」
「録音って……宮守さん、それ、教室でも言える?」
「教室では言わない。ここだけ」
ここだけ。その響きを、俺だけ、と都合よく聞き違えそうになる。入口のほうで、店員の声が聞こえた。
「十一時十五分ご予約の、宮守様ですね」
振り向くと、さっきの帽子が通路を進んでくる。小さな人影は隣の席に座り、帽子とサングラスを取った。姫カットの黒髪と、宮守さんと同じ琥珀色の、丸い目が現れる。
「プリンを、三つ。……審査の糖分です」
店員の手が、注文を書き留めた。小さな人影は背筋を伸ばして、俺へ向き直る。
「宮守鞠乃と申します。中等部二年。姉に近づく男性の審査を担当しております」
宮守鞠乃。俺は小さな審査員と、目の前の姉を見比べた。デートの途中に審査があるなんて、予約のときには聞いてない。
「し、審査……?」
「はい。樫井さん、質問にお答えいただければ結構です」
「えっと、今日は宮守さんとパンケーキを食べに……それでも?」
鞠乃ちゃんは俺の皿を見て、それから姉の口もとを見る。宮守さんの顔は、もう教室と同じ平らなものに戻っていた。さっきの笑い声まで、しまわれたみたいだ。
「お姉さま、本日はもうお帰りの時間です」
「却下」
鞠乃ちゃんの、ふっくらした頬が膨らむ。
「……お姉ちゃんの、いじわる」
帽子を両手でぎゅっと握りしめている。俺が何か言おうと口を開いたところへ、ちょうどプリンの皿が届いた。
鞠乃ちゃんはひとつ食べて、ぴんと背筋を伸ばす。機嫌って、プリン一個ぶんで直るものなのか。
「本件、審査を継続いたします。樫井さん、甘いものはお作りになれますか?」
「え、あ、店の厨房は使えるけど……プリン、とか?」
「回答を記録いたします。実物の提出につきましては、後日協議いたします」
スプーンを構えたまま、鞠乃ちゃんがうなずいた。俺の皿の横に、どんどん宿題が積まれていく気がする。まだパンケーキも食べ終わってないんだけど。
「樫井さん。三年間、ほかの女性の練習台をなさっていたというのは、事実ですか?」
「……事実、です」
「……ごまかしのない回答です。記録いたします」
鞠乃ちゃんは、二つ目のプリンにスプーンを入れた。宮守さんは俺の返事を聞いたまま、フォークを動かさない。いつもの真顔なのに、今はそっちを見るのが少し怖い。小さな審査員の丸い目が、窓の外の空へ向く。
「月曜日は、雨です。……樫井さん、傘は何本お持ちですか?」




