1. 練習台と、隣の席
俺、樫井晴紘は、西日の差す窓際の後ろの席で、くせっ毛の黒髪をかいていた。
背だけは高いくせに、肩はすぼめっぱなし。手の中で、幼馴染の鞄のキーホルダーがじゃらじゃら鳴る。俺の鞄は、まだ机の横だ。
隣の席の宮守冴月は、文庫本から顔を上げない。
戸口から、センター分けの前髪をかき上げて、三年の杵島鷹臣先輩が入ってきた。
前の席の長嶺菜々花が、茶色のポニーテールを跳ねさせて立ち上がる。
「長嶺、そいつ彼氏? いつも鞄持ってるけど」
「えー、違う違う!」
菜々花は先輩の袖をつまんで、俺の手元を指さす。
「あいつは本番彼氏までの練習台よ」
放課後の教室で、幼馴染の菜々花が笑った。
後ろの列の男子が吹き出す。つられて前の女子まで、俺の手の鞄を見て笑っている。
杵島先輩が、面白そうに眉を上げる。俺もつられて笑いかけて、口の端が固まる。
「へえ、便利じゃん。彼氏できるまで、全部やってくれんの?」
「そうそう! 晴紘って、頼めば何でもやってくれるから」
中学二年の六月から、三年間。毎朝の弁当も、月に二回の土曜の練習デートも、雨の日の傘も、鞄持ちも、店の予約も、俺は一度も断らなかった。
彼氏ができたときのために練習させて。そう頼まれたのが始まりだ。駅裏の食堂の厨房で、親父とお袋の仕込みの横に立って詰めてきた弁当まで、全部あいつの〈本番〉のためだったらしい。
笑い声が、背中に冷たく刺さる。あいつの好きなおかずを選んでいた朝まで、笑われている気がした。弁当の話なんて、誰もしていないのに。
「晴紘、そんな顔しないでよ。最初から練習って言ったじゃん!」
「……うん。でも、えっと、みんなの前で言わなくても……」
「何で? 先輩に説明しとかないと、誤解されちゃうじゃん」
「長嶺は俺と帰りたいんだろ? 樫井、もういいって」
「え、あ、はい。……鞄は、菜々花のだから」
菜々花が、俺の手から鞄を引き取った。じゃら、とキーホルダーが鳴って、手だけが余る。
「鞄ありがと。今日から帰りは先輩とだから」
断るのが下手な俺は、笑ってごまかすしかなかった。
隣の席の宮守冴月が、俺の手を取るまでは。
ぱたん、と文庫本の閉じる音がした。
宮守さんが立ち上がって、右側の黒髪を耳にかける。空いた俺の手を、ひやりとした指が取った。琥珀色の猫目が、下から俺を見上げる。
「私のために練習してくれてたんだよね?」
告白を全部ひとことで切り捨ててきた、学園一の美少女。
笑っていた男子の口が、開いたまま止まった。
「え、あ、……はい?」
いや待って。今のは質問だ。返事じゃない。
宮守さんは俺の手を取ったまま、教室じゅうに届く平らな声で言った。
「……はい、だって。聞いたよね?」
前の席の女子が、鞄を閉じかけた手を止めて身を乗り出す。
「え、今ので……。本番の相手、決まったってこと?」
「ま、待って、宮守さん、俺、まだ話が……」
「手は、放してないよね」
言われて見下ろすと、たしかに放していない。ほどくには、俺から指を動かさなきゃいけない。……それが、どうしてかできなかった。
菜々花が椅子を鳴らす。
「は? 宮守さん、からかってるだけでしょ」
「却下」
宮守さんは、菜々花のほうを見もしなかった。
菜々花の目が、今度は俺をにらむ。分かってるよね、と言うときの顔だ。
「ちょっと晴紘! 違うって言いなよ!」
違うと言えば、いつもの場所に戻れる。笑って、謝って、明日の朝も門の前で弁当を渡す場所に。俺は口を開きかける。えっと。……戻って、それからどうするんだ。
宮守さんの手は冷たいのに、指先だけが少し震えていた。顔は平らなままで、その指だけが俺の返事を待っている気がする。
俺はその手を、そっと握り返す。
「……違わない、です」
表情ひとつ変えないまま、彼女は静まり返った教室を見回した。
「……ここ、拍手するところだよ? ふふっ」
「え、今の、冗談……? あの宮守さんが……」
後ろの列の男子が、おずおずと手を叩く。隣の男子もつられて、二人、三人と増え、気づけば教室じゅうが拍手になっていた。
「長嶺、練習台に先越されてんじゃん」
「ちょっと、何で私のほう見て笑うの? 違うでしょ!」
菜々花の声でも、拍手は止まらない。さっきと同じ教室なのに、やっと息が胸まで入る。
杵島先輩が、肩をすくめて笑った。
「さっき彼氏じゃないって言ったじゃん。宮守の相手なら、いいんじゃね?」
前髪をかき上げた先輩の目は、菜々花じゃなくて、宮守さんのほうを向いている。
「へえ。あの宮守が、ねぇ」
菜々花が鞄を抱え直す。茶色のポニーテールが揺れて、赤くなった頬は隠しきれていなかった。
待って。俺、まだ何も決めてないんだけど。
「先輩、ほら、帰るんでしょ? 私、ずっと待ってたんだから!」
「いや、宮守が手つなぐとこ、初めて見たわ。樫井、お前やるじゃん」
「ちょっと先輩! 見るとこ、そっちじゃないでしょ!」
宮守さんが、つないだ手を軽く引いた。
「樫井くん、行こ。鞄はもう持たなくていい」
「え、どこに? その、手、まだ……」
答えはない。俺は空いた手で自分の鞄をつかみ、つないだ手のまま戸口へ引っぱられていく。
◇
北校舎の裏階段は、ひんやりしたコンクリートの匂いがする。教室の拍手はもう届かず、靴音だけがやけに近い。
人の来ない踊り場で、ようやく手が離れた。段に腰を下ろした宮守さんが、こらえきれないみたいに肩を震わせる。
「あははっ! ねえ、見た? 長嶺さんの顔!」
笑い声が、階段の高い天井に跳ねた。教室の平らな声とは、まるで別の人だ。
「な、なんで、あんなことしたの?」
「だって、ほんとでしょ。あの卵焼き、私の点数で直してたじゃん」
「……あれ、気づいてたのか?」
「十六回も食べたもん。気づくよ」
四月から、菜々花に今日はいらないと突き返された弁当を、俺はここで宮守さんに食べてもらっていた。
余ってて、と差し出す俺に、宮守さんは何も聞かない。黙って食べて、点数だけ言って帰っていく。最初は六十二点。先週は九十一点だった。
「最初は、甘さが端っこに寄ってたでしょ。次は出汁が多くて、その次は焼きすぎ」
「そこまで覚えてるの? 俺、焼きすぎたの、もう忘れてた……」
「作った人より、食べた私のほうが詳しいじゃん。あははっ」
宮守さんが指を折って数える。笑うと、琥珀色の猫目が細くなって、子どもみたいに光った。俺が忘れた失敗まで、ここにはちゃんと残っている。
「……じゃあ、教室で言った〈私のため〉って」
「半分は、ほんと。半分は、長嶺さんの顔が見たかったから」
隠す気もなさそうに言って、宮守さんはまた肩を揺らす。
「六十二点のとき、正直、けっこうへこんだんだけど……」
「知ってる。次の日、卵焼きが三切れ増えてたもん」
「……量で取り返そうとしたの、ばれてた?」
「ばれてた。点数は増やさなかったけどね」
俺は一段下に座る。制服越しに段の冷たさがしみてくるのに、さっき握ったほうの手は、まだ熱い。
「……嫌だった?」
「嫌、じゃ……ない、けど」
「けど?」
「俺、断るの、下手だから」
口にすると、ずいぶん情けなく聞こえた。菜々花にも、宮守さんにも押されている。ただ、さっき指をほどくこともできたのに、握り返したのは俺だ。
「知ってる。断るの下手だから、先に取ったの」
「先にって……俺、取り合うようなものじゃ……」
「じゃあ、取り合いになる前に、私がもらう。問題ないでしょ?」
宮守さんは、また声を立てて笑った。
「……宮守さん、教室と違いすぎるんだけど」
「教室の私は、断る係だもん。ここの私は、食べる係」
宮守さんが、膝の上で指を組み直す。俺は、その指から目を離せなくなっていた。
「明日から本番ね、晴紘くん。練習の成果、ぜんぶ私にちょうだい」
初めて名前で呼ばれて、喉の奥が詰まる。手はもう離れているのに、さっきより近い。返事はまだ追いつかない。けど、明日の朝に作るものだけは、もう決まっていた。
「……明日の卵焼き、甘いのとしょっぱいの、どっちがいい?」




