第9話 黒猫になった日
北欧神界から戻った翌朝、ロゼエルは自室のソファで一冊の本を開いていた。
オーディンは、使えるものなら何でも学んだと言っていた。
あの手合わせを思い出し、昨夜、書庫から魔術の本を借りてきた。
ページをめくる手が止まる。
描かれていたのは、一匹の猫だった。
獣の姿を借り、その身体で動くことで、普段の姿では気づかない力の使い方や重心を学ぶ。
「……これも修行になるのか」
ロゼエルは術式を確かめた。
少し試して、戻ればいい。
そう考えて、本を開いたままテーブルへ置いた。
術式の下に続く説明は、まだ読んでいなかった。
◇
「ロゼ、いる?」
しばらくして、マキエルが部屋を訪れた。
ソファに、ロゼエルの姿はない。
代わりに一匹の黒猫が座っていた。
長い尻尾を身体に沿わせ、妙に落ち着いた目で、こちらを見ている。
「……猫?」
「にゃ」
鳴いた黒猫が、すぐに口を閉じた。
少し不満そうな顔だった。
マキエルが近づくと、頭の中に聞き慣れた声が響いた。
『俺だ』
彼女は足を止めた。
「ロゼ?」
『ああ』
黒猫を見る。
もう一度、部屋を見回す。
やはり、ほかには誰もいない。
「……かわいい」
『先に聞くことがあるだろ』
「あ。どうしたの、その姿」
『修行だ』
「猫になる修行?」
『違う身体を使えば、自分の動きの癖が分かるらしい』
ロゼエルは前脚を上げ、テーブルの本を示した。
マキエルがページを覗き込む。
「自分で猫になったんだ」
『そうだ』
「じゃあ、どうして困った顔をしてるの?」
『戻れない』
マキエルは彼を見たあと、本へ視線を戻した。
術式の下まで読み、しばらく黙る。
「一昼夜、同じ姿を保つんだって」
『今は知っている』
「ここ、読まなかった?」
『術式のほうを見ていた』
マキエルの肩が小さく揺れた。
『笑うな』
「……ごめん」
そう言ってから、また少し笑った。
ロゼエルは本へ前脚を置いた。昨日まで大剣を握っていた手には、柔らかな肉球がある。
ページをめくろうとしても、爪が引っかかるだけだった。
「戻す方法も読もうか?」
『頼む』
マキエルは続きを確かめた。
途中で解く術もあるらしい。だが、そちらは姿を変える術より、ずっと手順が多かった。
『一日なら待つ』
「そのほうがよさそうだね」
マキエルは本を置き、黒猫の前にしゃがんだ。
「抱っこしていい?」
『修行中だ』
「少しだけ」
『断る』
伸ばしかけた手が止まる。
ロゼエルはその手を見て、小さく息を吐いた。
『……五秒だ』
マキエルの顔が明るくなった。
両手でそっと抱き上げる。
「軽い」
『今はな』
「毛も柔らかい」
『五秒経った』
「まだ三秒くらいだよ」
『計ったのか?』
「ロゼも計ってないでしょ」
黒い尻尾が一度だけ動いた。
マキエルが腕の中の黒猫へ顔を近づける。
「本当にロゼなんだね」
『さっきからそう言っている』
「でも、こんなに小さいと――」
指先が鼻へ触れた。
ロゼエルは反射的に、その指を舐めた。
二人とも止まった。
『……今のは違う』
「何が?」
『俺の意思ではない』
「うん」
マキエルは唇を噛んだ。
『笑うなら下ろせ』
「待って。下ろしたら笑うから」
◇
床へ下ろされると、ロゼエルはソファへ向き直った。
いつもの座面が、ずいぶん高い。
後ろ脚に力を込め、跳んだ。
身体が思ったより高く上がった。
座面を越え、背もたれの向こうへ消える。
小さな物音がした。
「ロゼ?」
『問題ない』
ソファの陰から黒い頭が出てきた。
「今のも修行?」
『……そうだ』
マキエルは口元を押さえた。
もう一度跳ぶと、今度は座面へ届いた。着地でつんのめりかけた身体を、尻尾が支える。
『これで釣り合いを取るのか』
肘掛けへ移り、足元を確かめながら歩く。
「猫って、そんなに足を見ながら歩く?」
『初めてだからな』
視線を上げ、行きたい場所を見る。肩の力を抜くと、先ほどより楽に進めた。
床へ降りても、ほとんど音がしなかった。
「今の、猫みたいだった」
『猫だからな』
「さっきは違ったよ」
それには、言い返せなかった。
◇
午前中、ロゼエルは部屋の中を歩き回った。
ソファへ上がる。床へ降りる。椅子の下を通り、狭い隙間で向きを変える。
マキエルは本を読みながら、ときどき顔を上げた。
同じ場所を何度通っても、ロゼエルは飽きないらしい。
「ロゼ、ちょっと待ってて」
『何だ?』
マキエルは本を置き、部屋を出た。
戻ってきた手には、猫じゃらしがあった。
『……何をするつもりだ』
「修行のお手伝い」
『必要ない』
マキエルが猫じゃらしを振った。
黒い耳が動いた。
右へ振ると、顔が右へ。
左へ振ると、顔が左へ。
『やめろ』
「見なければいいのに」
『動くものは確認する』
ふわふわした先端が、床を滑った。
ロゼエルは飛びついた。
マキエルがひょいと持ち上げる。空振りした前脚が、床へ着いた。
二人はしばらく、その場所を見た。
「いいトレーニングね」
『……もう一度だ』
マキエルが彼を見た。
『次は取る』
猫じゃらしが、また動いた。
昼を過ぎると、窓辺に日なたができた。
ロゼエルはそこで立ち止まった。
床が暖かい。
少し座るつもりで脚を畳むと、自然に身体が丸くなった。
「休憩?」
『ああ』
マキエルが隣へ腰を下ろした。
指先が、黒い背中に触れる。
『撫でなくていい』
「嫌?」
『嫌というか……』
悪くない。
背中をゆっくり撫でられると、首や肩から力が抜けた。
跳ぶときにも、歩くときにも、自分はずいぶん身体を固めていたらしい。
今なら、もう少し軽く動けそうな気がした。
「ロゼ?」
『……好きにしろ』
マキエルは小さく笑った。
しばらくすると、黒猫の目が閉じる。
「眠い?」
『休んでいるだけだ』
「うん」
それ以上、マキエルは話しかけなかった。
昨日、北欧神界の王と刃を交えた最高神は、窓辺の日なたで丸くなっていた。
マキエルの手が止まると、耳が少し動いた。
彼女はまた、そっと背中を撫でた。
小さな音が聞こえた。
喉の奥から、低く、途切れずに響いている。
「ロゼ、喉が鳴ってる」
黒猫の目が開いた。
『……この身体が勝手にやっている』
「うん。そういうことにしとく」
『本当だぞ』
「分かったから」
そう言いながら、マキエルの指は止まらなかった。
ロゼエルは彼女の手を見たあと、また目を閉じた。
◇
翌朝、部屋を訪れたマキエルは、窓辺に立つロゼエルを見つけた。
黒い服。紫色の髪。
いつもの姿だった。
「戻ったんだ」
「ああ」
ロゼエルは手を開き、閉じた。
テーブルの本には、栞が挟まれている。
「もう全部読んだ?」
「その術のところはな」
マキエルが笑う。
ロゼエルは肩の力を抜き、大剣を手にした。
「もう振るの?」
「少しだけ」
ゆっくり刃を動かす。重さを押さえ込もうとしていた肩が、いつもより楽だった。
たった一日で剣の腕が上がるわけではない。それでも、余計な力を入れていたことには気づけた。
「猫の修行、役に立ったね」
「ああ」
ロゼエルは大剣を消した。
マキエルは少し残念そうに彼を見た。
「もう一回、猫になって」
「ならない」
「少しだけ」
「一昼夜、戻れないんだぞ」
「じゃあ、一昼夜でいいよ」
「俺がよくない」
ロゼエルは本を閉じた。
マキエルが袖をつまむ。
「もう一回だけ」
「昨日、十分撫でただろ」
「抱っこは五秒だった」
「五秒ではなかったな」
「じゃあ、次はちゃんと五秒にする」
ロゼエルは彼女を見た。
マキエルも、じっと見上げる。
「……猫にはならない」
「明日は?」
ロゼエルは、魔術の本を背中へ隠した。




