第10話 地獄へ続く雨の街
サタンを討ったあと、ロゼエルは世界を書き換えた。人間たちの争いは終わり、悪魔の魂は地獄へ封じられた。
それからしばらく、世界は静かだった。
地獄はルシファーに任せている。だが、自分が世界を書き換えたあと、そこがどうなったのか、一度は自分の目で確かめておくべきだった。
ロゼエルは、向かいに座るマキエルへ言った。
「そろそろ、地獄を見ておこうと思う」
「世界を変えてから、まだ行ってなかったね」
「ああ」
それに、もう一つ。
「ルシファーにも会いたい」
長いこと会っていなかった。火のエレメントを託し、地獄を任せた四大天使の一人。今の彼が何を見て、何を考えているのか。それも知っておきたかった。
マキエルはしばらくロゼエルの顔を見ていた。
「でも、あまり行きたくなさそう」
「まあね」
「地獄だから?」
「それもあるけど」
ロゼエルは少し間を置いた。
「俺を恨んでいる悪魔は、ごまんといる」
マキエルは少し考え、それから小さく頷いた。
「……そうだったね」
世界を書き換えても、記憶まで消したわけではない。これまでロゼエルが倒してきた悪魔たち。その仲間もいれば、眷属もいる。
サタンを討ち、悪魔の魂を地獄へ封じた最高神を、誰もが黙って迎えるとは思えなかった。
地獄へ行けば、何かが起きる。長く戦場に身を置いた者として、そう思っていた。
「行けば、たぶん寄ってくる」
「危ない?」
「俺は平気」
ロゼエルはそう答えたあと、少しだけ考えた。そして、マキエルを見る。
「マキエルは残ったほうがいいと思う」
彼女の表情が、わずかに変わった。
「……どうして?」
「天使というだけで狙う悪魔もいる。それに、俺と一緒にいるだけで目をつける奴もいる」
マキエルは黙った。
戦うことに関して、自分がロゼエルのような存在ではないことは分かっている。彼の言っていることが正しいことも。
それでも、一緒に行きたかった。
「私も行きたい」
ロゼエルは何も言わず、彼女を見る。
「煉獄も見てみたいし、ルシファーにも会ってみたい」
そこで一度、言葉を止める。
「それに……一緒に行きたい」
最後の言葉だけ、少し声が小さくなった。
「危ないかもしれないよ」
「うん」
「それでも?」
「行きたい」
ロゼエルはしばらくマキエルを見ていた。彼女の意思が変わらないことは、その目を見れば分かった。
「……分かった」
それ以上は止めなかった。
「じゃあ、俺から離れないで」
「うん」
こうして二人は、地獄へ向かうことになった。
◇
地獄へ至る道はいくつかある。ロゼエルなら、天界から直接降りることもできた。
だが、今回はそうしなかった。その途中に、まだ自分の目で見ていない場所があった。
煉獄。
天国へ進むことのできない魂が、一時的に留まる場所。ただし、地獄へ落ちるほどの罪を背負った者たちではない。
後悔や執着、誰かへの憎しみ。あるいは、自分自身を赦せないという思い。
肉体を失っても、それらまで一緒に消えるわけではない。何かを抱えたままの魂は、天国へ進むことができなかった。
煉獄は、そんな魂たちが自分の生きた時間と向き合い、最後まで残ったものを手放すための場所だった。
数日で去る者もいる。百年を経ても、同じ場所に留まり続ける者もいる。
誰かが期限を決めるわけではない。その魂自身が、もういいと思えるまで、そこに留まる。
ロゼエルは、その仕組みを知識としては知っていた。だが、自分の目で見るのは初めてだった。
「煉獄を通っていこう」
「遠回りじゃない?」
「急いでない。それに、ここも見ておきたい」
「分かった」
翌日、二人は天界を出た。
境界を一つ越えるたび、空から少しずつ色が失われていく。白から灰色へ、灰色から、さらに深い灰色へ。それでも、不思議と暗くはなかった。
やがて、湿った空気が流れてきた。
マキエルが足を止める。
「雨……?」
細かな雨が降っていた。その向こうに、街があった。
古い石造りの建物が並び、雨に濡れた屋根から雫が落ちている。狭く入り組んだ路地の上には、煙突から立ち昇る白い煙が漂っていた。
傘を差して歩く者がいる。店先で新聞を読んでいる者がいる。窓辺でコーヒーを飲んでいる者もいた。
死者の世界とは思えないほど、そこには静かな生活があった。
ロゼエルは足を止め、しばらく何も言わずに街を眺めた。
「……思ってたのと違う」
隣で、マキエルも街を見つめていた。
「私も」
雨粒が、彼女の金色の髪に落ちる。白い翼にも、細かな雫が残っていく。
ロゼエルはそれを見た。
「寒くない?」
「大丈夫」
マキエルはそう答えてから、もう一度街へ目を向けた。
悲鳴は聞こえない。炎もなく、誰かが誰かを罰しているわけでもない。ただ、静かに雨が降っている。
ここにいる者たちは皆、まだ何かを手放せずにいる。だから、ここにいる。
ロゼエルは歩き出した。マキエルも、その隣を歩く。
雨は激しくもなく、止みそうでもなかった。傘を差すべきか、差さなくてもいいのか、少し迷う程度の雨だった。
二人は傘を差さないまま、煉獄の街へ足を踏み入れた。
ここを抜ければ、地獄へ至る。
静かな雨の中、ロゼエルとマキエルは地獄へ続く道を歩き始めた。




