第11話 神様が嫌いなあなたへ
狭い路地を抜けると、小さなカフェが見えた。窓には温かな明かりが灯り、扉の上の庇から雫が落ちている。
中から、コーヒーの匂いがした。
「少し休んでいこうか」
ロゼエルが言うと、マキエルは翼についた雫を払って頷いた。
扉を開けると、小さなベルが鳴った。カウンターの奥で、店主が顔を上げる。
「空いている席へどうぞ」
窓際に、二十歳前後に見える青年が座っていた。長めの黒髪が頬にかかり、その下に細い傷が見える。整った顔立ちにはどこか翳りがあり、気だるげに目を伏せた姿は、不思議と目を引いた。
黒い上着を着た彼の手元で、カップから湯気が立っていた。
二人は隣の卓へ腰を下ろした。店主が注文を取りに来ると、ロゼエルはコーヒーを、マキエルは紅茶を頼んだ。
青年はマキエルの白い翼を見ていた。彼女がそれに気づくと、少し迷ってから口を開いた。
「あの、天使さんに聞きたいことがあるんだけど」
マキエルが顔を上げた。隣のロゼエルも青年へ目を向ける。
「俺たちは天界から来た。答えられることなら」
青年はロゼエルを見た。
「あんたも?」
「ああ。今日は地獄へ向かう途中だ」
青年は少し意外そうな顔をした。それから、カップを卓へ置く。
「じゃあ、神様のことも知ってる?」
「何を聞きたいんだ」
飲み物が運ばれてきた。青年は店主がカウンターへ戻るのを待った。
「神様って、悪い奴も助けるの?」
ロゼエルはカップに手を添えた。
「……どうだろうな」
青年はしばらく黙っていた。それから、口元だけで笑った。
「前にも、そんなことを聞いた」
◇
雨の夜だった。
古い港町の外れに、小さな教会があった。石造りの壁は潮風に黒ずみ、尖塔の十字架は夜の海を見下ろしている。夜になれば聞こえるのは、波の音と、石畳を叩く雨だけだった。
その扉が、乱暴に開いた。
雨に濡れた青年が立っていた。頬には新しい傷がある。
「……まだ、開いてる?」
祭壇の前にいたシスターが振り返った。黒い修道服を着ていた。
「神様の家ですから」
「二十四時間営業?」
「酒場ではありませんよ」
青年は少し笑った。
「じゃあ、雨宿りだけ」
「どうぞ」
彼女は、それ以上何も聞かなかった。
青年は一番後ろの長椅子に座った。濡れた上着を脱ぎ、深く息を吐く。シスターは少し離れた席に座った。服に血がついていることにも、気づいているはずだった。
「なあ、シスター」
「はい」
「神様って、悪い奴も助けるの?」
彼女は少し考えた。
「どうでしょう」
「シスターなのに知らないの?」
「神様ではありませんから」
「役に立たないな」
「よく言われます」
青年は笑った。久しぶりに笑った気がした。
それから何度も、彼は教会へ来た。決まって夜だった。少しずつ、互いのことを知っていった。
港では時折、よくない噂が流れた。海を越えて運ばれる、表には出せない荷物。それを扱う男たち。金、酒、銃。そして、消える人間。
青年の身体には、日が経つたびに傷が増えていた。
ある夜、彼のほうから話した。
「俺、ろくなことしてないよ」
「そうですか」
「人を騙したし、盗んだし……もっと酷いこともした」
「そうですか」
「それだけ?」
「何と言ってほしいのです?」
青年は答えられなかった。
「赦してほしいのですか?」
「まさか」
即答だった。
「そんな都合のいいこと、考えてない」
「では、私から言うことはありません」
青年は彼女を見た。
「変なシスター」
「あなたに言われたくありません」
その日から、青年は少しずつ自分のことを話すようになった。
彼は神を信じていなかった。むしろ、嫌っていた。
「いるなら性格悪いだろ」
「聞こえていますよ」
シスターが天井を見上げた。
「別にいいよ」
「私は困ります」
「なんで?」
「私の職場なので」
青年は声を出して笑った。彼女も笑った。
彼女は、彼の過去を聞いても、あなたは悪くないとは言わなかった。罪人だと責めることもなかった。ただ、話が途切れるまで聞いていた。
「怖くないの?」
ある夜、青年が尋ねた。
「何がです?」
「俺が」
シスターは彼を見た。
「少し」
「少しは怖いんだ」
「はい」
「じゃあ、なんで話すの」
彼女はしばらく考えた。
「あなたが、寂しそうだからでしょうか」
青年は何も言えなくなった。
季節が少し進んだ。雨の少ない夜、教会の外には大きな月が浮かんでいた。
二人は石段に座っていた。
「シスターってさ」
「はい」
「恋愛しちゃ駄目なんだろ?」
彼女の動きが止まった。
「……そうですね」
「好きな奴ができたら?」
「困ります」
「それだけ?」
「とても困ります」
青年は笑った。
「他人事みたいだな」
「他人事なら、よかったんですけどね」
笑い声が止まった。彼女は月を見たまま言った。
「私も人間ですから。誰かを好きになることくらい、あります」
「へえ」
「何ですか、その顔」
「どんなやつ?」
「……言いません」
「いいじゃん。どんな男?」
彼女は少し考えた。
「口が悪くて」
「うん」
「神様を信じていなくて」
「最悪だな」
「時々、血だらけで教会に来ます」
数秒の沈黙のあと、青年は自分を指差した。
「……俺?」
彼女は答えなかった。少しだけ頬を赤くした。
「嘘だろ」
「その反応は失礼ですよ」
「だって俺だぞ? 俺が何してきたかも?」
「聞いた範囲では」
青年は頭を抱えた。
「神様に怒られるぞ」
彼女は少し考えた。
「そのときは、私も一緒に叱られます」
「俺も叱られるのかよ」
「一人では心細いので」
「都合のいいシスターだな」
「今夜だけです」
青年は笑った。彼女も笑った。長い間、二人で笑った。
その夜、彼は初めて、明日もここへ来たいと思った。
それから、彼は少しだけ変わった。教会へ来る時間が早くなった。酒の匂いがしなくなった。新しい傷も減った。
ある夜、いつもの長椅子で、青年がぽつりと言った。
「俺さ」
「はい」
「……もう少し生きてもいいかもしれない」
シスターは何も言わなかった。ただ、とても嬉しそうに笑った。
「では、明日も来てください」
「ああ」
教会を出る前、青年は珍しく祭壇の前で立ち止まった。十字架を見上げる。
「何をしているんです?」
「明日、ちゃんと挨拶しようかなって」
「神様に?」
「ああ」
「嫌いなのでは?」
「嫌いだよ」
彼は振り返った。
「でも、お前に会わせたことだけは、礼を言ってもいい」
シスターは微笑んだ。
「では、明日」
「ああ。また明日」
それが、彼女が聞いた彼の最後の言葉になった。
◇
「気づいたら、この街にいた」
青年は、カップに添えた両手を見下ろした。
「仕事を抜けるって言った。黙って消えるより、筋を通したつもりだったんだ」
ロゼエルは黙って聞いていた。
「馬鹿だろ。今さら筋なんてものが通ると思ってた」
頬の傷に指が触れる。
「最初は、地獄にしては静かだと思ったよ」
「ここは地獄じゃない。煉獄だ」
「店の人にも、そう言われた」
青年は、カップに添えた指を見つめた。
「名前も、ここへ来た時に取り上げられた」
マキエルは黙って、彼の言葉を待った。
「でも、覚えてるんだ。俺が何をしたかも、あいつが何を言ってくれたかも」
彼は窓の外へ目を向けた。
「名前がなくなったって、別の誰かになれるわけじゃないんだな」
雨の音が、言葉の途切れた席に残った。
青年はロゼエルへ顔を戻した。
「ここから出られるのか?」
「出ることはある。生前の業に向き合い、それを消化する時間が終われば、生まれ変わることもある」
「いつ?」
「君がいつ出られるかまでは、今は答えられない」
青年は椅子の背へ身体を預けた。
「……そうか」
「出たいのか」
「ああ」
返事は早かった。
「彼女に会うため?」
「いや。彼女は、ここには来ないだろ」
「話のとおり、敬虔なシスターだったなら、ここを通ることはないだろうな」
青年はカップの縁に触れた。
「生きてた頃は、明日のことなんか考えてなかった。彼女に会って、やっと少し考えるようになったんだ」
雨粒が窓を伝った。
「そしたら、ここにいた」
ロゼエルは黙って聞いていた。
「だからさ。生まれ変われるなら、今度はもう少し、まともに生きてみたい」
「それは、彼女に言いたかったことか?」
「……いや」
青年は少し考えた。
「今、思った」
マキエルが静かに顔を上げた。
「聞けてよかったです」
青年は照れたように笑い、カップを持ち上げた。
「すぐ出られるわけじゃないんだな」
「ああ」
「じゃあ、もう少し付き合ってよ」
「コーヒーを飲み終わるまではな」
青年は笑った。それから、彼女が教会に鍵を置いたまま、扉を閉めてしまった話をした。自分も閉め出され、二人で裏口へ回ったこと。結局、裏口の鍵も教会の中にあったこと。
ロゼエルはときどき相槌を打った。マキエルも、紅茶を飲みながら聞いていた。
話が途切れたころ、青年が窓の外を見た。
「……あんた達に話して、スッキリしたよ」
「それならよかった」
ロゼエルが答えた。
青年はカップを置き、上着を羽織った。
「しばらく、この街にいるんだな。俺は」
「ああ」
「じゃあ、少し歩いてくる。ずっと座ってたし」
卓の端に立てかけていた傘を取り、店主へ声をかけて代金を置いた。
扉へ向かいかけて、振り返る。
「ありがとな」
ロゼエルはカップを軽く持ち上げた。マキエルは小さく会釈した。
ベルが鳴り、青年が雨の中へ出ていった。
◇
人間界の港町では、その夜も雨が降っていた。
教会の一番後ろの長椅子に、シスターが座っていた。
青年が来なくなってから、一週間が過ぎていた。港で、身元の分からない若者が死んだという話を聞いた。夜明け前、倉庫街から少し離れた海沿いで見つかったらしい。
何があったのかを話す者はいない。この街には、知らないほうがいいことがたくさんあった。
けれど、彼女には分かった。
「……嘘つき」
小さな声が響いた。
「明日も来るって、言ったじゃないですか」
返事はない。彼なら、仕方ないだろ、とでも言っただろうか。そう思うと少しだけ笑えた。そして、すぐに涙が落ちた。
長い間、そこに座っていた。
やがて立ち上がり、祭壇まで歩いた。
「神様」
蝋燭の炎が揺れた。
「私は、あの人がしたことを全部知っているわけではありません。だから、赦してくださいとは言いません」
目を閉じる。
「でも……あの人は最後に、生きたいと言いました」
初めてだった。彼が過去ではなく、明日の話をしたのは。
彼女は胸の前で手を組んだ。
「もし、そちらにいるのなら、もう逃げなくていいと、伝えてください」
涙が頬を伝う。しばらくして、彼女は小さく笑った。
「あの人、あなたのことが嫌いなんです」
それでも、手を組んだままだった。
「だから――私が代わりに祈ります」
生きている間、彼は一度も神に祈らなかった。だから彼女は、その夜から、二人分の祈りを捧げることにした。
◇
カフェを出るころには、雨はまた細かくなっていた。
青年のいた席には、別の客が座っている。ロゼエルは店主へ代金を渡し、扉を開けた。
軒先でマキエルが翼についた雫を払う。
「ロゼ、神様だとは言わなかったね」
「聞かれなかったからな」
彼女は少しだけ笑った。
通りの向こうに、青年の姿が見えた。傘を差して、角に立つ道標を眺めている。
こちらに気づくと、軽く手を上げた。
「じゃあな」
「ああ」
ロゼエルも手を上げた。マキエルは小さく会釈した。
青年はカフェとは反対のほうへ歩いていった。途中で一度、道を確かめるように立ち止まり、それから角を曲がった。
「私たちも行こう」
マキエルが言った。
ロゼエルは頷いた。二人は並んで、地獄へ続く道を歩き出した。




