第12話 ロゼエルVSルシファー
煉獄を過ぎると、地獄へ至る。
静かな雨の街を抜けると、空気は一変した。乾いた熱気が大地を這い、遠くでは赤黒い炎が揺れている。
ロゼエルとマキエルは、煉獄と地獄を隔てる巨大な門をくぐった。
「暑いですね……」
マキエルが呟く。白い翼が、熱を帯びた風に揺れた。
ロゼエルは黙って周囲を見ていた。サタンを倒してから、ここへ来るのは初めてだった。
悪魔の気配はある。それも、一つや二つではない。だが、かつてのような無秩序さはなかった。
「……変わったな」
「遅かったな」
低い声に、ロゼエルは前を見た。
門からそう遠くない場所に、赤黒い炎を背にした男が立っていた。深紅の髪に、黒と赤を基調とした衣。背には赤黒い翼があり、その手には一本の剣がある。
二人が地獄へ入ったことには、とっくに気づいていたらしい。わざわざ入口まで迎えに来たようだった。
ロゼエルの口元が、僅かに緩む。
「迎えに来てくれたの?」
「勘違いするな」
「じゃあ、何しに?」
ルシファーは手にした剣を僅かに持ち上げた。
「お前が来たと聞いたから、確かめに来ただけだ」
「何を?」
「最高神の座に座って、腕が鈍っていないか」
ロゼエルは数秒、黙った。そして、少し笑った。
「なるほど。そっちがお出迎えか」
「好きに解釈しろ」
ルシファーの視線が、マキエルへ移る。白い翼を一瞥してから、再びロゼエルを見る。
「……また、その天使と一緒か」
「うん」
ロゼエルは当たり前のように答えた。
「俺の半身みたいなものだからね」
マキエルが僅かに目を見開く。
「……ロゼエル」
ルシファーは何も言わず、二人を交互に見た。それ以上は聞かなかった。
マキエルが静かに頭を下げる。
「初めまして。マキエルです」
「聞いている」
短く答えると、ルシファーは再びロゼエルへ向き直った。
「サタンを倒したこと。そして、俺をあそこから引き上げたこと」
ロゼエルは黙って聞いていた。
「感謝している」
短い言葉だった。だが、軽くはなかった。
「地獄を俺に任せたことも含めてな」
「うまくやってるみたいだね」
「当然だ」
ルシファーはそう答えると、手にしていた剣を持ち上げた。
ロゼエルの目が、その刀身へ向く。見間違えるはずがなかった。かつて自分がミカエルだった頃、幾度となく振るった剣だ。
「……まだ持ってたんだ」
「捨てる理由がない」
ルシファーが剣を抜く。刀身を赤い炎が走った。ロゼエルから託された、火のエレメントだった。
「それで確かめるつもり?」
「ああ」
剣先がロゼエルへ向けられる。
「不満か?」
「いや」
ロゼエルは一歩前へ出た。
「ちょうどいい」
「ロゼエル?」
マキエルが呼ぶ。
「少し離れてて」
ロゼエルが右手を伸ばした。黒紫の光が集まり、空間が歪む。そこから現れた巨大な柄を引き抜くと、一振りの大剣が姿を見せた。
ルシファーの目が細くなった。
「……その大剣か。相変わらず意表を突く」
ロゼエルは大剣を肩へ担いだ。
「最高神の力は使わない」
「俺を侮っているのか?」
「違うよ」
ロゼエルの表情から、笑みが消えた。
「久しぶりに、剣で戦いたい」
一瞬の沈黙のあと、ルシファーが笑った。
「それでこそ、お前だ」
次の瞬間、二人の姿が消えた。
轟音が響き、遅れて大地が割れた。
◇
一撃目から重かった。
炎を纏ったミカエルの剣が振り下ろされる。ロゼエルは大剣で受け止めた。火花が弾け、足元の岩盤が砕けた。
重い。そう思った瞬間には、次の斬撃が来ていた。
横薙ぎを受け流し、突きをかわす。間髪入れず、上段からの一撃へ大剣を合わせる。金属音が連続して地獄に響いた。
速い。それ以上に、無駄がない。
「……強いな」
「今さら何を言っている」
ルシファーの姿が消えた。
右。
ロゼエルが振り向くと、剣先が頬のすぐ横を通過した。紫の髪が数本、宙を舞う。
大剣を振り抜きながら距離を取った。
「よく俺、昔お前に勝てたな」
ルシファーの眉が動いた。
「戦っている最中に本人へ言うことか?」
「いや、本当に強いよ」
「今さら気づいたか」
再び激突する。
一撃、二撃、三撃。
少し離れた場所から見ていたマキエルには、二人の姿を目で追うことすら難しかった。剣戟の音だけが、遅れて響いた。
◇
ルシファーの剣が斜め下から跳ね上がる。ロゼエルは大剣を滑らせるように合わせた。
火花が散る間にも、次の刃が迫る。首、脇腹、手首。最短の軌道だけを選んで、ルシファーの剣が走った。
三撃を受け流しながら、ロゼエルはふと思った。
スサノオに似ている。
剣そのものは違う。スサノオの剣は荒々しく見えて、恐ろしく緻密だった。ルシファーの剣は冷静に見えて、その奥に獣のような激しさがある。
それでも、斬ると決めた瞬間に余計な動きが消えるところは似ていた。
「……面白いな」
「何がだ」
「お前の太刀筋、スサノオに少し似てる」
ルシファーの目が細くなった。
「戦っている最中に他の男の話をするな」
「そこ気にする?」
次の一撃が、明らかに重くなった。轟音とともに、ロゼエルの足元が陥没する。
「……怒った?」
「黙って戦え」
ロゼエルは大剣で押し返した。
やはり強い。
◇
ルシファーが大きく踏み込んだ。ミカエルの剣を覆う炎が、一気に膨れ上がる。
真正面から振り下ろされた。
避けるには近すぎる。
ロゼエルは大剣を縦に立てた。炎と衝撃が刀身の腹を真正面から叩き、大地が沈んだ。
それでも大剣は折れない。刃こぼれすらしなかった。
ルシファーが目を細める。
「その大剣……盾にもなるのか」
「なるよ」
ロゼエルは刀身越しに答えた。
「普通の剣なら真似しないほうがいい」
さらにルシファーが押し込む。炎が二人を包んだ。
ロゼエルは大剣を片手で支え、もう片方の手を離した。
ルシファーの目が動く。
ロゼエルが半歩、踏み込んだ。腰が沈み、足、腰、背中、肩へと、身体の力が一つにつながる。
大きく振りかぶる必要はない。剣同士が噛み合った、この距離で十分だった。
掌が、ルシファーの胸へ触れる。
次の瞬間、衝撃だけが身体の内部へ通った。
鈍い音がした。
光はない。爆発もない。ただ、ルシファーの身体だけが凄まじい速度で吹き飛んだ。
地面を跳ね、そのまま巨大な岩壁へ突っ込む。轟音とともに、大量の岩が崩れ落ちた。
マキエルが目を見開く。
「今のは……?」
ロゼエルは答えず、崩れた岩壁を見ていた。
剣だけではない。
武器を失ったとき。懐へ入られたとき。剣を振るう空間すらないとき。どんな状況でも戦えるよう、ミカエルは徒手の技も磨いてきた。
天界の戦いを司っていた頃から、それは変わらない。
やがて、崩れた岩壁の奥から赤い炎が噴き上がった。瓦礫が吹き飛び、ルシファーが姿を現した。
服には埃がついている。それだけだった。
ロゼエルが僅かに目を細める。
「頑丈だね」
「……剣で戦うんじゃなかったのか」
「剣だけとは言ってない」
ルシファーはしばらくロゼエルを睨んでいた。やがて笑い、ミカエルの剣を鞘へ戻した。
「もういい」
「満足した?」
「ああ」
ルシファーはロゼエルを見る。
「鈍るどころか、以前より厄介になっている」
ロゼエルも大剣を下ろした。
「最高神になったからって、鍛えるのをやめたわけじゃないからね」
「お前らしい」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
ルシファーが歩いてくる。そして、ロゼエルの前で足を止めた。
「改めて言おう」
地獄の炎が静かに揺れていた。
「よく来たな、ロゼエル」
今度は剣ではなく、右手を差し出す。
ロゼエルはその手を見た。そして握った。
「久しぶり、ルシファー」
◇
二人の手が離れると、ルシファーは片手を上げた。
遠くから、低い羽音が響いた。
マキエルが空を見上げる。赤黒い空を横切り、一つの巨大な影が近づいてきた。
黒い鱗。大きく広げられた翼。炎を思わせる赤い瞳。
一頭の巨大な飛竜だった。
飛竜は三人の前へ降り立った。翼が巻き起こした熱風が、ロゼエルたちの髪を揺らす。
ロゼエルが飛竜を見上げた。
「用意してたの?」
「地獄は広い」
ルシファーは当然のように、その背へ乗った。
「歩いて回るつもりだったのか?」
「いや。何かあるとは思ってた」
マキエルも飛竜を見上げる。
「……思っていたより大きいですね」
「乗れ」
ロゼエルとマキエルも、その背へ乗った。
巨大な翼が開き、一度、大きく羽ばたく。次の瞬間、三人の身体は地上を離れた。
眼下には赤黒い大地が広がり、炎の向こうには悪魔たちの暮らす街が見えた。
ロゼエルは黙って、その景色を見下ろす。
飛竜はさらに高度を上げ、三人を乗せたまま、地獄の奥へと飛んでいった。




