第7話 オーディンの問い
巨大な扉が、ゆっくりと開いた。
ロゼエルとマキエルは北欧神界の神殿、その最奥へ足を踏み入れた。広間の向こうには、一人の老人が座っていた。長い白髪と髭、片目を覆う眼帯。玉座の傍らには、神槍グングニルが置かれている。
北欧神界の主神、オーディンだった。
二人を迎えて立ち上がると、その身体の大きさが分かった。ロゼエルより頭一つ近く高く、肩幅も広い。深い緑の衣の上からでも、厚い胸と鍛えられた腕が見て取れた。
隻眼の視線が、ロゼエルへ向けられた。
顔を見たあと、手へ。そして、足の置き方へ。短い間にそれらを確かめ、再び目を合わせてくる。その落ち着いた眼差しには、相手を注意深く見極める知性があった。
「よく来られた。新たなる最高神よ」
ロゼエルは玉座の前まで進み、軽く頭を下げた。
「お招きいただき、ありがとうございます。オーディン」
「ヤハウェより神位を継承したと聞いている」
「はい」
オーディンは片目で彼を見つめた。
「思っていたより若いな」
「神に年齢は、あまり意味がないでしょう」
しばらく間があった。やがて、老人の口元に笑みが浮かんだ。
「確かにな」
マキエルは少し離れた場所へ下がった。二人の声が、広い室内に静かに響いた。
「ロゼエル。あなたが最高神となり、世界そのものに手を加えたと聞いた」
「アカシックレコードの書き換えですね」
「なぜ、そこまでした?」
「終わらせたかったんです」
「何を?」
「天界と悪魔の戦いを」
オーディンは黙って続きを待った。
「長すぎました」
天使が悪魔を討ち、悪魔が天使を殺す。勝ったところで、戦争は終わらなかった。静かな時期が続いても、またどこかで戦いが始まった。
「あなたも戦場に?」
「はい。長く戦っていました」
ロゼエルは自分の手へ目を落とした。
「敵を倒すことはできました。勝つこともできた。ですが、それでは終わらなかった」
どれほど多くの敵を倒しても、次の敵が現れた。そしてまた、誰かが死んだ。
「だから最高神になったとき、決めました。今度こそ終わらせる、と」
悪魔の魂を地獄へ封じ、人間の心へ直接干渉する道を閉ざした。一度世界を書き換えたからといって、何度でも好きなように使ってよい力だとは思っていなかった。
オーディンは玉座の肘掛けに手を置いた。
「神が世界を変える。それを傲慢だとは思わなかったか?」
「思いましたよ」
ロゼエルは即座に答えた。
「世界を自分の意思で変えるんです。傲慢でないはずがない」
「それでも行った」
「はい」
「なぜだ?」
「何もしないことも、私の選択になるからです」
オーディンの手が止まった。
「止められる立場にありながら何もせず、また同じ戦争が始まったら、私はそちらのほうを後悔する」
「自分の選択が正しいと?」
「分かりません。今でも分かりませんよ」
マキエルが静かに彼を見た。ロゼエルは目を逸らさず、オーディンの問いに向き合っていた。
「ただ、誰かの都合で戦場へ送られ、命を奪い合わされる世界よりはいいと思っています」
長い沈黙のあと、オーディンは玉座へ深く腰を下ろした。
「王とは厄介なものだな」
「そうですね」
「何も決めなければ無責任。決めれば傲慢」
「割に合いませんね」
オーディンが小さく笑った。
「最高神になってから気づいたか」
「最近です」
広間に張り詰めていた空気が、少し緩んだ。
「では、もう一つ聞こう。戦争を終わらせたあなたは、戦うことそのものも嫌いなのか?」
「いえ。むしろ好きですよ」
後ろでマキエルが、わずかに目を細めた。
「戦争を終わらせた神が、戦いは好きだと?」
「自分の意思で強い相手と競い合うことと、誰かの都合で命を奪い合わされることは、同じではないでしょう」
「なるほど」
「私は今でも、強くなりたい」
「最高神となった今でもか?」
「最高神になったからといって、完成したわけではありませんから」
オーディンはロゼエルの立ち姿を眺めた。姿勢、重心、呼吸。戦いについて語ったときだけ、その目がわずかに鋭くなったことも見逃さなかった。
「フレイヤから話を聞いた」
「何と?」
「あなたは私とは、何かが根本的に違うとな」
「ずいぶん観察されましたね」
「彼女は、目に見えぬものを感じ取ることに長けている」
オーディンが指先を動かすと、空中に淡い光が走った。古い文字、ルーンが浮かび上がった。
「私も魔術を扱う。ルーンも、魂も、世界を巡る力も学んできた」
「魔術師でもあるんですね」
「王が槍を振るうだけでは、長くは生き残れぬ」
指を閉じると、文字は消えた。
「知識も魔術も力だ。私は使えるものなら何でも学んだ」
ロゼエルの視線が、玉座の傍らへ移った。グングニルを見てから、再びその持ち主を見た。
「少し安心しました」
「安心?」
「話だけで終わる方ではなさそうなので」
オーディンは一瞬黙り、それから声を上げて笑った。
「やはり、そういう男か」
長い指が槍の柄を握った。
「言葉で分かることもある。だが、言葉では分からぬこともある」
「手合わせですか?」
「嫌か?」
「まさか」
マキエルは二人を見比べた。
「……仕方ないね」
ロゼエルは彼女へ顔を向けたが、止める言葉は続かなかった。彼女は小さく息を吐いて、二人のあとを歩いた。
神殿の外には、雪を頂いた山々に囲まれた石造りの広場があった。冷たい風が吹き抜け、オーディンの長い髪を揺らしていた。深い緑の衣の下には厚い身体があり、二メートル近い長身には老いによる衰えなど感じられなかった。
ロゼエルは右手を伸ばした。黒紫の光が集まり、歪んだ空間から大剣を引き抜く。分厚い刀身と長い柄を備えた剣は、彼の身長に迫るほど大きかった。
「随分と重そうな剣を使うのだな」
「重いですよ」
「もっと扱いやすい武器はいくらでもあるだろう。なぜそれを?」
ロゼエルは大剣を肩へ担ぎ、少し考えた。
「このほうが、高揚するんです」
オーディンの口元が上がった。
「分からなくもない」
「でしょう?」
少し離れて見ていたマキエルは、何か言おうとしてやめた。
ロゼエルが大剣を肩から下ろし、オーディンもグングニルを構えた。二人の表情から笑みが消えた。




