第6話 フレイヤ〜花の香り〜
北欧神界の風は、天界より少し冷たかった。
石造りの神殿へ続く回廊から、険しい山々が見えた。ロゼエルとマキエルは、主神オーディンとの会談のため、この地を訪れていた。
「ここが北欧神界か」
「綺麗なところだね」
マキエルが白い翼を小さく揺らした。金色の髪を風になびかせながら、二人は迎えを待っていた。
ふと、甘い花の香りがした。
ロゼエルが振り返ると、回廊の向こうから一人の女性が歩いてきた。長い金髪に、透き通るような白い肌。白を基調とした衣には、繊細な金の装飾と宝石があしらわれていた。
「フレイヤ……」
マキエルが呟いた。愛と美を司る女神だった。
フレイヤは二人の前を通り過ぎようとして、ロゼエルの横で足を止めた。
「あなたがロゼエル? 最高神になったという?」
「ああ」
女神は興味深そうに彼を見つめ、一歩、さらに一歩と近づいた。
「……近い」
「そう?」
楽しそうに笑う彼女を、マキエルは黙って見ていた。その白い翼が、ほんの少し膨らんだ。ロゼエルは気づかなかったが、フレイヤは見逃さなかった。けれど、そのことには触れなかった。
「面白いわね、あなた」
「初対面で言うことか?」
「だって、分からないんだもの」
「何がだ」
「あなたが。少し確かめてもいい?」
「何をだ」
「それを確かめるの」
「意味が分からないな」
フレイヤの指先が、彼の顎に触れた。
「近い」
「さっきも聞いたわ」
そのとき、袖がわずかに引かれた。
顔を向けると、マキエルがつまんでいた。
「マキ?」
「なんでもない」
「そうか」
「うん」
返事をしても、袖は離さなかった。
フレイヤは二人を見て、くすりと笑った。
「かわいい天使ね」
「……ありがとうございます」
マキエルが答えた直後、フレイヤの笑みが消えた。
彼の顎から指を離し、その顔を見つめる。先ほどの戯れとは違っていた。目に見えない何かを、確かめようとしているようだった。
「どうした?」
「あなた……変ね」
「またそれか」
「違うの。オーディンとは、まるで違う」
「まだ会っていないが」
「私はずっと知っているもの」
フレイヤは胸元に手を当てた。神々の気配や魂の揺らぎを感じ取ることに、彼女は長けていた。
「オーディンの力は、とても深い。古くて、大きくて、巨大な樹が地の底まで根を伸ばしているみたい」
ロゼエルは黙って聞いていた。
「どれだけ深くても、その中心にはオーディンがいる。でも、あなたは違う」
「何が違う?」
フレイヤは答えかけて、口を閉じた。
「……分からない」
「分からないのか」
「だから困ってるのよ」
少し不満そうに言い、もう一度彼を見た。
「強いとか、神力が大きいとか、そういう話じゃない。あなたを感じようとすると、どこまでが『あなた』なのか分からなくなる」
ロゼエルの目が、わずかに細くなった。
「境界がない?」
「そう。それが近い」
冷たい風が回廊を抜け、女神の髪を揺らした。
「たぶん、資質そのものが違う。神力でも、魔術でもない、もっと根っこのところ」
その先を、彼女は言葉にできなかった。
「あなた、世界の中にいる神様って感じがしないのよ」
マキエルも静かにロゼエルを見上げた。彼は表情を変えず、女神の言葉を聞いていた。
「ねえ。あなた、本当は何者なの?」
「ロゼエルだ」
「それは知ってるわ」
「なら、それでいい」
「よくないわよ」
フレイヤは思わず笑った。
「ますます興味が湧いた」
「面倒だな」
「失礼ね」
彼女が再び近づこうとすると、今度ははっきりと袖が引かれた。
「ロゼ」
「なんだ」
「そろそろ行こ?」
「まだ迎えが来ていない」
「じゃあ、ここで待つ」
マキエルはそう言って、彼のすぐ隣へ移った。ロゼエルが不思議そうに見ると、彼女も見上げた。
「どうした?」
「なんでもないよ」
「そうか」
やはり、袖は離さなかった。
フレイヤが二人を見比べ、楽しそうに笑った。
「なるほどね」
「何がだ?」
「あなたは気にしなくていいわ」
マキエルは視線を逸らした。ロゼエルだけが分かっていないようだった。
神殿の奥から、一人の使者が現れた。
「ロゼエル様。マキエル様。オーディン様がお待ちです」
「ああ」
ロゼエルが歩き出すと、マキエルも隣に並んだ。数歩進んでから、ようやく袖を離した。
フレイヤは、その後ろ姿を見送った。
神々さえ逃れられない、ラグナロクの運命。
けれど、彼女が感じ取ったロゼエルの気配は、知っているどの神とも違っていた。
この神なら、あの結末を変えられるだろうか。
フレイヤは、二人の姿が消えた神殿の奥を見つめていた。




