第5話 救世主は、ギターを弾く
ロゼエルが最高神となり、最初にしたことは、世界を書き換えることだった。
人間界から悪魔の干渉を切り離し、人の憎しみを煽り、戦争へと導くことをできなくした。サタンもすでに討たれている。
それでも、人間はこれからも喧嘩をする。間違いを犯し、誰かを傷つけることもあるだろう。そのすべてを、神の力で取り除くつもりはなかった。
人間の未来は、人間自身が選ぶ。
それが、ロゼエルの作った新しい世界だった。
そして、その世界では、もう一人、長く背負ってきた役目を終えた男がいた。
救世主、イエス・キリスト。
◇
高天原への訪問から数日後、ロゼエルは天界の木陰でイエスを見つけた。
肩まで伸びた黒髪と髭を、風がわずかに揺らしている。膝には開いた本があったが、目はその上を通り過ぎ、木々の向こうへ向けられていた。
ロゼエルは大きなケースを提げ、マキエルとともに歩み寄った。
「何してる」
「何も」
「暇なのか?」
「……たぶん」
イエスは膝に置いていた本を閉じた。
「こんなにゆっくりしていていいのかなと、時々思うよ」
「いいだろ。誰も困っていないなら」
「そうだね」
そう答えても、まだ少し落ち着かない様子だった。何かをしなければならないと思いながら、その何かが見つからない。閉じた本の表紙を、指で一度撫でた。
「なら、ちょうどいい」
ロゼエルはケースを地面に置いた。
「開けてみろ」
イエスが留め具を外すと、中には一本のアコースティックギターが収まっていた。天界の職人に作らせた特注品だった。
「私に?」
「ああ」
「どうして?」
「もう救世主をやらなくていいだろ」
イエスの手が止まった。
ロゼエルは、その顔を見て続けた。
「人類を救う役目は終わった。これからは、好きなことをすればいい」
イエスはしばらく黙っていた。それから、ケースの中へ目を落とした。
「それでギター?」
「ああ」
「なぜ?」
ロゼエルは少し考えた。
「似合いそうだから」
イエスが笑った。
「最高神からの贈り物としては、ずいぶん変わっている」
「剣よりいいだろ」
「それは間違いない」
隣でマキエルも小さく笑った。
イエスはギターを取り上げ、膝に載せた。胴の曲線に腕を沿わせ、弦を一本ずつ鳴らす。音を確かめながら糸巻きを回し、調律を終えると、その指が自然に動き始めた。
穏やかな旋律が、木陰を抜ける風に重なった。低い音が曲を支え、その上を澄んだ音が流れていく。
ロゼエルとマキエルは、立ったまま耳を傾けていた。
最後の音が消えると、イエスはギターの胴をそっと撫でた。
「よく響くね」
「気に入ったか」
「とても」
彼はもう一度弦を鳴らし、今度は短く歌った。深く柔らかな声だった。ロゼエルは木の幹へ肩を預け、その声が風の中へ伸びていくのを聴いた。
「いいじゃないか」
「久しぶりに、歌いたくなった」
「なら、歌えばいい」
イエスは顔を上げた。しばらくロゼエルを見て、それから、静かに笑った。
「ありがとう」
ロゼエルは頷いた。
再び演奏が始まると、マキエルが木陰に腰を下ろした。ロゼエルもその隣に座り、三人はしばらく、そこで過ごした。
◇
数日後、天界の広場には大きな人だかりができていた。
「……何だ、あれ」
ロゼエルが足を止めた。
人々の中心に、裸足でギターを抱えたイエスがいた。ゆったりした服を着て、長い髪を揺らしながら歌っている。
すっかり、天界の吟遊詩人になっていた。
歌っているのは、神の教えではない。風や旅、誰かを好きになったこと、そして、それでも朝が来ること。そんな日々の歌だった。
誰にも、集まれとは言っていない。それでも天使や人間の魂が、自然と彼の周りに集まっていた。立ち止まったばかりの者が、曲の途中からそっと輪に加わる。
前の方では、子供が旋律に合わせて身体を揺らしていた。その隣の老人は、膝に手を重ねて聴いている。イエスが目を向けると、老人は照れたように笑った。
「人気者だな」
ロゼエルが言うと、隣のマキエルが頷いた。
「うん」
二人は少し離れた木陰へ向かった。
ロゼエルは腰を下ろし、広場を眺めた。
自分の周りに誰かが集まるときは、たいてい戦いがあった。ミカエルだった頃も、人間として生きた頃も、誰かを守るために前へ出た。戦うこと、強くなること、剣を振るうこと。それには慣れている。
けれど、イエスは剣も奇跡も使わない。
ただ歌っているだけで、人が集まり、笑っていた。
「……ちょっと、羨ましいな」
マキエルが彼を見た。
「イエスが?」
「ああ」
「歌えるから?」
「そこじゃない」
彼女は広場へ視線を戻した。
曲に合わせて、誰かが小さく身体を揺らしている。その隣の者も笑っていた。金色の髪を風に揺らしながら、マキエルはしばらく、その光景を見つめた。
「……戦わなくても、人を救えるから?」
ロゼエルは彼女を見た。
それから、ギターを抱えたイエスへ視線を戻した。
「……たぶんな」
マキエルは何も言わず、隣に座った。
二人はそのまま歌を聴いた。
やがて曲が終わり、広場に拍手が響いた。イエスが二人に気づき、笑って手招きする。
ロゼエルは首を横に振った。
「俺はいい」
「行かないの?」
「あそこは、あいつの場所だ」
マキエルは少しだけ考えてから、座ったまま答えた。
「じゃあ、私もここにいる」
彼女が小さく手を振ると、イエスは頷き、次の曲を弾き始めた。
ロゼエルは木に背を預けた。
必要なら、これからも剣を取るだろう。守るべきものがあれば、前に立つ。それが、自分にできることだった。
ただ、誰かを守るために振るった剣の向こうには、傷つき、倒れる者がいた。守れた者の喜びだけで、その事実が消えるわけではない。
イエスの指が弦を渡る。
その音を受け止めるために、人々は静かに耳を澄ませていた。誰も身構えることなく、ただそこにいて、歌を聴いていればよかった。
誰も傷つくことなく、喜びが生まれていた。
ロゼエルは膝の上の手に目を落とした。剣を握るこの手も、弦に触れる感触を知っている。
今日は、誰も彼の剣を待っていなかった。
隣にはマキエルがいて、木陰を風が通り抜けていく。
役目を終えた救世主は、広場で歌っていた。
戦うことで多くを守ってきた最高神は、金色の髪の天使と並び、少し離れた木陰から、その歌を静かに聴いていた。




