↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/40

第5話 救世主は、ギターを弾く

挿絵(By みてみん)

 ロゼエルが最高神となり、最初にしたことは、世界を書き換えることだった。


 人間界から悪魔の干渉を切り離し、人の憎しみを煽り、戦争へと導くことをできなくした。サタンもすでに討たれている。


 それでも、人間はこれからも喧嘩をする。間違いを犯し、誰かを傷つけることもあるだろう。そのすべてを、神の力で取り除くつもりはなかった。


 人間の未来は、人間自身が選ぶ。


 それが、ロゼエルの作った新しい世界だった。


 そして、その世界では、もう一人、長く背負ってきた役目を終えた男がいた。


 救世主、イエス・キリスト。


     ◇


 高天原への訪問から数日後、ロゼエルは天界の木陰でイエスを見つけた。


 肩まで伸びた黒髪と髭を、風がわずかに揺らしている。膝には開いた本があったが、目はその上を通り過ぎ、木々の向こうへ向けられていた。


 ロゼエルは大きなケースを提げ、マキエルとともに歩み寄った。


「何してる」


「何も」


「暇なのか?」


「……たぶん」


 イエスは膝に置いていた本を閉じた。


「こんなにゆっくりしていていいのかなと、時々思うよ」


「いいだろ。誰も困っていないなら」


「そうだね」


 そう答えても、まだ少し落ち着かない様子だった。何かをしなければならないと思いながら、その何かが見つからない。閉じた本の表紙を、指で一度撫でた。


「なら、ちょうどいい」


 ロゼエルはケースを地面に置いた。


「開けてみろ」


 イエスが留め具を外すと、中には一本のアコースティックギターが収まっていた。天界の職人に作らせた特注品だった。


「私に?」


「ああ」


「どうして?」


「もう救世主をやらなくていいだろ」


 イエスの手が止まった。


 ロゼエルは、その顔を見て続けた。


「人類を救う役目は終わった。これからは、好きなことをすればいい」


 イエスはしばらく黙っていた。それから、ケースの中へ目を落とした。


「それでギター?」


「ああ」


「なぜ?」


 ロゼエルは少し考えた。


「似合いそうだから」


 イエスが笑った。


「最高神からの贈り物としては、ずいぶん変わっている」


「剣よりいいだろ」


「それは間違いない」


 隣でマキエルも小さく笑った。


 イエスはギターを取り上げ、膝に載せた。胴の曲線に腕を沿わせ、弦を一本ずつ鳴らす。音を確かめながら糸巻きを回し、調律を終えると、その指が自然に動き始めた。


 穏やかな旋律が、木陰を抜ける風に重なった。低い音が曲を支え、その上を澄んだ音が流れていく。


 ロゼエルとマキエルは、立ったまま耳を傾けていた。


 最後の音が消えると、イエスはギターの胴をそっと撫でた。


「よく響くね」


「気に入ったか」


「とても」


 彼はもう一度弦を鳴らし、今度は短く歌った。深く柔らかな声だった。ロゼエルは木の幹へ肩を預け、その声が風の中へ伸びていくのを聴いた。


「いいじゃないか」


「久しぶりに、歌いたくなった」


「なら、歌えばいい」


 イエスは顔を上げた。しばらくロゼエルを見て、それから、静かに笑った。


「ありがとう」


 ロゼエルは頷いた。


 再び演奏が始まると、マキエルが木陰に腰を下ろした。ロゼエルもその隣に座り、三人はしばらく、そこで過ごした。


     ◇


 数日後、天界の広場には大きな人だかりができていた。


「……何だ、あれ」


 ロゼエルが足を止めた。


 人々の中心に、裸足でギターを抱えたイエスがいた。ゆったりした服を着て、長い髪を揺らしながら歌っている。


 すっかり、天界の吟遊詩人になっていた。


 歌っているのは、神の教えではない。風や旅、誰かを好きになったこと、そして、それでも朝が来ること。そんな日々の歌だった。


 誰にも、集まれとは言っていない。それでも天使や人間の魂が、自然と彼の周りに集まっていた。立ち止まったばかりの者が、曲の途中からそっと輪に加わる。


 前の方では、子供が旋律に合わせて身体を揺らしていた。その隣の老人は、膝に手を重ねて聴いている。イエスが目を向けると、老人は照れたように笑った。


「人気者だな」


 ロゼエルが言うと、隣のマキエルが頷いた。


「うん」


 二人は少し離れた木陰へ向かった。


 ロゼエルは腰を下ろし、広場を眺めた。


 自分の周りに誰かが集まるときは、たいてい戦いがあった。ミカエルだった頃も、人間として生きた頃も、誰かを守るために前へ出た。戦うこと、強くなること、剣を振るうこと。それには慣れている。


 けれど、イエスは剣も奇跡も使わない。


 ただ歌っているだけで、人が集まり、笑っていた。


「……ちょっと、羨ましいな」


 マキエルが彼を見た。


「イエスが?」


「ああ」


「歌えるから?」


「そこじゃない」


 彼女は広場へ視線を戻した。


 曲に合わせて、誰かが小さく身体を揺らしている。その隣の者も笑っていた。金色の髪を風に揺らしながら、マキエルはしばらく、その光景を見つめた。


「……戦わなくても、人を救えるから?」


 ロゼエルは彼女を見た。


 それから、ギターを抱えたイエスへ視線を戻した。


「……たぶんな」


 マキエルは何も言わず、隣に座った。


 二人はそのまま歌を聴いた。


 やがて曲が終わり、広場に拍手が響いた。イエスが二人に気づき、笑って手招きする。


 ロゼエルは首を横に振った。


「俺はいい」


「行かないの?」


「あそこは、あいつの場所だ」


 マキエルは少しだけ考えてから、座ったまま答えた。


「じゃあ、私もここにいる」


 彼女が小さく手を振ると、イエスは頷き、次の曲を弾き始めた。


 ロゼエルは木に背を預けた。


 必要なら、これからも剣を取るだろう。守るべきものがあれば、前に立つ。それが、自分にできることだった。


 ただ、誰かを守るために振るった剣の向こうには、傷つき、倒れる者がいた。守れた者の喜びだけで、その事実が消えるわけではない。


 イエスの指が弦を渡る。


 その音を受け止めるために、人々は静かに耳を澄ませていた。誰も身構えることなく、ただそこにいて、歌を聴いていればよかった。


 誰も傷つくことなく、喜びが生まれていた。


 ロゼエルは膝の上の手に目を落とした。剣を握るこの手も、弦に触れる感触を知っている。


 今日は、誰も彼の剣を待っていなかった。


 隣にはマキエルがいて、木陰を風が通り抜けていく。


 役目を終えた救世主は、広場で歌っていた。


 戦うことで多くを守ってきた最高神は、金色の髪の天使と並び、少し離れた木陰から、その歌を静かに聴いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。