第37話 帰ろう
ブラックホールが消えた。
砕けた星々が、ゆっくり元の軌道へ戻っていく。静寂の中で、ロゼエルは周囲を見渡した。アマツミカボシの姿はなかった。
だが、完全に消えたわけではない。瓦礫の向こうに、かすかな星の光が残っていた。
歩いていくと、アマツミカボシが倒れていた。身体の大部分が光へ変わり、今にも消えそうだった。それでも、まだ生きている。
「……なんとか、生きているか」
胸元へ手をかざし、アストラルの光を流し込んだ。傷を治すためではない。崩れかけた身体を、つなぎ止めるための力だった。
「俺は、ヒーリングが得意じゃない。許してくれ」
返事はない。身体を包む星の光が、わずかに安定した。
ロゼエルは静かに頭を下げた。
「お前は、最後まで武神だった。かつて天界の戦いを司っていた者として、礼を言う」
遠くで、白い光が消えかけていた。
「マキ……」
すぐに駆け出した。砕けた空間を翼で飛び越える。
マキエルが倒れていた。白い翼は力なく伏せられ、金色の髪が身体を包んでいる。
「マキ」
抱き起こしても返事はなかった。けれど、小さな呼吸が聞こえた。
「……よかった」
彼女を抱き上げ、天界へ向かった。
門には、四大天使が待っていた。
ラファエルが駆け寄り、マキエルの手首へ指を添えた。
「力を使い果たしている。すぐに病室へ運ぼう」
「呼んでも、返事がなかった」
「呼吸は安定しているよ。君の肩も、あとで診る」
ガブリエルが先に立ち、道を空けた。ウリエルも二人のそばへ来る。
「戻ってきたな、ロゼエル」
「ああ」
ルシファーは病棟の扉を開け、二人を通した。ロゼエルは腕の中へ視線を落としたまま、足を速めた。
まぶたが、わずかに動く。
「……ロゼ……?」
「マキ。目を覚ましたのか」
「終わったの……?」
「ああ。終わった」
ぼんやりと彼を見つめた。
「私……力になれたんだね……」
ロゼエルが頷くと、安心したように微笑んだ。そのまま、再び目を閉じる。
彼は抱く腕に力を込めた。
そのころ、日本神界の使者がアマツミカボシのもとへ到着していた。だが、星神の姿はなかった。残っていたのは、崩れた空間と、わずかな星の光だけだった。
報告を受けたスサノオは、しばらく黙っていた。
「……そうか」
「アマツミカボシは、どこへ行ったの?」
アマテラスが尋ねた。
「ロゼエルが逃がしたんだろうな」
「どうして、そう思うの?」
スサノオは、わずかに笑った。
「あいつを敵としてじゃねえ。一人の武神として認めたんだ」
夜空の奥で、星の光が一瞬だけ瞬いた。
どこかへ去っていく、神の残光だった。
◇
マキエルが目を開けると、窓の向こうに雲が見えた。
見慣れた天界の空だった。身体を起こそうとして、思ったより力が入らないことに気づく。
「まだ、起きなくていい」
隣で声がした。
ロゼエルが椅子に座っていた。左肩には包帯が巻かれている。膝の上で閉じていた本を、脇の台へ置いた。
「ここ、病室?」
「ああ」
「どのくらい寝てた?」
「一晩」
マキエルは天井を見た。星の光も、流星もない。思い出すと、手のひらが少し熱くなる気がした。
「ロゼの肩は?」
「ラファエルに診てもらった」
「治せなかったね」
「血は止まった」
「全部、治したかった」
ロゼエルは水を注ぎ、杯を差し出した。受け取ろうとすると、手首がわずかに震えた。彼は何も言わず、杯の底を支えた。
少しずつ飲んだ。冷たい水が喉を通ると、ようやく目が覚めた気がした。
「ありがとう」
「もう少し?」
「今は大丈夫」
杯を戻し、彼を見た。
「アマツミカボシは?」
「生きてる」
「そっか」
「俺が見たときは、まだ倒れていた。日本神界の使者が着くころには、いなくなってたらしい」
マキエルはしばらく考えた。
「ロゼが、助けたの?」
「消えそうだったからな。少しだけ力を送った」
「ヒーリング、得意じゃないのに」
「うまくつなぎ止められたかは、分からなかった」
「でも、いなくなったんでしょう。歩けるくらいには、元気になったのかも」
「そうだといいな」
ロゼエルは、自分の包帯へ目を落とした。
マキエルは小さく笑ってから、息を整えた。声を出すだけで、まだ胸が少し重かった。
「私、最後のところ、よく覚えてない」
ロゼエルは椅子を少し寄せた。
「剣が折れたのは、見えた」
「ああ」
「あのままじゃ、次の攻撃を受けられないと思って。もっと送らなきゃって、そればかり考えてた」
両手を見た。昨日はここから、白い光が出ていた。今は何も起きない。
「届いてた?」
「届いてた」
「最後まで?」
「最後まで」
マキエルは小さく息を吐いた。
「よかった」
ロゼエルは黙っていた。彼女の手に、自分の右手を重ねる。
「俺は、君が倒れたことにも気づかなかった」
「戦ってたから」
「終わってから、光が消えかけているのを見た。呼んでも返事がなくて」
それ以上、言葉が続かなかった。
マキエルは握られた手を見た。今は、返す力がある。少しだけ握り返した。
「ここにいるよ」
「ああ」
「でも、次は倒れる前に言うね」
ロゼエルが顔を上げた。
「まだ力を送れるつもりだった。どのくらい使ったら動けなくなるのか、私も分かってなかったから」
「戦いのあとまで、考えないとな」
「ロゼもだよ」
「分かってる」
「本当に?」
彼は包帯を見た。
「今は、よく分かる」
マキエルが笑った。
扉が開き、ラファエルが入ってきた。二人の手を一度見たが、何も言わず、マキエルの寝台へ近づいた。
「起きたね。気分は?」
「少し重いけど、大丈夫」
「その大丈夫は、今日は寝ていられるという意味で受け取っておくよ」
ロゼエルが口元を緩めた。ラファエルはそちらにも目を向ける。
「君もだよ。診察が済んだら、部屋へ戻って休む」
「ここにいても休める」
「椅子で?」
「横になればいいのか」
ラファエルは眉を寄せた。
「ロゼエル。君も怪我人なんだよ。少しは大人しくしてくれ」
「……分かった」
マキエルは笑いを堪えた。
ラファエルが手首へ指を添え、流れる力を確かめた。まだ弱かったが、昨日とは違って安定していた。
「使い果たした分が戻るまで、少し時間がかかる。焦って治癒の力を使わないでね」
「ロゼの肩も?」
「私が診るよ」
「分かった」
素直に頷くと、ラファエルは安心したように笑った。
「二人とも、帰ってきてくれてよかった」
扉が閉まってから、しばらく黙っていた。
窓の外で、雲が流れていた。遠くの街から小さな鐘の音が聞こえる。いつもと同じ朝だった。
「ロゼ」
「なんだ」
「アスラン、なくなっちゃったね」
彼は右手を見た。
「柄は残ってる」
「また作る?」
「鍛冶師に見せないとな」
「怒られるかな」
「いい剣だったとは、言っておく」
「壊す前に言ってたよ」
「なら、もう一回だ」
マキエルは微笑んだ。彼と同じ場所へ、もう一度行ける。鍛冶師に何を言われるかも、まだ分からない。それを考えるのが、少し楽しかった。
「今度は、歌も聴きたい」
ロゼエルは彼女を見た。
「ギター、持ってこようか」
「病室だよ。怒られるよ」
「さっき、もう怒られた」
マキエルは笑った。ロゼエルも、少しだけ笑う。
「治ってからでいい。部屋へ帰って、いつものところで」
「ああ」
「私も本を読むから」
ロゼエルが少し首を傾げた。
「聴かないのか」
「聴くよ。たぶん、途中で読めなくなるけど」
ロゼエルは台に置いた本を取った。
「今は、こっちでいいか」
「読んでくれるの?」
「声が欲しいんだろ」
マキエルは目を見開いた。それから、子どものように嬉しそうな顔になった。
「うん」
彼は本を開いた。歌うときより、少し低い声だった。行を追いながら、ゆっくり読んでいく。
マキエルは目を閉じた。眠ってしまっても、次に目を開ければ、続きが聞ける気がした。
外で風が吹き、窓際のカーテンが静かに揺れた。




