第35話 星の神アマツミカボシ
地獄の封印が再び修復されてから、しばらく時が経っていた。
天界には、ようやく静けさが戻っている。ルシファーは病室で治療を受けていた。左肩の傷は深く、ラファエルから安静を命じられていた。
戦いは終わった。誰もが、そう思っていた。
◇
天界から遠く離れた場所で、アマツミカボシは星空を見上げていた。
ベルゼバブの気配が、もう届かない。与えた力は、戦いの最中にはっきり感じ取れた。それが激しく乱れ、やがて途切れた。
「ベルゼバブは捕まったよ」
背後からロキの声がした。小さな鈴が夜風の中で鳴る。
「生きているのか」
「ああ。ルシファーは殺さなかった」
アマツミカボシは振り返らなかった。
ベルゼバブを解き放てば、封印を守る者たちが動く。彼らが力を使うたび、天の気は乱れる。その乱れをたどれば、自分へ届かなくなった流れにも触れられる。
そこまでは、考えたとおりだった。
「さて、次は誰を使う?」
「誰も使わない」
「へえ。もう十分ってこと?」
答えずに片手を開いた。頭上の星が一つ、わずかに明るくなる。その光を受けようとしても、指先には細い一筋しか届かなかった。
かつては、こんなことに意識を向ける必要さえなかった。星は遠くても、自分とつながっていた。目を閉じていても、その位置も、巡る速さも分かった。
今も星は見える。見えるのに、届かない。
世界の流れが変わった。誰かの手の中に、自分の力が置かれているわけではない。ロゼエルを倒しただけで、以前の力が戻るとは限らなかった。
前の世界へ戻せば、悪魔が人間へ干渉する道も開く。ベルゼバブはそれを望んでいた。封印を壊し、人間界が崩れていくところを見たいと言った。
自分は、その隣で世界を終わらせると言った。
あのときは本気だった。このまま力の届かない夜を見上げ続けるくらいなら、終わらせたほうがいいと思っていた。
だが、いざ流れに触れられると分かった今、手を離したくなかった。
もう一度、星の力を扱いたかった。
指先を動かす。それに応じて、頭上の星が瞬いた。以前なら気にも留めなかったほど、小さな反応だった。今は、その一つを確かめるために待っている。
「……私は、元の神に戻りたい」
「世界を終わらせる話は、どうなったんだい?」
アマツミカボシは手を閉じた。
「境界を開けると言ったな」
「答える気はないんだね」
「お前の問いに答える約束はしていない」
ロキは笑みを残したまま、口を閉じた。
アマツミカボシは、流れの途切れる場所を指した。
「あそこだ。ベルゼバブが戦ったとき、力が通った。今も、わずかに残っている」
ロキの指先に紫の光が灯った。空間に細い線を描き、示された場所へ触れる。星の光が線の近くで揺れ、それまで届かなかった力が、アマツミカボシの指先へ流れ込んだ。
手を上げたまま、その流れを確かめる。
「開けるか」
「少しならね。ただ、その先で何が起きるかまでは、僕にも分からないよ」
アマツミカボシは、紫の線を見た。
「なぜ、手を貸す」
ロキの指が止まった。
「ラグナロクを覚えているかい?」
「北欧神界の最終戦争だな」
「ああ。神々も世界も滅び、その跡に新しい世界が生まれる。破滅が再生の条件なんだ」
「それを変えたいのか」
「結末まで決まっているなんて、退屈だろう?」
指先の光が、幾筋にも枝分かれした。
「まだ起きていない未来には、いくつもの可能性が重なっている。なのにラグナロクへ続く道は、最後には同じ滅びへ行き着く」
光の枝が、一本ずつ消えていく。最後に残った一本も、ロキは指で断ち切った。
「世界が滅びなければ、新しい世界は生まれない。その法則を越えたら、何が起きると思う?」
「私に、それをさせたいのか」
「君なのか、ロゼエルなのか。筋書きを壊せる神がいるなら、見てみたい」
「世界を救いたいわけではないのだな」
「救われるかもしれないし、もっとひどいことになるかもしれない」
ロキは笑った。
「そこが楽しみなんじゃないか」
アマツミカボシは、しばらく彼を見ていた。
「私を、お前の遊びに使えると思うな」
「君は力を取り戻したい。僕は、その先を見たい。今は同じ扉の前にいる」
ロキの指先に、再び紫の光が灯った。
アマツミカボシは空へ目を戻した。
「開くところまででいい」
「ロゼエルは、気づくだろうね」
「ああ」
「今度は、君が出るんだね」
「私が向き合う」
アマツミカボシは目を閉じた。
ベルゼバブに与えた力は、あの男自身を傷つけた。ルシファーも傷を負った。力の流れに触れられたからといって、その事実まで変わるわけではない。
次は、自分が引き受ける。
ロゼエルは悪魔の介入を断ち、人間を守った。その判断が間違っているとは思わない。
だが、その世界で自分がどう在るのかは、まだ分からなかった。
「境界を開け」
◇
ロキが指を動かした。
紫の光が見えない境界へ触れ、薄い亀裂が走った。
星々から流れ込む光が、一気に強くなる。天の気が渦を巻き、青白い光がアマツミカボシの身体を包んだ。
「そんなに集めて……大丈夫?」
ロキの声には、まだ笑いが残っていた。
アマツミカボシは振り返らなかった。
亀裂の向こうから、さらに光が流れ込む。
ロキは指を止めた。境界は、もう広げていない。だが、流れは強くなり続けた。
星が消えたわけではない。その力だけが、アマツミカボシへ集まっていた。
ロキは手を引き、光の中心を見た。
青白い輝きの中で、アマツミカボシが目を開く。瞳の奥に、無数の星が宿っていた。
「……深い」
片手を上げる。
遠い星の力が応えた。その位置も、巡る速さも分かる。
忘れていなかった。届かなくなっていただけだった。
ゆっくりと手を閉じる。
流れ込んでいた光が止まった。あれほど強かった気配が、彼の身体の内へ収まっていく。
ロキは、その様子を黙って見ていた。
アマツミカボシは夜空を見上げた。
「届く」
◇
天界で、窓ガラスがかすかに鳴った。
ロゼエルは顔を上げた。机の上の水面に、細かな波紋が広がっている。
「ロゼ、どうしたの?」
マキエルが隣に立った。
「遠くで、強い力が動いている」
「アマツミカボシ?」
「ああ」
遠い夜空の一点に、星の力が集まっていた。感じ取れたと思った次の瞬間には、さらに大きくなっている。
マキエルも窓の外へ目を向けた。
息を吸いかけて、止まる。
まだ遠くにいる。それなのに、すぐ目の前に立たれたような圧迫感があった。
「……ベルゼバブに渡した力と、似ている?」
「似ているな。だが、今感じている力は、あいつとは桁が違う」
ロゼエルは窓から離れ、壁に立てかけてあったアスランを取った。
「何をするつもりなのか、聞きに行く」
「話が通じなかったら?」
「止める」
短い答えだった。
マキエルは彼の手を見た。
「勝てる?」
ロゼエルは、すぐには答えなかった。もう一度、遠い星の気配を確かめる。
「戦ってみないと分からない」
マキエルの表情が硬くなった。彼がそう答える相手を、ほとんど知らなかった。
ロゼエルは剣を腰へ収めた。
「最高神になってから、力を抑えて戦ってきた。相手に合わせて、どこまで使うかを考えていた」
「今度は?」
「あの神なら、全力を受け止められるかもしれない」
背中の奥で、まだ使ったことのない力が動いた。
「世界を書き換える力じゃない。俺自身が、どこまで戦えるのか知りたい」
マキエルは彼の横顔を見た。
「危険だよ」
「分かっている」
それでも、その目には期待があった。
「神の力を使って、一度、全力で戦ってみたかった」
マキエルはしばらく黙っていた。
「……私も行く」
ロゼエルが振り返る。
「私の力も、使って」
彼は彼女を見つめ、それから静かに頷いた。
「ああ。一緒に行こう」
そのとき、膨れ上がっていた力が止まった。
消えたのではない。一つの場所へ、収まっている。
遠く離れた場所で、アマツミカボシも天界へ顔を向けた。
「ロゼエル」
声は届かない。それでも、二人の神は互いの存在を感じ取っていた。
◇
ロゼエルは日本神界へ通信をつないだ。
空中に浮かんだ淡い光が、アマテラス、スサノオ、ツクヨミの姿を映す。
「アマツミカボシのもとへ向かいます。彼を止める。手を出さないでください」
スサノオが眉をひそめた。
「一人で行くつもりか」
「一対一で戦いたい」
沈黙が続いた。アマテラスが、心配そうに弟を見る。
「スサノオ……」
「分かった」
意外にも、それ以上反対しなかった。
「一人の武神が、己より強い相手と向き合おうとしている。そこへ横から入るほど、野暮じゃねえ」
「理解してくれて助かります」
「勘違いするな。負けそうになったら、俺が出る」
「その必要はありません」
「それを決めるのは、戦いが終わってからだ」
口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「行ってこい。武神の戦いをな」
通信が切れた。
「行こう」
「うん」
ロゼエルは空を見上げ、両手を広げた。背中から光が溢れ、白い翼が現れる。翼には紫のエネルギーが巡り、羽ばたくたびに淡い光を放っていた。
アストラルパワーを集めるための翼だった。
マキエルが息をのんだ。
「ロゼ……翼が」
「ここまで力を集めるのは初めてだ。飛べるかは、試してみる」
「大丈夫なの?」
「分からない」
淡々とした返事だった。翼が羽ばたき、風が天界を駆け抜けた。身体が地面を離れ、高く上昇していく。
「飛べてる」
マキエルが小さく呟いた。
まだ完全には慣れていなかった。それでも、翼は彼の意思に応えていた。
マキエルも白い翼を広げた。
「置いていかないでね」
「まさか」
彼女は静かに笑った。
二人は並んで、天界の空を駆けた。眼下の雲海が流れ、遠くの空が青白く染まっている。
「感じる?」
「ああ。凄まじい力だ」
声に恐れはなかった。武神として、これほどの相手と向き合える。それだけで胸の奥が熱くなる。
「危ないから離れてて」
「うん。ロゼが戦っている間、ずっと祈りを捧げるね」
「ああ。それでいい」
星の光が近づいた。その向こうで、アマツミカボシが空を見上げる。
「来たか」
ロゼエルの翼が夜空を打ち、二人は星の神のもとへ降り立った。




