第34話 見舞いの理由
ベルゼバブは力を使い果たし、杖のそばに倒れていた。身体は動かず、浅い呼吸だけが続いている。
ルシファーは少し離れた柱に背を預け、右手に剣を持っていた。左肩から先の感覚は、まだ戻らない。
『ルシファー、聞こえる?』
「ああ。ベルゼバブは動けない」
『修復には、まだ時間がかかるわ。ロゼエルに場所を伝えた。マキエルとそちらへ向かっている』
「分かった」
『あなたの傷は?』
「変わらない」
『二人が来るまで無理に動かないで』
返事をする前に、通信が途切れた。ガブリエルも裂け目から手を離せないのだろう。
ベルゼバブの目が、かすかに開いた。
「……まだ、見張っているのか」
「ああ」
「杖も折れた。もう動けん」
「知っている」
それ以上は話さず、瞼が落ちた。死ぬことはない。それでも、しばらく目を覚ませないだろう。
通路の奥から足音が近づいた。ロゼエルとマキエルだった。
「ガブリエルから聞いた」
ロゼエルは倒れたベルゼバブを確かめ、ルシファーの左肩へ目を移した。
「ひどい傷だな」
「剣は持てる」
「左腕は動かないんだろう」
マキエルが近づいた。
「肩、見せて」
手に白い光が灯った。ルシファーは首を横に振り、その手を止めた。
「俺は大丈夫だ」
「どうして?」
「この痛みは、俺への罰だ。天界に反逆し、堕天した。その過去を、なかったことにはできない」
マキエルの手から光が消えた。
ロゼエルが口を開いた。
「おまえの反逆を、俺も覚えている。あのときは剣を向けた」
「ああ」
「今は、ここにいるおまえを見ている」
ルシファーが顔を上げた。
「封印を守り、ガブリエルたちに知らせて、ベルゼバブを生かして止めた。過去は消えないが、それもおまえがしたことだ」
答えはなかった。
「傷を残しても、堕天した日の償いにはならない」
ルシファーは視線を落とした。剣を握る右手が、わずかに緩む。
マキエルが、もう一度手を差し出した。
「肩、見せて」
今度は止めなかった。
白い光が左肩を包む。焼けるような痛みが和らぎ、左手の指先へ、かすかな感覚が戻った。
「これ以上はラファエルに診てもらって」
「ああ」
ロゼエルはベルゼバブの傍らに立った。
「ここは俺が見ている。二人は先に戻れ」
「封印はまだ直っていない」
「別の道で来た。ガブリエルにも伝えてある」
ルシファーはしばらくベルゼバブを見ていた。
「目を覚ましても、無理に話を聞くな。アマツミカボシの力を使いすぎている」
「分かった」
ルシファーは剣を鞘へ収めた。マキエルは傷ついた左側を避け、彼の右へ並んだ。
二人が去ると、ロゼエルは折れた杖を見下ろした。銀細工に、もう光はなかった。
◇
封印が閉じたのは、翌日だった。
ウリエルが最後まで内側を見張り、ガブリエルが亀裂をつなぐ。ラファエルは修復を確かめると、まずルシファーの左肩を診た。
「マキエルが応急処置してくれてよかったよ。でも、まだ深いところが傷んでる」
「動かせるようにはなった」
「動かせることと、使っていいことは違う。しばらくは絶対安静だよ。剣も持たないで」
ルシファーは何か言いかけて、やめた。ガブリエルが横で小さく息をつく。
「今度は聞いてくれるのね」
「……約束は守った」
「ええ。それはちゃんと見ていたわ」
一方、ベルゼバブはウリエルに見張られながら、地獄へ戻された。まだ意識は戻っていない。
ルシファーは閉じた封印を見た。
彼を許したわけではない。ベルゼバブも、ルシファーを許すことはないだろう。
それでも、今度は二人とも生きている。
一つの地獄が、終わった。
◇
天界の病室に、朝の光が差し込んでいた。
封印が完全に修復されてから、一日。ルシファーは寝台に腰かけ、窓の外を眺めていた。左肩には厚く包帯が巻かれている。
扉を叩く音がした。
「入れ」
ガブリエルが姿を見せた。手には水差しと、小さな薬箱がある。
「具合は?」
「悪くない」
「その答えは信用できないわ」
寝台へ歩み寄る声は落ち着いていたが、肩を見る目には、隠しきれない心配が浮かんでいた。
「ラファエルから、左腕は動かさないようにと言われたでしょう」
「ああ」
「痛み止めは?」
「飲んだ」
「水は?」
「今、飲もうと思っていた」
「そう言うと思って、持ってきたの」
杯へ水を注ぎ、彼の右手に渡した。飲み終えるまで、ガブリエルは何も言わなかった。
「……一人で行ったことを、責めに来たのか」
ガブリエルは少しだけ視線を伏せた。
「責めたい気持ちはあるわ」
「そうか」
「でも、あなたがそうするしかなかったことも分かっている」
椅子を引き、寝台のそばへ座った。
「封印の近くで戦えば、ベルゼバブがまた狙う。だから、一人で引き離した。私たちに連絡もして、居場所も伝えてくれた」
「ああ」
「約束を破ったわけではないのよね」
「破ってはいない」
「……分かってる」
包帯の端を、そっと見つめた。
「分かっているのに、怖かったの」
ルシファーは黙って彼女を見た。
「あなたが交戦していると聞いてから、二人が迎えに行くまで。場所は分かっていたのに、何が起きているのかは分からなかった。声が途切れるたびに、もう聞こえなくなるんじゃないかって……」
そこで言葉を止めた。
「ごめんなさい。今さらこんなことを言っても、困らせるだけね」
「困ってはいない」
「でも、私は困っているわ」
「なぜだ」
ガブリエルは顔を上げた。目が合った瞬間、もう隠しておけないと思った。
「あなたが好きだからよ」
病室が静まり返った。
言った本人が、いちばん驚いていた。
――しまった。
視線をそらすと、耳まで赤くなった。
「……今のは、忘れて」
「聞いた」
「聞かなかったことにして」
「それは難しいな」
穏やかな声だった。からかう様子はない。その優しさが、かえってつらかった。
「返事はしないで」
「分かった」
すぐに答えられて、ガブリエルは少し驚いた。何か気の利いた言葉を返されると思っていた。けれど、彼は望んだとおり、余計なことを言わなかった。
その沈黙が、今はありがたかった。
「……あなたは、いつもそうね」
「何がだ」
「自分のことは後回しにする。誰かを守るためなら、傷つくことをためらわない」
「必要だった」
「ええ。分かっているわ」
包帯に触れないように、掛け布の端を直した。
「でも、帰ってきてくれてよかった」
ルシファーが少しだけ目を細めた。
「心配をかけた」
「そうよ」
「すまなかった」
静かで、真っすぐな謝罪だった。ガブリエルはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……次も、私たちが行くまで無事でいて」
「ああ」
「本当に?」
「約束する」
「あなたの約束は、守るために無茶をするから心配なのよ」
「それでも、守る」
ガブリエルは困ったように笑った。
「そういうところが、ずるいの」
「何がずるい」
「分からなくていいわ」
立ち上がり、水差しを片づけた。
「今日はもう休んで。明日、また様子を見に来るから」
「明日も叱るのか」
「少しだけ」
「少しだけなら、待っている」
扉の前で、ガブリエルは振り返った。
「……明日は、もう少し元気な顔をしていて」
「ああ」
「左腕も動かさないで」
「ああ」
「薬も忘れないで」
「ああ」
「ちゃんと眠って」
ルシファーは、ほんの少し口元を緩めた。
「注文が多いな」
「心配しているのよ」
言ってから、ガブリエルはまた固まった。
「……今のも忘れて」
「それは無理だ」
「もう」
顔を赤くしたまま、病室を出ていった。
扉が閉まっても、ルシファーはしばらくそちらを見つめていた。やがて、誰もいない病室で静かに呟く。
「今度、伝えよう」
どう伝えるかは、まだ決めていなかった。
ただ、彼女を長く待たせるつもりはなかった。




