第32話 復讐のベルゼバブ
隠り世の古い石段で、ベルゼバブは誰もいない広間を眺めていた。
地獄を抜けてから、しばらくが経つ。そのあいだ、彼は何もしなかった。
壁の灯火が揺れるたび、柱の影だけが動く。通路の奥へ目を向けても、こちらへ近づいてくる者はいない。
「退屈だな」
悪魔はもともと、人間の前に姿を現せない。かつては意識へ入り込み、欲望や恐れを通して干渉していた。
だが、ロゼエルが世界を書き換え、それも封じられた。
地獄の外へ出たところで、人間に手を出すことはできない。自由になったはずなのに、することがなかった。
ベルゼバブは片手を開いた。
指の間に、青白い光がにじむ。
アマツミカボシから与えられた力だった。封印を抜け、四大天使を振り切れたのも、この力のおかげだ。
だが、使わずにいるほど、身体の奥が軋んだ。骨の内側を、何かが押し広げようとしている。
光を握り潰す。
指の間からこぼれた光が消えても、痛みは残った。
「力だけ渡して、あとは知らん顔か」
返事はない。
石段の脇には、もう一つ渡されたものがあった。
ロキの魔杖、レーヴァテイン。
赤茶色の長い柄に銀の装飾が巻きつき、先端は小さな斧の刃のように張り出している。
ベルゼバブは杖を取り、立ち上がった。
天界を襲えば、四大天使が来る。地獄を抜けるときは逃げ切れたが、四人を相手に戦うつもりはない。
欲しいのは、ルシファー一人だった。
自分を地獄へ封じた男。その男が今は、地獄の管理者を名乗っている。
ベルゼバブは杖の柄を握り直した。
出口を壊せば、ルシファーは必ず来る。
ほかの天使たちには、裂け目を塞ぐ仕事が残るだろう。
◇
隠り世の通路を進み、見えない封印の前で足を止めた。
行き止まりに見える石壁。その手前で、灯火の煙が不自然に折れ、左右へ流れている。
ベルゼバブが手を伸ばすと、指先に抵抗が触れた。
地獄を抜ける際には、わずかな隙間を探さなければならなかった。
今度は、隙間などいらない。
青白い光が腕を伝い、レーヴァテインの銀細工へ流れ込む。握った柄が熱を帯びた。
「来い、ルシファー」
杖を振り下ろした。
何もない空間に、赤い亀裂が走る。
足元の石が跳ねた。衝撃が通路を抜け、天井から破片が降り注ぐ。
ベルゼバブは目を細め、同じ場所へ二撃目を叩き込んだ。
亀裂が広がる。
封印の一角が砕け、地獄の熱気が吹き出した。衣服の裾があおられ、壁の灯火が一斉に傾く。
向こう側から、悪魔たちの声が重なって聞こえた。
ベルゼバブは入らなかった。
これだけ壊せば、気づく。
杖の先へ力を集めると、銀細工を通った光が小さな結晶になった。石床へ押しつける。青白い印が残り、杖を離しても消えなかった。
「便利な杖だ」
形の定まらなかった力が、望んだ通りに結晶になる。
ベルゼバブは少し先へ進み、もう一つ印を刻んだ。
通路の角にも、その向こうにも。
ルシファーが見失わずに追える間隔で、隠り世の奥へ道を作っていった。
◇
地獄の管理室で、ルシファーは揺れと同時に立ち上がった。
机の上の燭台が倒れる。受け止めた手の中で炎が揺れた。
出口から流れ込んでくる力には、覚えがあった。
「ベルゼバブ……」
ガブリエルたちへ知らせ、剣を手に出口へ急ぐ。
封印の向こうに、人影はなかった。代わりに青白い光が、隠り世の石床に残っている。
裂け目の内側では、悪魔たちが押し寄せていた。
ルシファーは剣に炎を灯し、出口の前へ踏み込んだ。
炎が横に走る。
先頭の悪魔が退いた。その間にガブリエルが駆けつけ、裂け目へ水の壁を張る。ウリエルは内側に残り、集まる悪魔たちを押し戻した。
ラファエルが、砕けた箇所へ手をかざした。
「……やれやれ。また張り直しか」
外側を守っていた風の壁まで破られている。
指を動かし、乱れた風を集める。だが、裂け目から噴き出す力に押され、風はすぐに散った。
「前より強くなってる。同じ守りでは、また壊されるね」
ラファエルは両手を上げ、さらに広い範囲から風を呼び寄せた。
「修復には時間がかかるよ」
「あいつは外にいる」
ルシファーは裂け目の向こうを見た。
青白い印が、奥へ続いていた。
「誘っているのね」
水の力を保ちながら、ガブリエルが彼へ顔を向けた。
「待って。追う前に、連絡の取り方を決めましょう」
「裂け目を放っておけない。ここはおまえたちに頼む」
「先に追うのは止めない。でも、進路を伝え続けて。封印を塞いだら、すぐに追うわ」
ルシファーは彼女を見た。
訓練場で交わした約束を、ガブリエルが忘れるはずはない。
「……分かった。見失っても、一人で決着をつけようとはしない」
「その言葉、覚えておくから」
ガブリエルが水の壁を動かし、彼の通る道を空けた。
ルシファーは剣を抜き、隠り世へ出た。
背後で水の壁が閉じる。悪魔たちの声が遠のき、通路には自分の足音だけが響いた。
石床に、青白い印が点々と続いている。
罠だと分かるほど、分かりやすい道だった。
最初の印を越える前に足を止め、現在地を伝える。
それから剣を握り直し、通路の奥へ歩き出した。
◇
最後の印を刻んだベルゼバブは、柱の陰へ身を移していた。
遠くから、足音が近づく。
一度止まり、また近づいてくる。
杖を握った指に、力がこもった。身体の奥で暴れていた力が、ようやく静まる。
ベルゼバブは、通路へ目を向けた。
最後の印が青白く光る。
その向こうに、ルシファーの炎が見えた。




