第29話 オーディンとの約束
北欧神界から、一通の手紙が届いた。オーディンの印がある書状を開くと、文面は短かった。
――約束の酒を用意した。マキエルとともに来られたし。
「お酒を飲むために、わざわざ手紙を?」
「そういう約束をしたからな」
以前の手合わせのあと、オーディンが次は酒を飲もうと言ったのだった。
「マキも行くか?」
「もちろん」
北欧神界へ着くころには、夜が深まっていた。山から吹く風は冷たく、宮殿の窓には明かりが灯っている。
門を守る男神はロゼエルの名を聞いて姿勢を正した。だが、マキエルを見ると、次の言葉を忘れたように立ち尽くす。
「……天界から、女神が?」
「私は天使です」
慌てて開かれた扉をくぐりながら、ロゼエルが言った。
「驚いてたな」
「見なかったことにして」
「無理だろ」
マキエルは返事の代わりに、彼の袖を軽く引いた。
広間には長い卓があり、暖炉の火が石壁を照らしていた。窓の外には、星を散らした夜空と雪山が見える。
卓の奥でオーディンが杯を掲げた。
「来たか、ロゼエル。約束を忘れたかと思ったぞ」
「手紙を受け取ってすぐ来た」
「なら、遅れたとは言うまい」
隣にいた金髪の女神が立ち上がった。
「久しぶりね、ロゼエル」
フレイヤだった。マキエルにも微笑むが、視線はすぐ彼へ戻る。
「あなたが来ると聞いたから、私も席をもらったの」
「オーディンと飲む約束をしたんだ」
「知ってるわ。だから私も飲みに来たの」
楽しそうに隣の椅子を引いた。マキエルがその椅子を見て、ロゼエルも見た。
「俺はオーディンの向かいに座る」
「あら、残念」
フレイヤが椅子を戻すと、ロゼエルはマキエルの隣に座った。彼女は何も言わず、自分の杯を卓へ置いた。
「まずは、あの戦いのあとの一杯だ」
酒が注がれ、杯が触れ合った。ロゼエルはひと口飲んで息をつく。
「強いな」
「お前に薄い酒は出せん」
「勝手に決めるな」
オーディンが笑った。フレイヤは、そのやり取りを聞きながら彼を眺めている。
「前に会ったときより少し雰囲気が違うわね。何かあった?」
「毘沙門天と戦った」
「ほう。結果は?」
オーディンが顔を上げた。
「負けた」
「あなたが?」
「相手が強かった」
どんな戦いだったか聞かれ、ロゼエルは少し考えた。
「槍を破壊した。あそこで決められると思ったんだが、吉祥天が予備の槍を持っていた」
オーディンは一瞬黙り、声を上げて笑った。
「奥方込みで相手を見るべきだったな」
「分かってる。あの二人の連携を読み切れなかった」
フレイヤは笑わずに聞いていた。
「負けて、それからどうしたの?」
「新しい剣を作った」
「剣も壊されたのか」
「いや。剣は無事だ」
「なら、なぜ?」
「振ったあと、戻すのが遅れた。大剣のままで、もう少し軽くしてもらった」
マキエルが静かに頷いた。
「鍛冶場から戻ってからも、ずっと振ってるよ」
「マキ」
「本当のことだもん」
「その剣に、名前はあるの?」
「アスラン」
「いい名前ね」
フレイヤはそれ以上尋ねず、杯へ酒を注いだ。
料理が運ばれ、オーディンが焼いた肉を取り分ける。
「お前らしい。負けたままでは終われんか」
「次に勝てるとは限らない。でも、何もしない理由にはならない」
「そうだな」
もう一度、四人の杯が触れ合った。マキエルの杯には、温かい飲み物が入っていた。
しばらくは食事の話が続いた。北欧の料理をフレイヤが説明し、マキエルが辛いものを避けようとすると、ロゼエルが皿を交換する。そんな二人を見て、フレイヤは何か言いかけ、微笑むだけにした。
やがて、オーディンが杯を置いた。
「ロキに会ったそうだな」
広間の賑わいが、少し遠くなったように感じた。
「本人から聞いたのか?」
「天界の書庫へ行ったと話していた」
「人間界の本を読んでた。結末の話を、少し」
マキエルが言うと、オーディンは頷いた。
「あいつらしい」
「何を考えているか、聞いたのか?」
「聞いたところで全部は話さん」
「俺たちに会いに来たのかも分からない」
「お前に興味を持っているのは確かだろう」
フレイヤが口を開いた。
「世界を書き換えた最高神だもの。でも、力があるからというだけで近づいたとは思えないわ。ロキは、相手がどんな答えを出すか見るのが好きなの」
ロゼエルは書庫での笑みを思い出した。ロキは本の結末を語りながら、こちらの反応を待っていた。
「次に会ったら、もう少し話してみる」
オーディンの片目が、彼を見据えた。
「その前に、覚えておけ。ロキに気をつけろ」
「何を警戒すればいい」
「あいつは命令せん。道を二つ見せて、どちらへ進むかを相手に選ばせる」
「選ぶのは俺だ」
「そう思えるようにするのが、ロキだ」
ロゼエルは黙った。
「お前が悪魔の人間界への干渉を止めたことは聞いている。だが、我々の運命には触れていない」
「ラグナロクか」
「ああ。ロキがそれをどう考えているかは、俺にも分からん」
マキエルは杯を両手で包んだまま聞いていた。窓の外では、北欧の山々が星の下に静かに連なっている。
「運命を変えたいなら、本人がそう言えばいい」
「ロキが素直に言うかしら」
「言わないなら、聞くまでだ」
オーディンも笑った。
「お前ならそうするだろうな」
フレイヤが料理の皿を卓の中央へ押しやった。
「難しい話はそこまで。せっかく四人で集まったのよ」
「書状を送ったのはオーディンだ」
「酒を飲もうと書いたはずだぞ」
マキエルが小さく笑った。
暖炉で薪がはぜた。彼女は両手で包んでいた杯を持ち上げ、温かい飲み物に口をつけた。
「今夜は約束を果たす。それで十分だ」
ロゼエルは差し出された杯を受け取り、オーディンと合わせた。ロキのことは、次に会ったときに聞けばいい。今は酒と、久しぶりに顔を合わせた相手がいる。
彼は杯を傾けた。




