第28話 ロゼとロキ
翌日の午後、天界の門に一人の客が着いた。
白を基調にした道化師の衣装。明るい紫の髪をした男は、門を見上げて足を止めた。
「さて」
小さく笑い、門番へ歩み寄った。
「ロゼエルに会いたいんだけど、取り次いでもらえるかな」
「お名前を」
「北欧神界のロキだよ」
約束はなかった。ロキは門の外で待ち、行き交う天使たちを眺めていた。
ほどなく、ロゼエルとマキエルがやってきた。
ロキは胸に手を当て、頭を下げた。襟と袖についた小さな金の鈴が、澄んだ音を立てる。
「初めまして。北欧神界のロキだよ」
「ロゼエルだ。こちらはマキエル」
「初めまして」
マキエルが挨拶すると、ロキは顔を上げた。
顔立ちも紫の髪も、二人はよく似ていた。
しかし、二人が与える印象は、真逆と言っていいほど違っていた。
「突然だけど、少し邪魔してもいいかい?」
「今日は何の用だ?」
「君と話してみたくて」
ロキは少し首を傾げた。
「世界を変えた神に、直接会える機会はそうないだろう?」
ロゼエルは門番に頷き、二人で案内することにした。
◇
庭を抜け、三人は回廊へ入った。
ロキは花壇や柱の彫刻へ目を向けていた。足取りはゆっくりしていたが、立ち止まることはなかった。
「静かだね」
「騒がしいほうがよかったか?」
「いいや。平和そうで何よりだよ」
その言葉を聞き、ロゼエルは横へ目を向けた。
ロキは庭を眺めていた。
「世界を変えた気分はどう?」
「気分で変えたわけじゃない」
「そうだろうね。必要だと思ったから変えた」
「ああ」
「君には、それができるんだね」
感心したような声だった。
ロゼエルが答える前に、ロキは回廊の奥へ顔を向けた。
「そこは?」
「書庫」
マキエルが答えた。
「よく本を読みに来るの」
「少し見ても?」
ロゼエルが扉を開けた。
天界の記録だけでなく、人間界の書籍も並んでいる。歴史書や詩集に混じって、子どもたちのための物語もあった。
ロキは棚の前を歩き、一列の背表紙で足を止めた。
「ナルニア国物語」
「知ってるの?」
「名前は」
最後の一冊を抜き取る。『さいごの戦い』だった。
「最終巻から読むの?」
「結末が気になってね」
「最初から読んだほうが面白いよ」
「そうかもしれないね」
そう言いながら、最後のページを開いた。
マキエルがロゼエルを見る。彼は肩をすくめた。
「君は、いつもそうやって読むのか?」
「ときどきね。終わりを知っても、そこまでの道はまだ分からないだろう?」
「俺は先に読まないな」
「結末を知らないほうが楽しい?」
「ああ」
ロキはページへ目を戻した。
「僕は、知ってから確かめたくなるんだ。本当に、そこへたどり着くのか」
◇
窓際の卓で、三人は茶を飲んだ。
ロキは冒頭を読み、それから後ろのほうを開く。行き来するたび、袖の鈴が鳴った。
「落ち着かない読み方だね」
マキエルが言った。
「僕には、このほうが落ち着くんだ」
「途中の出来事を知らないと、結末を間違えて受け取るかもしれないよ」
ロゼエルが言うと、ロキは顔を上げた。
「ああ。だから途中も読むよ。ただ、最初に何が残るのかを知りたいんだ」
彼は開いた本へ指を挟み、カップを取った。
「北欧にも、終わりが語られている」
「ラグナロクか」
「うん」
ロキは紅茶を飲み、音を立てずにカップを戻した。
「その話では、僕はオーディンたちの敵になる」
マキエルは彼を見た。
先ほどまでと変わらない声だった。
「君は、そうするつもりなのか?」
ロゼエルが尋ねた。
「さあね。今は、こうしてお茶を飲んでいるよ」
「先のことは分からない、という意味か」
「君は分かる?」
ロキの指が、本の端を撫でた。
「世界を変えても、その先で誰が何をするかまでは決められないだろう?」
「決めるつもりもない」
「そうなんだ」
ロキは微笑んだ。
「なら、ラグナロクも語られているとおりに起きるのかな」
「俺に聞いても、答えは出ない」
「うん。そうだと思ってた」
マキエルはカップを両手で持ったまま、二人を見ていた。
ロキはロゼエルから目を離さなかった。
「悪魔が人間に干渉できなくなった。ルシファーも、地獄を守る側になった。ずいぶん変わったね」
「ああ」
「彼を選んだのは、君だろう?」
「そうだ」
「信じているんだね」
ロゼエルはカップを置いた。
「何か言いたいことがあるなら、聞くよ」
ロキは少し目を見開き、それから笑った。
「そう警戒しないで。オーディンとも義兄弟の仲なんだ。人を信じることが、分からないわけじゃない」
「なら、分かるだろう」
「もちろん」
返事は早かった。
ロキは本へ視線を落とし、挟んでいた指を抜いた。
閉じた表紙を見つめ、しばらく何も言わなかった。
「信じた相手が、最後にどちらへ立つのか。そこまで読めれば、簡単なんだろうけどね」
ロゼエルは彼を見ていた。
「それで最後から読むのか?」
「本なら、確かめられるから」
ロキは表紙を指先で軽く叩いた。
マキエルが口を開いた。
「でも、好きになった登場人物がいたら、結末を知っていても最後まで読みたいよ」
ロキが彼女へ顔を向けた。
「どうして?」
「その人が、最後までどう生きたかも知りたいから」
ロキは彼女を見つめたあと、本へ目を戻した。
「……そういう読み方もあるね」
今度の返事には、少し間があった。
マキエルは頷いた。
「読み終わるまで、借りていく?」
「いいの?」
「返してくれるなら」
「必ず」
ロキは本を受け取り、自分の隣へ置いた。
そのあとも話は続いた。北欧神界のこと、書庫に並ぶ本のこと。ロキはよく笑い、マキエルの話にも耳を傾けた。
ロゼエルへ問いかけるときだけ、答えを待つ間、その顔をじっと見ていた。
◇
日が傾き、三人は門へ戻った。
ロキはロゼエルへ向き直った。
「今日はありがとう。思いがけず、面白いものが見られたよ」
「次は知らせてから来てくれ」
「本を返すときは、そうしよう」
頭を下げ、門の外へ数歩進んだところで振り返った。
「さっき読んだ結末だけど」
二人が彼を見る。
「古いナルニアは滅びる。でも、その先に『まことのナルニア』が待っているらしいね」
ロキは借りた本を持ち上げた。
「世界の終わりが、本当の世界の始まりか。面白い結末だね」
風が衣装の鈴を揺らした。
「君は、どんな終わりを選ぶんだろうね」
白い背中が、門の向こうへ遠ざかる。
マキエルは、その姿を見送っていた。
「ロゼに少し似てたね」
「そうかな」
「顔と、紫の髪はね」
「ほかは?」
「ぜんぜん違う」
ロゼエルは小さく笑った。
鈴の音が聞こえなくなると、門の前にはいつもの静けさが戻った。
◇
天界の門が見えなくなってから、ロキは足を止めた。
借りた本の表紙へ目を落とす。
「途中も、か」
マキエルの言葉を繰り返した。
次に思い出したのは、向かいに座っていたロゼエルの顔だった。
世界を変えたことも、ルシファーを選んだことも、問われればまっすぐ答えた。
ロキは口元を緩めた。
「君の結末は、まだ読めないね」




