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第27話 海辺の約束

挿絵(By みてみん)

 ベルゼバブが地獄を出てから、しばらく経った。


 行方はつかめず、目立った動きもない。警戒は続けていたが、今日も天界には穏やかな午後が訪れていた。


 窓からの風がカーテンを揺らした。ロゼエルはソファの端に座り、膝にギターを載せている。向かいでは、マキエルが本を開いていた。


 指が弦に触れる。音を確かめるようにひとつずつ。少し間を置いて、短い旋律になった。


「続きは?」


 マキエルが顔を上げた。


「今、考えてる」


「曲を?」


「次の音」


 違う弦を弾くと、彼女は首を傾げた。


「さっきのほうが好き」


「厳しいな」


 ロゼエルは弾き直した。気に入った音から始めて、少しずつ別の音を重ねる。本は開いたままだったが、マキエルはもう文字を追っていなかった。


「アスランの名前も、こんなふうに考えたの?」


「いや。あれは聞かれて、その場で出てきた」


「前から決めてたのかと思った」


「自分でも驚いたよ」


「でも、似合ってる」


 ロゼエルは弦を押さえる手を止めた。


「また剣を作ったんだな、俺は」


「うん」


「スサノオ、オーディン、ルシファー、毘沙門天。ここへ来てからも、戦ってばかりだ」


 マキエルは本を閉じた。


「悪魔の介入を封じても、俺自身は戦いから離れられていない。結局、ミカエルだった頃と本質的には変わってないのかもしれない」


 彼女はすぐには答えなかった。


「剣を作ったのは、誰かと戦いたかったから?」


「毘沙門天に負けて、直したいところが分かった。次に何か起きたとき、同じ隙を作りたくなかった」


「……うん」


 マキエルは、彼の膝にあるギターを見た。


「何も起きていない今日は、これを弾いてて」


「まだできてない」


「だから、続きが聴きたいの」


 ロゼエルは少し笑い、弦へ指を戻した。一度弾いた音を探し直す。途中で間違えると、マキエルが小さく笑った。


「やり直す」


「うん。待ってる」


 彼女は本をテーブルへ置き、隣へ移った。ロゼエルが少しだけ場所を空けると、そこに座る。


 旋律がどこへ向かうかは、まだ分からなかった。ロゼエルは先を急がず、次の音を鳴らした。


     ◇


 夕食のあと、ロゼエルは黒いパーカーに着替えた。


 マキエルが部屋の入口で足を止める。


「その服で行くの?」


「ああ。たまには、人間だった頃みたいに」


「じゃあ、私も」


 彼女は白いワンピースに着替え、薄桃色の上着を羽織った。戻ってくると、袖口を少し引いてロゼエルを見る。


「どう?」


「似合ってる」


「翼は出てるけどね」


「そこまで人間に戻らなくてもいいだろ」


 マキエルは笑った。


 ロゼエルがギターを手に取ると、彼女も隣へ並んだ。


 二人は海辺へ出かけた。


 水平線には、まだ夕日の色が残っていた。砂浜を少し歩き、波打ち際から離れた流木に腰を下ろす。


 ロゼエルの膝には、昼間と同じギターが載っていた。マキエルは本を持ってこなかった。隣に座り、彼の手元を眺めている。


 弦を爪弾くと、昼間に作りかけていた旋律が流れ始めた。


 先へ進んだかと思えば、少し戻る。そのたびに指の位置を変え、次の音を探す。


「そこ、決まったの?」


「たぶん」


「たぶんなんだ」


「最後まで弾いてから決める」


 マキエルは頷いた。それから、何も言わなくなった。


 ギターの音の間に、波の音が聞こえた。


 やがて最後の和音が、海風の中へ消えていく。


「珍しい」


「何が」


「今日は、そこでやり直さなかった」


 ロゼエルは弦に添えていた指を離した。


「俺だって、最後まで弾くことくらいある」


「知ってる」


 マキエルは小さく笑った。寄せた波が砂の上を薄く広がり、引いていった。


「……なんだか、懐かしい」


「この曲が?」


「曲というより、こうして聴いてることが」


 彼女はギターへ目を落とした。


「昼間の光と、ベッドにいた感じが、少しだけ浮かぶの。そこで、誰かが歌っていた気がする」


 ロゼエルは何も言わなかった。


 彼には、病室のベッドで歌を聴いていた彼女の姿が思い出せた。窓から差す光も、歌い終えたあとに手を叩いた笑顔も。


「はっきり思い出せるわけじゃないんだけどね」


 マキエルは顔を上げ、暗くなり始めた海を眺めた。


「でも、夜に外へ出るのは、あまりできなかった気がする」


「ああ」


「こうやって、帰る時間を気にしないで座ってるのが、不思議」


 風が彼女の髪を揺らした。


 人間だった頃は、会っていても疲れれば帰った。次に会う約束をしても、体調によっては会えなかった。


 今は、隣で同じ風に当たっている。


「走ってみたかった?」


 ロゼエルが尋ねると、マキエルは少し驚いてから頷いた。


「うん。そんな気がする」


 膝の上で手を重ね、少し考える。


「何も考えないで走ったり、遠くまで歩いたり。疲れたら休んで、また歩いて」


「ああ」


「帰れるかなって、先に考えなくていいの」


 ロゼエルは彼女を見た。


「今は、できるな」


「うん」


 マキエルの背中で、白い翼が広がった。


「飛ぶことだってできる」


「極端だな」


「ロゼがそれ言う?」


「俺は関係ないだろ」


「人間として生きて、最高神になった人が?」


 ロゼエルは少し考えた。


「……それを言われると弱いな」


 マキエルが笑った。翼をたたむと、風に揺れていた羽が背へ収まる。


 しばらく二人は、海を眺めていた。


「でもね」


「ん?」


「飛べるようになっても、こういう時間が好き」


 彼女はロゼエルのギターを見た。


「夜に外にいて、風に当たって。ロゼが弾いてるのを、隣で聴いてる」


「まだ作りかけだけどな」


「知ってる。昼間から聴いてるもん」


「厳しいな」


「でも、続きが聴きたい」


 ロゼエルは弦へ視線を落とした。


「さっきので、いったん最後まで弾いた」


「じゃあ、もう一回」


「注文が増えたな」


 マキエルは楽しそうに笑った。


 その笑顔を見て、ロゼエルも少し笑った。


 水平線に残っていた明るさが、ゆっくりと薄れていく。


 彼は膝の上でギターの位置を直した。マキエルがほんの少し近づく。ロゼエルは気づいていたが、何も言わなかった。


 最初の音を鳴らすと、彼女は目を閉じた。


 頬を撫でる海風と、隣から聞こえるギターの音があった。


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