第25話 剣を貸してください
数日後、地獄の最深部に響いていた水音が、ようやく静まろうとしていた。
ガブリエルが、封印に残った最後の亀裂へ指を添える。
淡く光る水が細い傷へ入り込み、途切れていた線をつないでいった。
ルシファーは少し離れた場所で、封印の奥を見張っていた。
悪魔たちの影は、もう近づいてこない。
ラファエルが外側の守りを固めてからは、新たな異変も起きていなかった。
「閉じます」
最後の線がつながった。
水が引き、修復された面に淡い光が走る。
ガブリエルは手を離し、しばらく待った。
亀裂は戻らない。
「……終わりました」
ルシファーが歩み寄った。
封印の表面を確かめ、剣を下ろす。
「ようやくだな」
「はい」
ガブリエルは天界へ修復完了の知らせを送った。
指先から小さな光が飛び立ち、広間の外へ消えていく。
あとは戻るだけだった。
だが、彼女は動かなかった。
封印を直していた数日のあいだに、ルシファーの知らなかった顔を見た。
ミカエルへの嫉妬を語ったときの、苦い笑い方。どう話せばいいか分からないと認めた、不器用な言葉。
どれも、天界へ戻ってからも忘れたくなかった。
隣で剣を下ろす彼を見た。
もう、ここに二人で残る理由はない。
そのことが、思っていたより寂しかった。
ガブリエルは肩に落ちた髪を払った。
修復のあいだ、何度も邪魔になった髪だった。切ろうと思えば、天界へ戻ってからでも切れる。
けれど今、少しだけ自分を変えてみたかった。
彼は気づくだろうか。
そんなことを考えた自分に戸惑い、ガブリエルは髪から手を離した。
「どうした」
ルシファーに声をかけられた。
彼の手にある剣へ目を向ける。
「剣を貸してください」
「俺の?」
「はい」
「何に使う」
「少しだけ」
「答えになっていないぞ」
ルシファーは眉を寄せた。
それでも刃を包む炎を消し、柄を彼女へ向けた。
ガブリエルは剣を受け取ると、長い水色の髪を片手で束ねた。
修復を続けていたあいだ、何度も肩から滑り落ちてきた髪だった。
「おい、まさか――」
刃が一度だけ動いた。
水色の束が、石床へ落ちた。
ルシファーは言葉を失った。
ガブリエルは剣を下ろし、残った髪に指を通した。
背中まで流れていた水色の髪は、鎖骨を少し越える長さになっていた。肩に沿って落ちた毛先が、顔を上げるとさらりと揺れる。
長い髪に隠れていた首筋が、前よりもよく見えた。
ルシファーは、その姿をしばらく見つめていた。
「ありがとうございます」
差し出された剣を、ルシファーは見た。
「俺の剣で切る必要があったのか」
「あなたが持っていたからです」
「それだけか」
ガブリエルは少し考えた。
「……ほかにもあるかもしれません」
ルシファーは彼女の顔を見た。
ガブリエルはそれ以上、説明しなかった。
彼は剣を受け取った。
かつてミカエルが振るい、今は自分が預かっている剣。
その刃で切られた水色の髪が、二人の足元に落ちていた。
「……似合ってる」
ガブリエルが顔を上げた。
「あなたがそう言うとは思いませんでした」
「俺も、言うとは思わなかった」
彼女は少し笑った。
切ったばかりの髪を耳にかける。頬に沿っていた一筋が外れ、鎖骨のあたりへ落ちた。
「先に帰って寝ろ」
「あなたも休んでください」
「封印をもう少し見てからだ」
「そう言って、ずっと立っていそうです」
「修復は終わったんだろう。少しは休む」
「その言葉、覚えておきます」
ガブリエルは床に落ちた髪を拾い、小さな水の球へ収めた。
広間の出口へ向かう彼女を、ルシファーが呼び止めた。
「ガブリエル」
彼女が振り返る。
ルシファーは一度口を開き、言葉を選び直した。
「ベルゼバブのことで動くときは、知らせる」
「必ず?」
「ああ。勝手に追ったりはしない」
ガブリエルは、彼の目を見た。
「約束ですよ」
「ああ」
彼女は頷き、広間を出た。
ルシファーは一人、封印の前に残った。
扉の向こうから足音が聞こえなくなっても、しばらくそちらを見ていた。
やがて封印へ向き直る。
傷は閉じていた。
剣を鞘へ戻すと、金属の音が静かな広間に響いた。
◇
天界の門が開いた。
マキエルは、そこをくぐってきたガブリエルを見て足を止めた。
「……ガブ?」
背中まであった水色の髪が、肩の下で揺れていた。
長さは鎖骨を少し越えるほど。歩くたびに毛先が軽く動き、以前よりも顔まわりがすっきりして見えた。
ガブリエルは彼女に気づき、手を上げた。
「ただいま、マキ」
「おかえりなさい。髪、切ったんだね」
「うん」
マキエルは駆け寄り、顔を見上げた。
「似合ってる」
「ありがとう」
ガブリエルは短くなった毛先に触れた。
マキエルはその手元を見た。
「自分で切ったの?」
「うん。ルシファーに剣を借りて」
「剣?」
思わず聞き返す。
「……髪を切るために?」
「ほかに、借りる理由ある?」
「ガブなら、戦うためかと思うよ」
ガブリエルが笑った。
そこへロゼエルもやってきた。
「帰ったか、ガブリエル」
「ただいま」
彼も髪を一度見たが、先に封印のことを尋ねた。
「全部閉じたか」
「うん。最後の亀裂まで直したよ。ラファエルが外側も守ってくれている」
「そうか。助かった」
マキエルが、ほっと息をついた。
「ルシファーは地獄?」
「修復した封印を見てる。もう少し残るって」
「ガブは、ずっと一緒だったんだよね」
「うん」
「ちゃんと休めた?」
「交代で少しずつ。ルシファーにも休むよう言ってきたよ」
ガブリエルは少し笑った。
「私には『先に帰って寝ろ』って言ってたけど」
「ガブの心配もしてたんだ」
「……ずっと修復していたからね」
髪を耳にかける。
マキエルは、その毛先をもう一度見た。
「ルシファーは何か言ってた? 髪のこと」
ガブリエルの手が止まった。
「似合ってるって」
「そうなんだ」
「何?」
「ううん。私もそう思ったから」
マキエルが微笑んだ。
ガブリエルは彼女を見てから、ロゼエルへ顔を向けた。
「あなたが託した剣も、ルシファーが持っているよ」
「そのまま持っていてもらう」
「……髪を切るのに借りたこと、怒らない?」
ロゼエルは一瞬、黙った。
それから、肩の下で揺れる水色の髪を見た。
「使い道までは決めていない」
ガブリエルが笑った。
マキエルも、つられて笑った。
「それより、今日は休め」
ロゼエルが言った。
「報告の続きがあるんだけど」
「明日聞く」
「ガブ、私もそう思う」
マキエルが隣で頷いた。
ガブリエルは二人を見比べた。
「……二人がかりには勝てないな」
三人は門を背に、天界の奥へ歩き出した。
歩きながら、ガブリエルが一度だけ振り返った。
門は、ゆっくりと閉じていくところだった。
マキエルはその横顔を見たが、何も聞かなかった。
ガブリエルも何も言わず、彼女と並んで歩いた。
水色の毛先が、肩の下でふわりと揺れた。




