第24話 堕ちた理由
地獄の最深部に、細い水音が響いていた。
ガブリエルが封印に手を当てると、亀裂へ水が流れ込む。裂け目に留まった水を通して、両端が淡く光り、少しずつつながっていった。
ルシファーは剣を持ち、その隣で封印の内側を見張っていた。
奥から悪魔が近づくたび、刀身に炎を灯す。赤い光が水の膜に映ると、暗がりに蠢いていた影は遠ざかった。
ウリエルも封印の前に立ち、悪魔たちの動きを警戒していた。
水の膜へ影が近づくと、一歩前へ出る。
悪魔はその姿を見て、暗がりへ引いた。
広間へ、二つの足音が近づいた。
ロゼエルとマキエルだった。
「封印の状態は?」
ガブリエルは手を添えたまま答えた。
「亀裂は少しずつ閉じています。ただ、奥まで傷が続いているので、まだ時間がかかります」
ロゼエルは裂け目を見た。
水の膜の向こうで、悪魔たちの影が重なっていた。
「ほかの悪魔は?」
「出ていません。ルシファーが追撃をやめ、封印を守ってくれました」
「ベルゼバブは逃げた」
ルシファーの声は低かった。
ロゼエルは隣に立った。
「追っていれば、ほかの悪魔が出ていた」
「分かっている」
ルシファーは手の中の剣に目を落とした。
かつてミカエルが使っていた剣。
それを握って悪魔たちを食い止める自分を、ベルゼバブは失望したと言った。
かつて自分について地獄へ来た男が、今は自分を憎んでいる。
「……次に会ったら、俺が止める」
「そうしてくれ」
ロゼエルはそれ以上、慰めの言葉を足さなかった。
マキエルがウリエルへ歩み寄った。
「ずっと悪魔を食い止めていたんでしょう?」
「今は落ち着いてる。二人が押さえてくれてるからね」
ウリエルはガブリエルとルシファーを見た。
それから肩を回し、腕を伸ばした。顔に疲れが出ている。
「少し、じっとしていて」
マキエルが腕に手を添えた。
柔らかな光が、張り詰めた筋肉へ流れていく。
ウリエルはおとなしく立ち、しばらくしてから指を開いた。
「ありがとう。楽になってきた」
そのとき、封印の奥で何かが蠢いた。
ルシファーが剣を構える。
ガブリエルは振り返らず、亀裂へ指を添えた。
水の膜が厚みを増す。
ルシファーの炎がその手前に広がると、近づいていた影が止まった。
「修復は続けられます。ここは任せてください」
ロゼエルへ向けた声に、迷いはなかった。
間もなく、天界からラファエルが戻った。
「外側にも痕跡が残っていた」
「アマテラスに見せてきた。アマツミカボシの力だと言っていた」
ロゼエルの言葉に、ラファエルは亀裂へ目を向けた。
「日本神界の神が、地獄の封印に手を出したのか」
「ああ。だが、目的はまだ分からない」
ラファエルは裂け目の端を指した。
「ベルゼバブが内側から押したところへ、外から力が通されている。ここを塞ぐだけでは、また同じ力を送り込まれる」
「通された場所は見つかったか?」
「見つけた」
細い風が、封印の表面をなぞった。
亀裂から少し離れた場所に、黒い線が浮き上がる。
ガブリエルが、その位置を確かめた。
「こちらも私が直します」
「ああ。私は天界へ戻って、外側の守りを組み直す」
「頼む」
ロゼエルが言うと、二人は頷いた。
ウリエルは封印の奥を見た。
悪魔たちは水と炎の向こうに退き、近づいてくる者はいなかった。
「こっちは落ち着いたな。あとは頼んだ!」
「おまえは?」
「天界の守りに戻るよ。ここに全員残ったら、向こうが空っぽになる」
彼は笑い、ガブリエルとルシファーを見た。
「二人とも、無理はするなよ」
ラファエルとウリエルが広間を出ていった。
ロゼエルはしばらく封印の状態を見届け、ガブリエルへ向き直った。
「必要なものがあれば知らせてくれ」
「はい」
マキエルも手を下ろし、ロゼエルの隣に戻った。
広間を出る間際、彼女は振り返った。
ガブリエルが水の膜を見つめ、その背後にルシファーが立っている。
ルシファーが剣の向きを変えると、ガブリエルはそちらの水を薄くし、別の亀裂へ力を回した。
二人は何も言わなかった。
マキエルは足を止めず、ロゼエルのあとを追った。
◇
足音が遠ざかり、広間は静かになった。
「一人で続けるつもりか」
ルシファーが尋ねた。
「一人ではありません」
ガブリエルは振り返らなかった。
彼はしばらくその背を見つめ、剣を握り直した。
「……そうだな」
水は亀裂の奥へ染み込み、裂け目の縁を少しずつ結びつけていた。
「大きな傷は、朝までに閉じられそうです」
「おまえは休めるのか」
「水を留めたまま、少しなら」
ガブリエルは指を下ろした。
手を離しても、水は流れ続けている。
「あなたこそ、ずっと剣を握っています」
「ここを離れる気はない」
「それは分かっています」
声に笑みが混じった。
ルシファーも、わずかに口元を緩めた。
封印の奥から、石を擦るような音がした。
刃に赤い炎が走り、水の流れも強くなる。
二人はしばらく待ったが、音は繰り返されなかった。
ルシファーは炎を消した。
「ベルゼバブは、俺を裏切り者だと言った」
「聞こえていました」
「あいつは俺について地獄へ来た。俺が何を選ぶにしても、同じ道を選ぶと思い込んでいたんだろう」
ガブリエルは封印を見つめたまま、耳を傾けた。
「地上では、俺が神の創った人間に嫉妬して反逆したと言われているらしいな」
「そういう話もあります」
「違う」
ルシファーは剣を見た。
「俺が嫉妬したのは、ミカエルだ」
今のロゼエル――かつての名を、ルシファーは口にした。
ガブリエルの指が止まった。
「……ミカエルに?」
「ああ。俺たちは同じころに生まれた。兄弟のように育ったよ」
二人で剣を取った日々を思い出す。
勝敗が決まれば、すぐ次の勝負を始めた。互いに負けを認めたくなくて、日が暮れてもやめなかった。
「俺はあいつより、すべてに優れていると思っていた。力も、才も」
「あなたがミカエルを意識していたのは、知っています」
「意識、か。俺はあいつを認めていた。だからこそ、負けたくなかった」
彼は剣を握り直した。
「神に反逆すれば、俺のほうが上だと証明できる。あのころは、そんなことまで考えたのかもしれない」
ガブリエルは、すぐには言葉を返せなかった。
二人が競い合っていたことは知っている。
だが、その隣でルシファーが何を感じていたのか、本人から聞くのは初めてだった。
「……ずっと、一人で抱えていたんですね」
「嫉妬していると認めたくなかった。まして、誰かに話せるわけがない」
「ミカエルにも?」
「一番知られたくなかった」
ルシファーは苦く笑った。
「嫌いだったら、あれほど気にしなかっただろうな」
「そうですね」
「それだけが反逆の理由だったとは言わない。だが、俺の中にあったことは確かだ」
封印の暗い奥へ目を向けた。
「堕ちたあと、戦が起きた。俺について来た者たちもいた。ベルゼバブも、その一人だ」
「あのとき、あなたを慕う天使は多かったです」
「俺は、自分が何を証明したいかばかり考えていた。あいつらが何を信じてついて来たのか、聞こうともしなかった」
剣を持つ手が、わずかに下がった。
「さっき、ベルゼバブの顔を見て、ようやく気づいた」
ガブリエルは黙っていた。
彼が昔の自分をどう見ているのか、まだ分からないことが多い。
けれど、その言葉を聞けたことは嬉しかった。
「話してくれて、ありがとうございます」
「礼を言われる話じゃない」
「それでも、です」
彼女は封印に向き直り、水を亀裂の奥へ導いた。
ルシファーも剣を構え直す。
「昔のことを、今すぐ全部話さなくてもいいですよ」
「……助かる」
意外な返事に、ガブリエルは振り返った。
彼は少し困ったような顔をしていた。
「俺にも、どう話せばいいか分からないことがある」
「では、話せるところから」
ガブリエルが微笑んだ。
目の前で、裂け目の一端が閉じた。
ルシファーはそれを見届け、剣先を下げた。
「まずは、こいつを直そう」
「はい」
水の青い光が、二人の足元に並んで落ちていた。




