第23話 ロキの暗躍
隠り世の石床に、一匹の蠅が降りた。
二匹、三匹と数を増やし、黒い群れになる。
羽音が途切れると、そこに金髪の青年が立っていた。
ベルゼバブは茶色のジャケットの袖を整え、周囲を見渡した。
古い石柱が並んでいる。その向こうには星が見えたが、足元に星明かりは届いていなかった。
封印を破った力の気配は、ここまで続いていた。
「俺に力を与えたのは、おまえだな」
石柱の陰へ声をかけた。
暗がりから、一人の青年が現れた。
長い黒髪が片目を隠し、飾りのない衣をまとっている。一見すると優しげな顔立ちだった。だが、こちらを見る目に親しみはなかった。
「ああ」
「名を聞こう」
「アマツミカボシ」
ベルゼバブは、その名を口の中で繰り返した。
「なぜ俺を逃がした?」
「ロキに頼まれた」
「ロキ?」
「おまえを解放すれば、俺に星の力を流すと約束した」
ベルゼバブは眉を寄せた。
「自分でも、力を持っているだろう」
「以前の一部にすぎない。俺は、かつての星の神としての力を取り戻したい」
アマツミカボシが掌を上へ向けた。
小さな星が浮かんだ。白い光を放ったが、長くは続かなかった。輪郭が崩れ、細かな光となって消える。
彼はその手を閉じた。
「星の力が、届かなくなっている。ロキは、その流れを通せると言った」
「それを信じたのか」
「わずかだが、実際に力を流してみせた」
ベルゼバブは頭上の星を見た。
この神は、あの光を取り戻すために自分へ力を与えたのだった。
「おまえが欲しいのは、元の力だけか」
「ああ」
そのとき、頭上で鈴が鳴った。
「二人とも、ちゃんと会えたね」
ベルゼバブが顔を上げた。
石柱の上に、白い衣の青年が座っていた。
明るい紫の髪。道化師を思わせる模様の衣。目の下には、小さな涙形の印がある。
青年は鈴を指先で揺らしながら、二人を見下ろしていた。
「ロキだ。初めまして、ベルゼバブ」
「おまえが、俺を外へ出させたのか」
「うん」
ロキは石柱から降りた。着地の音はしなかった。
「なぜ俺だ」
「力を得た君が、ルシファーと再会したらどうなるか見たかった」
ベルゼバブの目が細くなった。
「昨夜の戦いも見ていたのか」
「君は逃げて、彼は封印を守ったね」
「それで、満足したか」
「まだ途中だと思ってる」
ロキは笑った。
ベルゼバブは、その顔を見つめた。
「俺を解放するために、こいつへ星の力を流す。そこまでして、おまえに何の得がある?」
「力を得た君が、ルシファーと再会したらどうなるか。そのとき、ロゼエルは何をするのか」
ロキは手の中の鈴へ目を落とした。
「僕は、その結末が知りたいんだ」
「ロゼエルに興味があるのか」
「世界を変えた神だよ。悪魔が人間に干渉する道を閉じて、ルシファーに地獄を任せた」
「封印を抜けても、人間には手を出せない。そこは変わっていない」
「もちろん。僕にも、あの書き換えは変えられない」
ロキは顔を上げた。
「でも、君は外へ出た。ロゼエルも、君が逃げたことを知る。そのあと、どうするだろうね」
ベルゼバブは黙った。
昨夜、ルシファーは自分を追わなかった。
ほかの悪魔が外へ出るのを防ぐために、剣を振っていた。かつて自分がついていった男は、もう悪魔たちの先頭にはいなかった。
「ルシファーに、まだ話したいことがある?」
ロキが尋ねた。
「おまえには関係ない」
「そうだね」
あっさり認めたあと、ロキは続けた。
「僕が何もしなくても、君はいずれ封印を破ろうとしたんじゃない?」
「だから、手を貸してやったと?」
「出たい君と、外へ出したい僕。そこは同じだった」
ベルゼバブはアマツミカボシへ目を向けた。
「この力は、返せと言われれば消えるのか」
「おまえに渡した分は、おまえのものだ」
「あとから命令するつもりは?」
「ない。俺の約束は、ロキとのものだ」
ベルゼバブは手を開いた。
掌の上に、黒い光が集まる。
昨夜は封印を破るために注ぎ込んだ。今は、その流れを少しずつ確かめられた。
地獄を出られたのは、この力のおかげだった。
だが、外へ出たあとまで、この二人に決めさせるつもりはない。
「俺がどうするかは、俺が決める」
「もちろん。楽しみにしてるよ」
ロキは微笑んだ。
ベルゼバブは掌の光を消した。
「話は分かった」
彼は二人に背を向けた。
「もう行くの?」
「ああ。まずは、この力を確かめる」
ジャケットの裾が、黒い蠅へ変わった。
腕が、肩が、次々にほどけていく。無数の羽音が石柱の間に響き、青年の姿が消えた。
黒い群れは、星明かりの届かない奥へ飛んでいった。
ロキは、その姿が見えなくなるまで眺めていた。
「さて。どうするだろうね」
「ロキ」
アマツミカボシが呼んだ。
「ベルゼバブは外へ出た。約束は果たしたぞ」
「分かってるよ」
ロキは振り返り、鈴を袖へしまった。
「今度は、僕の番だね」
アマツミカボシは夜空を見上げた。
遠い星の光は、まだ届いていなかった。




