第22話 アマツミカボシの痕跡
翌朝、ロゼエルの腕には、まだマキエルが巻いた布が残っていた。
「もう外していい?」
「ああ」
マキエルは結び目をほどき、布をゆっくりと外した。
その下には、傷ひとつ残っていない。
昨夜、弁財天の演奏から戻ったあと、マキエルが時間をかけて癒やした傷だった。彼女は指先で肌に触れ、痛みが残っていないか確かめた。
「動かしてみて」
ロゼエルは腕を曲げ、手を握った。
「問題ない」
「次は、もう少し早く見せてね」
「分かった」
マキエルが布を畳もうとしたとき、二人の前に淡い水色の光が灯った。
「ロゼエル様」
ガブリエルの声だった。
ロゼエルは光へ顔を向けた。
「何があった?」
「地獄の封印から、ベルゼバブが脱出しました」
マキエルの手が止まった。
「封印は?」
「ひとまず、押さえています。ほかの悪魔は出ていません。ただ、完全な修復には数日かかります」
「四人とも無事か」
「はい。ルシファーが最初に駆けつけ、私たちも合流しました」
それでも、ベルゼバブは逃げた。
ロゼエルは黙って、報告の続きを待った。
「ベルゼバブには、これまで持っていなかった力が加わっていました。その力で封印を破り、私の水の壁も突破しています」
「本人の力ではないのか?」
「封印に残った痕跡が、ベルゼバブのものとは異なります。何者かが力を与えたと考えています」
通信の光の下に、小さな水の球が現れた。
その内側に、黒い欠片のようなものが浮かんでいた。
「封印に残っていたものです。調べていただけますか」
ロゼエルは球へ手を伸ばした。
指先から淡い光を流す。
黒い欠片に触れた途端、その光が途切れた。
欠片は動かない。だが、その周囲だけがわずかに暗くなっていた。
「……妙な力だな」
マキエルも隣から覗き込んだ。
「光を吸っているの?」
「そう見える。ただ、これだけでは分からない」
ロゼエルはもう一度、黒い欠片を見た。
その縁から細い角が伸び、かすかに星の形を作っていた。
「これを、アマテラスに見せたい」
「私も行く」
マキエルが畳んだ布を置いた。
ロゼエルは通信の光へ向き直った。
「封印の修復を頼む。何か変化があれば、すぐに知らせてくれ」
「承知しました」
ガブリエルの声が途切れ、水色の光が消えた。
二人の前には、黒い痕跡を封じた球だけが残った。
◇
高天原の神宮には、朝の陽光が差していた。
アマテラスは奥の一室で、二人を迎えた。
「急なお話ですね」
「地獄の封印が破られた」
ロゼエルは、ベルゼバブの脱出と、四大天使がほかの悪魔を食い止めたことを伝えた。
アマテラスは最後まで聞くと、差し出された球へ両手を添えた。
「これが、封印に残っていたものですか」
「ああ。見覚えはあるか?」
球に陽光が差した。
黒い欠片の輪郭が、はっきりと浮かび上がる。
細い角を持つ、小さな星。
陽光はその周囲を照らしていたが、星の中心だけは黒いままだった。
アマテラスの指が止まった。
「……アマツミカボシ」
ロゼエルは彼女を見た。
「知っているのか」
「ええ。かつて、私自身があの神と向き合いました」
アマテラスは球を持ち上げた。
「そのときも、私の陽光を消し、そこに星の形だけを残したのです。この痕跡を見間違えることはありません」
マキエルが尋ねた。
「日本神界の神……ですよね」
「ええ。かつて高天原の神々と対立した神です」
「その神が、ベルゼバブに力を与えたのか」
「この痕跡から考えれば、その可能性は高いでしょう」
アマテラスは言葉を切り、黒い星を見つめた。
「ただ、なぜ地獄の封印に手を出したのか。そこまでは分かりません」
ロゼエルも球へ目を戻した。
ベルゼバブを外へ出すことが目的だったのか。
それとも、封印そのものを壊そうとしたのか。
四大天使が踏みとどまらなければ、ほかの悪魔も地獄から出ていた。
「アマツミカボシは、今どこにいる?」
「所在は分かりません。こちらでも調べさせます」
「頼む」
黒い星の輪郭が、少しずつ薄れていた。
残された力が尽きようとしている。
アマテラスは球をロゼエルへ返した。
「気をつけてください。彼の狙いが、ベルゼバブだけとは限りません」
「ああ」
ロゼエルは球を受け取った。
「まずは封印を確かめる。ルシファーたちを、数日もあそこに縛りつけてはおけない」
マキエルが頷いた。
二人が部屋を出ると、廊下には変わらず朝の光が満ちていた。
ロゼエルの手の中で、黒い星が消えた。
◇
そのころ、ベルゼバブは世界と世界のあいだにいた。
上も下も分からない闇の中を、金髪の青年が歩いている。
茶色のジャケットには、地獄での戦いの跡さえ残っていなかった。
彼は足を止め、自分の手を開いた。
封印を破った力は、まだ身体の奥にある。
だが、その力をたどろうとすると、自分の内側ではなく、闇の向こうへ意識が引かれた。
「……こっちか」
ベルゼバブは目を細めた。
何も見えない。
それでも、かすかな気配が続いていた。
自分へ力を与えた者が、その先にいるのかもしれない。
彼の指先が、一匹の蠅になった。
腕が、肩が、次々に黒い群れへ変わっていく。最後に金髪がほどけるように散り、青年の姿が消えた。
無数の羽音が、闇を渡った。
ベルゼバブは、その気配を追って飛んでいった。




