第21話 蠅の王ベルゼバブ
ロゼエルとマキエルが、弁財天の演奏を聴いていた夜。
地獄の最深部で、悪魔たちを閉じ込める封印に亀裂が走っていた。
その前に、ベルゼバブが立っていた。
亀裂へ手を伸ばす。封印の光が弾け、指先を押し返した。
「まだ通れないか」
それでも、亀裂は少しずつ広がっていた。
身体の奥には、これまで持っていなかった力があった。誰が与えたのかは分からない。だが、この力を注ぐたびに、封印の光は弱くなっていた。
再び手を伸ばそうとしたとき、背後で炎が上がった。
「封印から離れろ」
振り返ると、ルシファーが剣を手に立っていた。
異変に気づいた彼は、ガブリエル、ラファエル、ウリエルへ応援を求め、一足先に駆けつけていた。
その手にあるのは、かつてミカエルが使っていた剣だった。
ベルゼバブの笑みが消えた。
彼はかつて、ルシファーの側近だった。天界でともに戦い、地獄へ堕ちるときも、そのあとについていった。
だが今、ルシファーは地獄の管理者として、自分の前に立っていた。
「……おまえには失望した、ルシファー」
「話なら後で聞く」
「俺はおまえについて地獄へ行った。なのに今度は、俺を閉じ込める側か」
「俺がそう決めた」
「なら、なおさら許せない」
ベルゼバブの身体が、無数の蠅に変わった。
黒い群れがルシファーへ襲いかかる。
ルシファーは剣を振った。刀身から広がった炎が、蠅を焼き払う。
だが、すべての蠅が彼を狙っていたわけではなかった。
群れから離れた数匹が、封印の亀裂へ向かっていた。
「そっちが狙いか!」
ルシファーが振り向く。
蠅が亀裂へ入る直前、水の壁が行く手を塞いだ。
駆けつけたガブリエルが手を上げる。
背後の水が渦を巻き、巨大な龍となった。
水龍は蠅の群れへ突進した。大きく口を開き、黒い群れを飲み込んでいく。
残った蠅が四方へ散った。
そこへラファエルも到着した。
彼が起こした風が、逃げる蠅を一か所へ押し集める。
「今だ、ルシファー!」
「ああ!」
ルシファーの炎が、黒い群れを包んだ。
羽音が途切れる。
だが、炎の向こうへ抜け出した一匹が、封印へ向かって飛んでいた。
ベルゼバブは、まだ倒れていなかった。
◇
ルシファーが追い、ガブリエルも水龍を差し向ける。
その瞬間、蠅の身体から黒い力が噴き出した。
封印の光が弾け、亀裂が大きく開いた。行く手を塞いでいた水の壁も、内側から押し破られる。
開いた隙間へ、別の悪魔たちが殺到した。ベルゼバブに続いて、外へ出ようとしていた。
「他の悪魔まで出てしまいます!」
ガブリエルは水龍を呼び戻した。
長い身体が亀裂の前を塞ぎ、押し寄せる悪魔たちを食い止める。
だが、後ろから来る悪魔は途切れない。水龍を押し退けようと、次々に身体をぶつけてきた。
そのとき、ウリエルが駆けつけた。
亀裂の前へ踏み込み、腰を落とす。地面へ拳を叩きつけると、轟音とともに衝撃が封印の内側へ走った。
悪魔たちの足元が跳ね上がった。
前にいた者が倒れ、その後ろの群れもまとめて吹き飛ばされる。亀裂へ押し寄せていた悪魔たちが、一撃で地に伏した。
ベルゼバブの蠅だけが、その頭上を飛び抜けた。
ルシファーが剣を握り直す。
今なら、まだ追いつける。
だが、亀裂の奥には、さらに悪魔たちが集まっていた。倒れた者を乗り越え、外へ出ようとしている。
ラファエルが風を送り込み、その足を止めた。
ガブリエルは封印へ手を伸ばす。淡く光る水が、裂けた部分へ流れ込んでいった。
修復へ力を回すと、水龍の動きが鈍った。
悪魔たちが、その隙へ殺到する。
ルシファーは、遠ざかる一匹の蠅を見た。
追えば、ここを守る者が一人減る。
歯を食いしばり、封印へ向き直った。
剣を振る。
炎が亀裂の前に広がり、押し寄せる悪魔たちを退けた。
その間に、一匹の蠅が封印の外へ抜けた。
「また会おう、ルシファー」
ベルゼバブの声が遠ざかっていった。
ルシファーは追わなかった。
ラファエルの風が悪魔たちを押し戻し、ルシファーの炎が亀裂へ近づく者を焼き払う。
ウリエルも亀裂の前に立ち、抜け出そうとする悪魔を拳で打ち倒した。
三人に守られながら、ガブリエルは封印を修復していった。
やがて光がつながり、亀裂が閉じた。
悪魔たちの姿が見えなくなると、水龍も形を解いた。広間には、水の滴る音が残った。
「……ひとまず、抑えました」
ガブリエルが息を切らして言った。
「ですが、まだ不安定です。完全に直すには、数日かかります」
ルシファーは剣を下ろした。
「逃がしたな」
「ですが、他の悪魔は出していません」
彼は修復された部分を見つめた。
「……ああ」
剣を握る手には、まだ力が入っていた。
◇
地獄を抜けた一匹の蠅は、闇の中を飛んでいた。
やがて、その身体から黒い蠅が次々と分かれ、群れとなった。それらが集まり直すと、一人の青年が姿を現した。
金髪に、整った顔立ち。細身の身体に茶色のジャケットをまとっていた。落ち着いた眼差しからは、先ほどルシファーへ向けていた怒りはうかがえなかった。
ベルゼバブは、自分の手を見下ろした。
この力がなければ、封印は破れなかった。四大天使から逃げることもできなかった。
「俺に力を与えたのは、誰だ?」
返事はなかった。
何者かが、自分を地獄から出した。
そのために力を与えたのなら、自由にしたかっただけではないだろう。
自分に、何をさせたいのか。
ベルゼバブは、その答えを探すために亜空間の奥へ姿を消した。




