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第20話 弁財天の演奏会

挿絵(By みてみん)

 遠くから、弦を合わせる音が聞こえた。


「そろそろ会場へ戻る時間よ」


 吉祥天が湖へ目を向けた。ロゼエルは大剣を空間へ消した。


「お二人の席は橋を渡った先です。私たちは向こう側なので、ここで」


「ありがとうございました」


 マキエルが頭を下げた。毘沙門天はロゼエルと短く目を合わせ、妻とともに人波の向こうへ歩いていった。


 二人きりになると、マキエルが彼の右腕を取った。


「ここ、切れてる」


 裂けた袖の下に、細い傷があった。槍が上腕をかすめたところだった。


「大したことはない」


「そう言うと思った」


 小さな布を取り出し、傷に巻く。ロゼエルは、その手元を黙って見ていた。


「まだ、戦いのことを考えてる?」


「ああ」


「演奏が終わるまでは、休んで」


 彼は巻かれた布に触れた。


「そうする」


 湖上の舞台を囲むように、灯籠が浮かんでいた。二人が席へ着くころ、客席の話し声が静まっていった。


 黒い和装に橙を添えた弁財天が現れた。おっとりとした微笑みを客席へ向ける。


 琵琶を抱いて座ると、楽器にそっと語りかけた。


「今夜も、よろしくね」


 前列から、小さな笑い声が漏れた。


「あら。聞こえていましたか」


 彼女も笑った。けれど、弦に手を置くと、その表情が変わった。


 最初の一音が湖面を渡った。


 深く、澄んだ音だった。続く二音は短く、そこで手が止まる。風と水の音だけが残った。ロゼエルは思わず次を待った。


 三つの音が、もう一度鳴った。今度はそこから旋律が伸び、重なり、離れていった。穏やかな響きが次第に鋭さを帯びても、弁財天は急がなかった。一音ごとに、鳴らす場所と間を選んでいた。


 ロゼエルの右手が、膝の上で動いた。毘沙門天の槍を思い出していた。次に戦えば、どう動くべきか。


 その手に、マキエルの手が重なった。


「ロゼ」


 彼女は舞台を見たまま、握り込んでいた彼の指をそっとほどいた。


 ロゼエルは小さく息を吐き、彼女の手を握った。


 やがて旋律が静かになり、最初の三音が戻ってきた。同じ音なのに、違って聞こえた。


 ロゼエルはもう、槍の動きを追っていなかった。隣にいるマキエルの手と、湖を渡ってくる音を感じていた。


 最後の一音が消えても、誰もすぐには動かなかった。やがて拍手が起こり、湖を囲む席へ広がっていった。


「きれいだったね」


 マキエルも手を叩いた。


「ああ。もう一度、聴きたい」


 ロゼエルは舞台を見つめたまま答えた。


 客席を出ようとしたところで、舞台の係の神に呼び止められた。


「ロゼエル様、マキエル様。弁財天様がお二人をお呼びです」


「私たちを?」


 マキエルの顔が明るくなった。


 案内されたのは、舞台の裏手にある小さな休憩所だった。弁財天は琵琶を脇へ置き、二人を迎えた。


「来てくださって、ありがとうございます。楽しんでいただけましたか?」


「はい。すごく」


 ロゼエルも頷いた。


「最後に最初の音が戻ってきたところが、よかった」


「まあ。そこを聴いてくださったんですね」


 嬉しそうに笑った彼女の目が、腕に巻かれた布で止まった。


「毘沙門天様との手合わせは?」


「負けた」


「悔しそうですね」


「悔しい」


 弁財天は笑わず、彼を見つめた。


「その顔を見ると、少し安心します」


「どういう意味だ?」


「最高神になられても、あなたはあなたなのだと思って」


 ロゼエルは顔を上げた。


「以前、会ったことがあるのか?」


「直接お話しするのは、今夜が初めてです」


 彼女は膝の上で手を重ねた。


「ミカエル様が日本に人間として生まれると聞いたとき、こちらの神々にも知らせが届きました。私は、自分から守護神に名乗り出たんです」


「俺の守護神に?」


「はい。ただ、私にできたのは、小さな守りを送ることだけでした。苦しみを取り除くことも、人間として歩む道を代わりに決めることもできませんでした」


 彼女は少し間を置いた。


「それでも、あなたがその道を歩ききったことを、私は知っています」


 ロゼエルの胸に、かつての日々がよみがえった。苦しい夜も、何も変わらないように思えた朝もあった。


「強い人間ではなかった」


「苦しいときに苦しむのは、弱さではありませんよ」


 穏やかな声だった。


「それでも、生きてこられた。あなたは忍耐深く、強い魂の持ち主です」


 ロゼエルは返す言葉を探した。弁財天の目に、涙が浮かんでいた。


「こうして最高神になったあなたと、お話しできるなんて」


 マキエルが彼の手を握った。


「こうして会えて、私もうれしいです」


 弁財天は彼女へ向き直った。


「あなたが人間として生きた日々も、知っています。心臓が弱く、長くは生きられなかったことも」


 マキエルは少し目を伏せた。ロゼエルは握られた手を包み直した。


「短い時間の中でも、あなたの純粋な心が、ロゼエル様を支えていたのですね」


 マキエルの目に涙が浮かんだ。何も言わず、ロゼエルの手を握っていた。


「また、お二人で演奏を聴きにいらしてください」


「次も一緒に来よう」


 ロゼエルが言うと、マキエルは涙を拭って頷いた。


「お待ちしています」


 弁財天は二人に微笑んだ。


 帰り道、ロゼエルの腕の傷はまだ痛んだ。敗れた悔しさも消えてはいなかった。


 それでも、マキエルと並んで橋を渡りながら、次にここへ来る日のことを考えていた。


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