第2話 炎と剣を託す――新生四大天使
就任の後、ロゼエルはサタンを討った。長く続いた地獄の支配は崩れた。ロゼエルは悪魔の魂を地獄へ封じ、外へ出る道を閉ざした。だが、地獄そのものが消えたわけではない。悪魔はまだ存在し、罪を背負った魂もそこにいる。
天界中央宮の広間に、招かれたルシファーが立っていた。
赤から深紅へと色を深める髪に、野性味を帯びた精悍な顔立ち。黒と赤の衣をまとい、背には赤黒い翼があった。背筋を伸ばした立ち姿には、かつて天界で高位にあった者の品格が残っていた。
ロゼエルが入ってきても、彼は頭を下げなかった。
「今度は、俺を封じるつもりか」
「話をしたくて呼んだ」
「最高神が、俺に何の話だ?」
ロゼエルは足を止めた。かつては、この距離まで近づけば剣を抜いていた。今、二人の間には何もなかった。
「地獄を任せたい」
ルシファーは、ロゼエルの背後にある玉座へ一度目を向けた。
「……俺に、あそこを治めろと?」
「悪魔が再び外へ出ないように。それと、そこにいる魂を見ていてほしい」
「都合のいい話だな」
「そうだな」
ロゼエルは否定しなかった。
「戦いを終わらせても、地獄は残った。あそこを任せられるのは、おまえだと思った」
ルシファーは黙って彼を見た。ロゼエルは右手を開いた。その掌に、小さな炎が灯る。澄んだ赤だった。
「……火のエレメント」
「ああ。俺がミカエルだった頃、司っていた力だ」
炎を見つめるルシファーの顔が、わずかに明るく照らされた。
「これも、おまえに託す」
「地獄を任せるために、そこまでするのか」
「力が必要だろう。何か起きるたびに、俺が来るまで待たせるわけにはいかない」
ルシファーは手を伸ばさなかった。
「俺が何をしたか、忘れたわけじゃないだろうな」
「忘れていない」
「なら、なぜ俺だ」
ロゼエルは掌の火から目を上げた。
「おまえは、天界も地獄も知っている。そこにいる者たちのことも、俺より知っている」
「俺について堕ちた者もいる」
「ああ」
「そいつらを、今度は俺が閉じ込める」
ルシファーの声が低くなった。
「喜んで引き受けると思ったか」
「思っていない」
炎が小さく揺れた。ロゼエルは、差し出しかけた手を止めていた。
「嫌なら断れ。選ぶのはおまえだ」
ルシファーはしばらく黙っていた。
「おまえが作った世界に、俺が納得したわけじゃない」
「分かっている」
「地獄にいる者が、みな従うとも限らない」
「そのときは、知らせてくれ。おまえ一人に押しつけたままにはしない」
ルシファーはロゼエルへ向き直った。
「……なら、俺が見る」
手が伸びた。指先が炎に触れると、赤い光が腕を伝い、翼へ走った。羽の隙間から深紅の光が漏れ、広間の壁を照らす。炎は彼を焼かなかった。その身体へ、静かに溶けていった。
光が収まると、ルシファーは掌を開いた。小さな火が灯る。彼が指を閉じると、その火も消えた。
「扱えるか」
「誰に聞いている」
ロゼエルの口元が、少しだけ緩んだ。
「それと、もう一つ」
今度は、一本の剣を取り出した。鞘に収まったまま、両手に載せる。ルシファーは、その柄を見た瞬間に分かった。
幾度となく、自分へ向けられた剣だった。
「……それまで渡すのか」
「ああ」
「おまえの剣だろう」
「よく知っているはずだ」
「忘れるものか」
ルシファーは柄に触れた。受け取って鞘を引くと、見覚えのある刀身が現れる。この刃を受けたときの響きを覚えていた。
その刃に、自分の炎が走った。
赤い光を見つめ、ルシファーはゆっくりと剣を鞘へ戻した。
「おまえは、何を使う」
「別の剣を考えている」
「また、妙なものを持ち出すつもりか」
「まだ見せていないだろ」
「おまえのことは知っている」
二人は短く笑った。それきり、広間はまた静かになった。ルシファーは受け取った剣を腰へ収める。
「礼は言わんぞ。仕事を増やされた」
「引き受けてくれて、助かった」
ロゼエルが出口へ向かうと、背後から声がした。
「ロゼエル」
振り返った。ルシファーが、新しい名を確かめるように彼を見ていた。
「地獄は俺が治める。だが、そこで何が起きているか、おまえも見に来い」
「ああ。必ず」
ロゼエルは頷いた。
「それから、ガブリエルたちにも会ってほしい。話しておきたいことがある」
ルシファーは少し黙り、腰の剣へ手を添えた。
「……分かった」
ルシファーはもう一度、掌に炎を灯した。剣を抜く必要はなかった。今はただ、その火が自分の手の中にあることを確かめていた。
◇
それからしばらく後、天界中央宮の会議室に、ガブリエル、ウリエル、ラファエルの三人が集まった。窓の向こうには雲海が広がり、卓を囲む四つの椅子のうち、一つだけが空いていた。
「……で」
ラファエルが気だるげに頬杖をついた。長い灰緑色の髪が肩から落ちる。その目は、扉と空いている椅子を順に見ていた。
「私たちを集めたってことは、何かあるんだろ?」
「まだ何も聞いていませんよ」
ガブリエルが答えた。長い水色の髪が、肩を滑る。端正な美貌に浮かぶ表情は穏やかだったが、その目には知性が感じられた。
ウリエルは大きな身体を椅子に預け、窓の外を眺めていた。明るい茶色の髪に、爽やかな面差し。扉の開く音へ顔を向けると、親しみやすい笑みが浮かんだ。
ロゼエルが入ってきた。その後ろに、ルシファーが続いた。腰の剣を見て、ガブリエルがわずかに目を見開く。ラファエルが頬杖をやめ、ウリエルが立ち上がった。
「久しぶりだな、ルシファー」
「相変わらずだな、お前は」
ルシファーは部屋に入り、空いていた椅子の前で足を止めた。三人が同じ卓を囲んでいる。誰も、その椅子へ座るよう急かさなかった。
やがて彼は、椅子を引いた。
ガブリエルがロゼエルを見た。
「これは、どういうことでしょう?」
「地獄の管理を、ルシファーに任せた。火のエレメントも託している」
ルシファーが掌を開いた。小さな炎が灯る。その火を、三人が見ていた。
「……ミカエルの火ですね」
ガブリエルの声に、ロゼエルは頷いた。
「これからは、ルシファーに火のエレメントを任せる」
ウリエルが席に戻った。ラファエルは椅子に深く座り直し、四つの席を見渡した。
「また四人か」
ルシファーは三人の顔を見た。水を司るガブリエル、土を司るウリエル、風を司るラファエル。その三人と、今、火を託された自分が同じ卓を囲んでいた。
「地獄は俺が見る。天界のことは、おまえたちに任せる」
彼が言うと、ガブリエルは静かに頷いた。
「ええ。こちらは任せてください」
それだけのやり取りだった。昔のことを誰も口にしなかった。だが、忘れてここに集まっているわけでもなかった。
ルシファーは掌の炎を消した。
ロゼエルが四人の前に立った。
「今日から、お前たちを――」
ロゼエルは一度、言葉を切った。四人の顔を見渡してから、静かに告げる。
「新生四大天使とする」
誰も言葉を発しなかった。
ルシファーの掌に、再び小さな炎が灯った。ガブリエルも、ウリエルも、ラファエルも、その火を見ていた。
かつてミカエルが持っていた火。
今はもう、ルシファーの火だった。
四大天使は、再び四人になった。




