第1話 ロゼエルの就任式
最高神ヤハウェが後継者に選んだのは、大天使ミカエルだった。四大天使の一柱として火を司り、天界の戦いの最前線に立ち続けてきた天使である。
勝てば、守れるものがあった。けれど、ひとつの戦いが終わるたび、次の戦いが待っていた。剣を振り続けるだけでは、この争いは終わらない。最高神になれば、世界の仕組みそのものを変えられる。ミカエルは、そのために神の座を望んだ。
神の位を継ぐには、二つの条件があった。一度、人間として生きること。そして、その限られた生涯の中で、自分の魂の片割れを見つけること。人間界へ降りれば、天使としての記憶も力も失う。誰を探しているのかも、どこにいるのかも分からなくなる。出会えるという保証さえなかった。
「行くか?」
ヤハウェの問いに、ミカエルは顔を上げた。
「ああ」
ミカエルは迷わなかった。
「俺が最高神になれば、この戦いを終わらせられる」
その覚悟を胸に、ミカエルは人間として生まれた。
人間の苦しみを、彼は知っているつもりだった。だが、誰かの痛みを見つめることと、自分の身体で受けることは違っていた。信じていた者に裏切られ、努力しても報われず、ようやく立ち上がった先で、また大切なものを失った。剣で斬れば済む相手はいなかった。どれほど強くなっても、自分では変えられないことがあった。
それでも、その世界には、自分も苦しいのに誰かを助ける者がいた。傷ついたまま、誰かに手を伸ばす者もいた。その生涯の中で、彼もまた、かけがえのない魂に出会った。
やがて人間としての生涯を終え、ミカエルは天界へ帰還した。
ヤハウェの傍らには、金色の髪の天使が立っていた。白い肌に、人形のように整った顔立ち。少女の姿をした彼女は、白を基調に淡いピンクを添えた衣をまとい、背には白い翼が静かにたたまれている。その佇まいには、どこか儚い雰囲気があった。
彼の姿を見つけると、彼女は顔を上げた。その表情が、わずかにほころぶ。
「おかえりなさい、ミカエル」
マキエルだった。
「ああ。ただいま」
ミカエルの表情が、少しだけ緩んだ。それ以上、二人は何も言わなかった。ヤハウェは二人を見てから、ミカエルに尋ねた。
「人間はどうだった?」
「……大変だったな」
「それだけか?」
「それだけで済むと思うか?」
ヤハウェが笑った。
「人間に失望したか?」
「何度もな」
ミカエルは答えた。
「だが、それだけで片づけるには惜しい生き物だ」
ヤハウェは静かに頷いた。そして、マキエルへ一度だけ目を向けた。
「もう一つの条件も、満たしたようだな」
二人の視線が、一瞬だけ重なった。ヤハウェは玉座から立ち上がった。
「私の座を、お前に託す」
「受け取る」
ミカエルが差し出された手に触れた瞬間、世界が押し寄せた。星の運行も、生まれていく生命も、天界と地獄を行き交う魂も。時間と因果の繋がりまで、一度に彼の中へ流れ込んできた。ミカエルは思わず片膝をついた。
「……多すぎる」
「それが最高神の視界だ」
「先に言え」
「言ったらやめたか?」
ミカエルは顔を上げた。
「まさか」
自分の足で立ち上がると、やがて光が静まった。光の奥に、もう一つの領域があった。アカシックレコード。この世界で起きた、あらゆる出来事の記録である。誰が生まれ、誰と出会い、何を選び、何を残したのか。世界が歩んだ時間が、そこに刻まれていた。最高神には、その記録を書き換える力があった。記録が変われば、世界もそれに従って姿を変える。
ミカエルは、その中に自分の記録を見つけた。人間として使っていた名前、暮らしていた場所、出会った人々と交わした言葉。誰かの記憶の中には、まだ彼がいた。
「消すのですか?」
マキエルが尋ねた。
「ああ」
彼は本来、人間界に生まれる魂ではなかった。神の位を継ぐために受けた、一度きりの生だった。試練を終えた今、世界を本来の形へ戻す。そのつもりで、この記録に向き合っていた。苦しい生涯だったが、悔いてはいなかった。
ミカエルはしばらく記録を見つめ、それから手を伸ばした。人間界から、一人の男の痕跡が消えていった。名前も、記録も、彼を知る者たちの記憶も。世界は静かに辻褄を合わせ、彼のいない時間をつないでいった。
続いてミカエルは、人間界と悪魔の間にある境界へ目を向けた。悪魔たちは傷ついた心につけ入り、不安や憎しみを煽っていた。人間はその声を、自分の思いだと信じてしまうことがあった。
「人間の苦しみを、奴らの足場にはさせない」
ミカエルは世界の法則に、新たな一文を刻んだ。悪魔は、人間の意識へ侵入できない。思考にも、感情にも、夢にも。人間の内側へ入り込む道が閉ざされ、無数の繋がりが断ち切られていった。
「人間自身の憎しみまでは、消さない」
ミカエルは言った。人間の心には、醜さも優しさもある。何を選ぶかまで神が決めれば、彼らが自分で生きることにはならない。
「だが、その選択に悪魔の手は入れさせない」
隣でマキエルが両手を重ねた。
「……世界が、平和になりますように」
最後の繋がりが切れるまで、彼女は静かに祈っていた。
すべてを終えると、ミカエルはしばらく人間界を眺めた。
「これで、あなたが人間として生きていたことを知る者もいなくなりましたね」
「いや。一人いる」
マキエルが彼を見た。二人の間に、静かな沈黙が流れた。
「寂しくありませんか?」
ミカエルは少し考えた。それから、隣にいる彼女へ顔を向けた。
「隣に君がいる。それで充分だ」
マキエルは一瞬だけ目を見開き、やがて微笑んだ。
「……そうですね」
ヤハウェが二人に歩み寄った。
「お前はもう、四大天使ミカエルではない。新たな名を名乗れ」
ミカエルは玉座を見上げた。人間として使っていた名前は、世界から消えた。けれど、そこで生きた記憶は自分の中に残っている。日本で暮らしていた頃に知った、二つの記号を思い出した。0と∞。ゼロから、無限へ。
ゼロの響きを逆さにして、ロゼ。そこに、古代ヘブライ語で神を意味する「エル」を重ねた。
「――ロゼエル」
「それがお前の新しい名か」
「ああ」
ヤハウェは、初めてその名を呼んだ。
「最高神ロゼエル」
ロゼエルは玉座を見上げた。手に入れた力で、長く続いた戦いを終わらせる。そのために、ここへ帰ってきたのだった。隣で、マキエルが新しい名を呼んだ。
「ロゼエル」
彼は振り返った。マキエルが呼ぶと、その新しい名も自然に馴染んだ。
ヤハウェが広間を出ると、扉が静かに閉まった。
ロゼエルは、誰も座っていない玉座を見上げた。つい先ほどまで、そこにはヤハウェがいた。長く天界を治めてきた神は、後継者へすべてを託し、去っていった。
「まだ、呼び慣れないね」
「さっき決めたばかりだからな」
マキエルが少しだけ笑った。神位の継承を見届けた彼女は、ヤハウェが去ったあとも、彼の隣に残っていた。
彼女は、彼の魂の片割れだった。
人間だった二人は、そのことを知らずに惹かれ合った。ともに過ごせた時間は短かったが、天界へ帰還した彼を、今度はマキエルが待っていた。
ふと、壁に掛けられた鏡へ目を向けた。
西洋の青年を思わせる顔立ちは、見慣れた自分のものだった。背は高く、長く剣を振るってきた身体には厚みがあった。静かに立っているだけでも、その強さは伝わった。黒を基調に、バーガンディを添えた衣が、その姿によく馴染んでいた。
けれど、髪の色が変わっていた。
濃い紫色だった。赤とも青とも違う、そのあいだの色。
ロゼエルは前髪に触れた。
「髪まで変わったのか」
マキエルも鏡をのぞき込んだ。
「……似合ってる」
彼は鏡の中の彼女を見てから、もう一度、自分の髪へ目を戻した。
「座ってみないの?」
マキエルの視線は、玉座へ向いていた。
「まだ、座る気にならない」
「自分の玉座なのに?」
「見ているだけで十分だ」
彼女が小さく笑った。
玉座の後ろには、大きな窓があった。白い塔と、それらを結ぶ橋。雲海の向こうまで、天界の街が続いている。
何度も見てきた景色だった。
戦いを終えて帰るたび、あの街の明かりを見た。次はいつ戻れるのか分からないまま、出ていったこともある。
今度は、自分がここを治める。
「これから忙しくなるね」
「だろうな」
「まず、何をするの?」
ロゼエルは少し考えた。
「会わなければならない者がいる」
マキエルは顔を上げた。彼の表情を見て、それ以上は尋ねなかった。
「じゃあ、私は先に戻ってるね」
「ああ」
ロゼエルは窓から離れた。
最高神になったからといって、これまでの戦いが消えるわけではない。剣を向けた相手も、失った者たちも覚えている。
ただ、今までとは違うことができる。
ロゼエルは広間の扉へ向かった。
「ロゼ」
「ん?」
短く呼ばれた名に、彼は振り返った。
「その呼び方でもいい?」
「好きに呼べばいい」
マキエルは小さく笑った。
ロゼエルは扉を開き、一人で広間を出た。




