第18話 音の前に
招かれた日の朝、ロゼエルとマキエルは再び高天原を訪れた。
神殿の石段を下りたところで、アマテラスに呼び止められた。
「お二人に、これを」
差し出されたのは、水面と琵琶の絵が描かれた細長い札だった。
「弁財天の演奏会です。今夜、湖の上の舞台で開かれます。お会いしていただきたいのは、こちらの方なんです」
マキエルが札を覗き込んだ。
「私たちも行っていいんですか?」
「もちろん。弁財天も喜びますよ」
二枚の札に記された席は隣同士だった。マキエルはそれに気づき、嬉しそうにロゼエルを見た。
「楽しみだね、ロゼ」
「ああ」
「聴くより弾くほうが好きそうだけど」
「聴くのも好きだ」
「私は、ロゼの歌声が好き」
不意に言われ、彼は札から顔を上げた。
「今は俺の話じゃないだろ」
「うん。ただ言いたかっただけ」
マキエルは笑った。アマテラスも二人を見守っていた。
「舞台の周りは、日が落ちると灯籠がきれいなんです。少し早めに行くといいですよ」
二人は演奏会への道を確かめに、湖へ向かった。
橋に近づくと、水面に浮かぶ舞台が見えた。神々が灯籠を運び、楽器の位置を整えている。弦を確かめる短い音が、風に乗って届いた。
「今の、聴こえた?」
「ああ」
「まだ一音なのに、きれい」
舞台までは距離があったが、その響きは橋の上までまっすぐ届いていた。
「今夜はもっと近くで聴ける」
「うん」
歩き出した二人の向こうから、男女が来た。
男は真ん中で分けた黒髪に赤い鉢巻を締め、黒い道着をまとっていた。肩には深紅の布が掛かり、手には長い槍がある。ロゼエルへ向けた眼差しには勢いがあり、いかにも血の気の盛んな武人といった風貌だった。
隣の女は、白と深紅の衣をまとっていた。長い黒髪はシャギーカットで、毛先に軽い動きがある。気の強そうな美女だった。男が二人を見定めている間に、彼女はまっすぐこちらへ目を向けた。
女が先に足を止めた。
「アマテラス様のお客様ですね。吉祥天です」
マキエルが名乗ると、吉祥天は白い翼に目を向けた。
「湖へ行かれるところですか」
「はい。今夜の演奏会に招かれて」
「それなら、橋の向こうから舞台がよく見えます」
横にいた男も、ロゼエルへ顔を向けた。
「俺は毘沙門天だ」
「ロゼエルだ」
「知っている。弁財天とは七福神の仲間でな。今日は妻と舞台を見に来た」
ロゼエルは相手の槍を見た。穂先には覆いが掛かっていたが、柄の握り跡だけで、使い込まれた武器だと分かった。
「演奏会の準備を手伝っていたのか」
「妻の付き添いだ。俺に楽器は運ばせてもらえない」
「以前、弦の張られたものまで持ち上げましたから」
吉祥天は淡々と言った。
「壊してはいない」
「弁財天に止められました」
マキエルが笑うと、毘沙門天は否定せず、橋へ顔を向けた。
「舞台を見るなら案内しよう。俺たちもそちらへ戻る」
四人は並んで歩き出した。
橋の上では、湖を渡る風が強くなった。マキエルの翼が揺れると、吉祥天は歩調を落とした。
「夜は冷えます。羽織るものを持ってきたほうがいいでしょう」
「ありがとうございます。吉祥天様も、演奏会を?」
「ええ。毎年、聴いています」
「お気に入りの曲があるんですか?」
吉祥天は舞台を見てから答えた。
「同じ曲でも、その年によって違って聞こえるので」
「今夜は、どんなふうに聞こえるんだろう」
「それは、始まってからのお楽しみです」
二人の少し後ろで、毘沙門天がロゼエルへ声をかけた。
「スサノオと剣を交えたそうだな。そのあとも、大剣を使っているのか」
「ああ」
「扱いにくそうな武器だ」
「実際、難しい。振り始めたら攻撃に集中するしかない」
「守りを捨てるのか」
「捨てたくはない。だが、半端に振れば隙ができる」
ロゼエルは少し考えた。
「だけど、俺の性格には合ってるんだ」
「どういう性格だ」
「一度決めたら、振りきりたい」
毘沙門天は声を立てずに笑った。
「いい答えだ」
橋を渡りきると、石畳の広い境内に出た。奥には鳥居があり、その向こうには木々が続いていた。演奏会へ向かう神々は湖沿いを歩いていたが、境内は空いていた。
毘沙門天が立ち止まった。
「俺も、槍を思いどおりに扱いたくて稽古を続けている。話を聞いたら、余計に見たくなった。その大剣を振ってみせてくれないか」
「相手をするつもりか」
「ああ。演奏会が始まるまで、少し付き合ってくれ」
吉祥天が二人の間に目を向けた。
「灯籠に火が入る前には終えてください」
「分かっている」
「そうおっしゃると思いました」
マキエルがロゼエルの袖に触れた。
「ロゼ」
「ああ。今夜は二人で聴く」
「うん」
彼女は手を離し、吉祥天とともに境内の端へ下がった。




