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第16話 19の春

挿絵(By みてみん)

 三月の終わりだった。


 病院の一階に、大きな窓に面した小さな休憩スペースがあった。診察を終えた彼女は、そこで紙コップの紅茶を両手に持っていた。飲むためというより、冷えた指を温めるためだった。


 窓の外では、桜が半分ほど開いていた。


 彼女は十九歳だった。子どものころから、家と病院を行き来して暮らしていた。学校へ通えない日も多かったので、同じ年ごろの人たちが何を話し、何を楽しんでいるのか、よく知らなかった。


 少し離れた席に、一人の男が座っていた。スマートフォンを見ている。足元には、大きなギターケースがあった。


 彼女が何となくそちらを見たとき、雲の間から日が差した。


 男の髪が、紫色になった。


 それまで黒に見えていた髪に、ほんの少しだけ隠れていた色だった。春の光が、その色を見つけたのだ。


 綺麗だな、と彼女は思った。


 知らない人に声をかけることなど、めったになかった。まして、知らない男の人だった。髪を褒めるためだけに呼び止めたら、変に思われるかもしれない。


 紅茶を一口飲んだ。


 やっぱり、やめよう。


 もう一口飲んだ。


 でも、伝えたい気もした。


 迷っているうちに、男が立ち上がった。ギターケースに手を伸ばす。


「あ、あの……!」


 声は、思ったより大きく出た。


 男が振り返った。


「ん?」


 彼女は紙コップを握り直した。言いたかったことは、ついさっきまで分かっていたのに、もうどこにも見当たらなかった。


「髪……」


「髪?」


「少し、紫に染めてますか?」


 男は前髪に触れた。


「ああ。ほんの少し」


「さっき、光が当たって」


「うん」


「すごく綺麗だったので」


 そこまで言うと、彼女は下を向いた。


「すみません。それだけです」


 男は窓を見た。まだ日が差していた。


「ありがとう」


 彼女は小さく頷いた。


 男はケースを持って歩き出したが、数歩先で振り返った。


「そんなに緊張して言うことだった?」


「してません」


「してたよ」


「してません」


 紙コップが、かすかに震えていた。


 二人ともそれを見た。


「これは……寒いだけです」


「そっか」


 男は笑って、今度こそ帰っていった。


 彼女は紅茶を飲み切るまで、その席にいた。もう熱くもないのに、両手で大事そうに持っていた。


 一週間ほどして、二人はまた病院で会った。


「あ」


 男の方から声をかけた。


「紫の人……」


 彼女は言ってから、口を閉じた。


「そういう覚え方?」


「すみません」


「この前、髪を褒めてくれた人だ」


「それも同じじゃないですか」


 二人は少し笑った。


「どうして紫にしたんですか?」


「ちょっと個性を出したくて。気まぐれだけど」


「色白だから、似合ってます」


「ありがとう。君のほうが白いけどね」


 彼女は自分の手を見て、少し笑った。


 彼は知人の見舞いに来ているのだった。彼女は通院だった。


「今日はギター、ないんですね」


「毎回持ってきたら変な人だろ」


「前回は持ってましたよ」


「あれは、たまたま」


「弾くんですか?」


「一応」


「歌も?」


「一応」


 彼女が笑った。


「一応ばっかりですね」


「便利だから」


 今度は、手が震えなかった。


 それから、ときどき話すようになった。


 会えない週もあれば、二日続けて会うこともあった。彼女は診察が終わると、あの休憩スペースを少しだけ覗くようになった。


 彼も、見舞いを終えてすぐには帰らなくなった。


 ある日、彼女は点滴を終えたばかりだった。


「顔色、悪いけど」


「いつもこんな感じです」


「それ、大丈夫って意味?」


「大丈夫じゃないけど、いつも通りって意味です」


「難しいな」


「私もそう思います」


 その日、彼女は病気のことを話した。


 生まれつき心臓に病気があること。何度か大きな治療を受けたこと。それでも、少しずつ弱っていること。


 彼は黙って聞いていた。


 大変だな、とも、かわいそうだ、とも言わなかった。彼女には、それが楽だった。


「部活とか、旅行とか、あんまりしたことないんです」


「したかった?」


「みんなが楽しそうだと、いいなとは思います。でも、自分も同じことをしたいかっていうと……よく分からないです」


 彼女はできないことを隠さなかった。歩いて息が苦しくなれば、自分から立ち止まった。無理をしているようにも、不満を堪えているようにも見えなかった。


「諦めてるみたいだな」


 彼が言うと、彼女は顔を上げた。


「諦めたわけじゃないですよ」


「じゃあ?」


「慣れただけです」


「似てない?」


「全然違います」


 そこだけは、はっきりした声だった。


 彼はそれ以上、何も言わなかった。


 彼女の話を聞くことはできる。隣に座ることもできる。けれど、夜中に息が苦しくなったとき、その苦しさを代わってやることはできない。


 彼女は、そんな夜を幾つも一人で越えてきたのだろう。


 彼は初めて、彼女の静かな話し方の奥にある孤独を感じた。


 話題が変わると、彼女はまた笑った。彼の何気ない話にも、初めて知ることを見つけるように耳を傾けていた。


 笑いが収まっても、彼は目を離せずにいた。


 綺麗だと思った。その儚さも、簡単には折れないところも。


「何ですか?」


 尋ねられて、ようやく目を逸らした。


「いや。もう少し話したいなと思って」


 その日、二人は連絡先を交換した。


 しばらくして、彼女からメッセージが来た。


『そういえば、ギターを弾いてるところ、見たことないです』


『TikTokに少しある』


 送られてきたリンクを、彼女はベッドの上で開いた。


 顔はほとんど映っていなかった。ギターと、それを弾く指。そして歌声。


 一本目を最後まで聴いて、次の動画を開いた。その次も聴いた。


 音楽には詳しくなかった。ただ、その声を聴いていると、部屋に一人でいることが気にならなくなった。


 翌日、感想を送った。


『本当にギター弾けるんですね』


『そこ?』


『歌もちゃんと歌えるんですね』


『だからそこ?』


 彼女は笑った。


 それから少し迷って、もう一つ送った。


『声、好きです』


 すぐに既読がついた。


 返事は、五分後に来た。


『どうも』


 彼女はスマートフォンを胸元に置いて、しばらく笑っていた。


 ある春の日、二人は公園へ行った。


 遅咲きの桜が、一本だけ残っていた。彼はベンチの脇にギターケースを下ろした。


「曲、できた」


「本当に?」


「途中まで」


「途中なんですか」


「途中でも聴ける」


「じゃあ、聴きたいです」


 彼は弦を鳴らした。


 まだ指になじんでいない曲だった。途中で少し間違えたが、そのまま歌った。


 最後の音が消えると、彼女は俯いていた。


「どうした?」


 顔を上げた彼女は、泣いていた。


「悲しい?」


「違います」


「嬉しい?」


「それも、よく分かりません」


「じゃあ、何なんだよ」


 彼女は目元を拭った。


「動画で聴いたときは、こんなことなかったのに」


「何が?」


「目の前で歌ってると、涙が出るんです」


 自分でも不思議そうだった。


「よく分からないけど、幸せなんです」


 彼はギターを抱えたまま、何も言えなかった。


「また、歌ってください」


「珍しいな」


「何がですか?」


「君が何か欲しいって言うの」


 彼女は少し考えた。


「じゃあ、これは欲しいです」


「歌?」


「あなたの歌声」


 彼は目を逸らした。


「了解」


 さっき間違えたところを、彼はもう気にしていなかった。


 五月、診察を終えた彼女は、自動販売機の前に立っていた。買ったばかりの飲み物を、開けずに持っていた。


「悪かった?」


 彼が尋ねると、彼女は頷いた。


「先生に、一年後のことは約束できないって言われました」


 彼は黙った。


 彼女は缶についた水滴を指でなぞっていた。泣いてはいなかった。


 大丈夫だとは、言えなかった。


 代わりに、彼は尋ねた。


「二十歳になったら、何したい?」


 彼女は少し考えた。


「海」


「海?」


「二十歳の私が見る海は、まだ見たことがないので」


 彼は彼女を見た。


「じゃあ、行こう」


「いつですか?」


「二十歳になったら」


 彼女の指が止まった。


「約束してくれるんですか?」


「うん」


 彼女は小さく笑った。


「嬉しいです」


 その日から、二十歳の海は、二人で待つものになった。


 初夏になるころには、会うことが増えていた。


 公園のベンチに座ったり、小さな喫茶店へ入ったりした。彼がギターの弦を買うのについていくこともあった。


 疲れれば帰った。それで一日が終わっても、彼女は楽しそうだった。


 ある日、彼女が言った。


「誰かを好きになったら、もっと大変だと思ってました」


 彼の手が止まった。


「誰の話?」


「私の話です」


「そっか」


 彼女は頷いた。


「私、恋愛はしないと思ってたんです」


「なんで?」


「欲しいものが増えそうだから」


 彼女は指を折った。


「次に会う日とか」


 もう一本、折った。


「来年とか」


 そこで、手を止めた。


「前は、死ぬことって、そこまで怖くなかったんです」


「今は?」


「前より嫌です」


 彼は黙っていた。


「あなたのせいです」


「責任重大だな」


「はい」


 彼女は笑っていた。けれど、その手は彼の袖を少しだけ掴んでいた。


 彼も、まだ帰りたくなかった。


 秋が近づくと、彼女が外を歩ける時間は短くなった。


 ある日、二人は病院の屋上にいた。


「欲しいもの、増えました」


「今さら?」


「はい。今さらです」


「何が欲しい?」


「明日」


 彼は彼女を見た。


「あと、あなたといる時間」


 彼女は前を向いていた。


「もっと欲しいです」


 風に吹かれた髪を、彼女は耳にかけた。


「前は、こんなに欲張りじゃなかったんですけどね」


「後悔してる?」


 彼女はすぐに首を振った。


「あなたを好きになったことは、後悔してません」


 彼はしばらく黙っていた。


「俺も、同じだよ」


 彼女が振り向いた。


「そういうの、言葉だと恥ずかしいから。今度、歌にする」


「楽しみにしてます」


 二人はもう少し、屋上にいた。


 冬も終わりに近づいたころ、彼女はほとんど病室を出られなくなった。


 二十歳まで、あと少しだった。


 ある晴れた朝、彼が病室に入ると、彼女は肩のギターケースに気づいた。


「持ってきたんですか?」


「一応」


「病室ですよ」


「知ってる」


「怒られますよ」


「見つかったらな」


 彼女は笑った。


「不良ですね」


「今さら?」


 彼は椅子に座って、ケースを開けた。


 窓から朝の光が入っていた。彼の髪に、あの日と同じ紫が浮かんだ。


 彼女はそれを見ていた。


「何?」


「なんでもないです」


 彼はギターを抱えた。


「前に言ったでしょう。欲しいもの」


「俺の歌声?」


「はい。まだ欲しいです」


 彼が弦を鳴らすと、思ったより大きな音がした。


 二人は同時にドアを見た。


 誰も来なかった。


「びびってるじゃないですか」


「うるさい」


 今度は、小さく弾いた。


 彼女がすぐに顔を上げた。


「あの曲」


「覚えてた?」


「忘れるわけないでしょう」


 彼は歌った。廊下へ届かないように、小さな声で。


 彼女は黙って聴いていた。


 最後の音が消えると、そっと手を叩いた。


「短いですね」


「途中までだから」


「まだ完成させてないんですか?」


「うん」


 彼女は少し笑った。


「二十歳になるまでに完成させてください」


 彼の手が止まった。


「海で聴きたいです」


 彼は弦に目を落とした。


「注文、増えたな」


「欲が出たので」


「知ってる」


「あなたのせいですよ」


「それも聞いた」


 以前の彼女なら、何でもいいと言っただろう。どこでもいい、とも。


 今は、行きたい場所があった。聴きたい歌があった。そこで彼と過ごす、まだ来ていない一日が欲しかった。


 彼は最初のコードを、もう一度鳴らした。


「もう一回?」


「欲しいんだろ」


「はい」


 歌い始めてすぐ、廊下で足音がした。


 二人とも黙った。


 足音が遠ざかると、彼女が笑いを堪えていた。


「何がおかしい?」


「悪いことしてるみたい」


「してるんじゃない?」


「共犯ですね」


「じゃあ、黙ってろよ」


「はい」


 彼女は嬉しそうに頷いた。


 その朝、病室に小さな歌声が流れていたことを、二人以外は知らなかった。


 ある昼下がり、彼はベッドの横に座っていた。


「最初に会った日のこと、覚えてますか」


 彼女が尋ねた。


「髪?」


「はい」


 彼女は少し笑った。


「今でも不思議なんです。どうして声をかけたんだろうって」


「綺麗だったからじゃないの?」


「そうなんですけど。知らない人に、あんなこと言わないんですよ」


「震えてたしな」


「恥ずかしかったんです」


「知ってる」


 彼女は目を閉じた。


「でも、声をかけてよかったです」


 彼は何も言わず、その顔を見ていた。


「もし、次があるなら」


 少しして、彼女が言った。


「顔も名前も違っていいです」


「ずいぶん適当だな」


「髪の色も」


 彼女は薄く笑った。


「でも、声を聞けば分かる気がするから」


 彼は彼女の手を握った。


 次があるのかどうか、彼には分からなかった。けれど、ないと言う気にはなれなかった。


「私、あなたに会ってから、弱くなりました」


「死ぬのが怖くなった?」


「前より、ずっと」


 彼女は目を開けた。


「でも、生きてることも、前より好きになりました」


 握った手から返ってくる力は、ほとんどなかった。


「私が欲しかったもの、全部くれました」


 彼は首を振ろうとした。


 海には、まだ行っていない。歌もできていない。明日だって、渡してやれない。


 けれど彼女は、満足そうに彼を見ていた。


「だから……もし、つらいときがあったら」


 彼女は息を吸った。


「いつでも、ここに戻って来てください」


 それが、最後の長い言葉になった。


 彼女は二十歳にならなかった。


 春を待たずに、亡くなった。


 彼は、あの曲の続きを作らなかった。


 作れなかったのではない。彼女が聴いたところまでで、その歌は終わっていた。


 TikTokにも、その曲だけは載せなかった。


 あれは、彼女が欲しいと言った歌だった。


 一年後、彼は一人で海へ行った。


 ギターは持っていかなかった。歌うつもりもなかった。


 髪は黒に戻していた。


 二十歳になった彼女が、どんな顔でこの海を見たのか。それを知ることはできない。


 彼の中にいる彼女は、いつまでも十九歳だった。


 歌を聴いて、嬉しそうに手を叩く笑顔。


 そして、初めて会った日。紙コップを震わせながら、髪の色を褒めてくれた彼女。


 あのとき、気まぐれに紫に染めていなかったら、彼女は声をかけてこなかっただろう。


 出会えてよかったと、心から思う。


 波が寄せては返していた。


 世界は何事もなかったように続いている。それを残酷だと思ったこともあった。


 けれど、続いているからこそ、持っていけるものもある。


 彼は海に背を向けた。


 数歩進んでから、一度だけ足を止める。


 振り返らずに、小さく言った。


「じゃ、またね」


 返事はなかった。


 波の音だけが続いていた。


 その中に、聞き覚えのある声が混じったような気がした。


 彼は確かめなかった。


 そして、来たときより少しだけ軽やかな足取りで歩いていった。


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