第15話 それでも世界は美しい
天界のテラスで、ロゼエルはギターを膝に置いていた。白い花が風に揺れていた。
先ほど見た魂の行く末が、まだ頭に残っている。指先で弦に触れたが、音を続ける気にはなれなかった。
「難しい顔してるね」
隣に座ったマキエルが、彼の横顔を見ていた。
「……簡単な答えは、見つかったんだけどな」
「地獄をなくす方法?」
「ああ。使う気にはならなかった」
ロゼエルはテラスの花へ目を向けた。魂を消さずに地獄をなくす方法は、まだ見つかっていない。
「俺はあいつに、面倒な仕事を押しつけた」
「でも、任せたんでしょう?」
「ああ」
「なら、今はそれでいいんじゃない?」
「ずいぶん簡単に言うな」
「だって、ロゼが全部やる必要はないでしょう?」
彼が答えずにいると、少し離れた場所から声がした。
「彼女の言う通りだと思うよ」
イエスが紅茶のカップを置いた。
「聞いてたのか」
「聞こえるところで話していたからね」
「地獄をなくすの、無理だと思う?」
「難しいとは思うよ」
「そこは少しくらい励ましてくれてもいいだろ」
「できると言ってほしかった?」
「いや」
「なら、難しい」
「相変わらずだな」
イエスは笑った。
「でも、不可能だとは言っていないよ」
白い花が風に揺れた。
「人は昔から、難しいことばかり願ってきた。争いをなくしたい。苦しむ者を救いたい。愛する者と、もう一度会いたい」
イエスはカップへ視線を落とした。
「叶わなかった願いは数え切れない。それでも、願うことをやめなかった。君も似たようなことをしているだけじゃないかな」
「俺は神だけど」
「知ってるよ」
「最高神だ」
「それも知ってる」
ロゼエルは少し考えた。
「なら、もう少し何とかならないのか」
「最高神って大変だね」
「他人事だな」
「他人だからね」
マキエルが笑った。ロゼエルは言い返しかけてやめ、ギターへ視線を落とした。
指が弦の上を滑り、静かなアルペジオが流れ始めた。以前よりも音が自然になっていた。強く鳴らすところ、響きを残すところ、あえて弾かずに待つところ。コードを追うだけだった指が、少しずつ自分の音を見つけていた。
ロゼエルは小さく歌い始めた。穏やかな、静かな曲だった。
マキエルは何も言わずに聴いていた。イエスもカップを手に、目を閉じた。
最後のコードが、しばらく空気の中に残った。
「上手くなったね」
イエスが目を開けると、ロゼエルは頷いた。
「まあね」
「そこは否定しないんだ」
マキエルが言った。
「実際、前より弾けるから」
「自分で言うんだ」
「事実だろ」
彼女が笑うと、イエスも楽しそうにカップへ口をつけた。
「でも、前より弾くようになったよね」
ロゼエルの指が止まった。
「そうか?」
「この間も、弾いていたでしょう?」
「暇だった」
「その前にも」
「暇だった」
「聴いてると、少しずつ変わってる」
「ずいぶん見てるな」
「近くにいるから」
ロゼエルは再びギターを構え、今度は少し速い曲を弾き始めた。先ほどより難しかったが、指は止まらなかった。
「なるほど」
イエスの声に、ギターの音が止まった。
「何だ」
「いや、別に」
「その顔やめろ」
「僕は何も言ってないよ」
マキエルがイエスを見た。
「何か知ってるんですか?」
「さあ」
「二人とも、くだらないこと考えてないで聴け」
「はいはい」
ロゼエルが眉を寄せた。
「マキまで適当になってない?」
「気のせい」
再びギターが鳴った。今度は誰も口を挟まなかった。
白い花が、風に揺れていた。地獄はまだある。救えていない魂もいる。最高神になったところで、世界が完成したわけではなかった。
ルシファーとの約束を、ロゼエルは忘れていない。答えはまだ見つからなかったが、隣にいるマキエルの顔を見て、弦に置いた指を動かした。
その音を、マキエルが隣で聴いていた。少し離れたところでは、イエスが静かに紅茶を飲んでいた。
同じ景色を見て、同じ音を聴き、くだらない話で笑う。世界には苦しみがあり、それでも、こんな午後があった。
ロゼエルは顔を上げた。テラスには、柔らかな光が差していた。
それでも、世界は美しい。
ロゼエルは視線を弦へ戻した。少し間を置いて、別の曲を弾き始めた。
最初のコードが鳴ると、マキエルが顔を上げた。
ロゼエルが小さく歌い始める。
なんだか懐かしかった。いつ、どこで聴いたのかは思い出せなかった。
マキエルの目から、涙が溢れた。
ロゼエルは弦へ視線を落としたまま、歌い続けていた。
彼女は涙を拭わずに聴いていた。




